「リアルを得るにはフェイクを多様するしかない!世代が違っても共通したものを親子の視点で描く!!」エル プラネタ バフィーさんの映画レビュー(感想・評価)
リアルを得るにはフェイクを多様するしかない!世代が違っても共通したものを親子の視点で描く!!
デザイナーのレオは才能があるのだろうが、環境のせいで活躍できないという、環境や地域、経済的な格差に悩む女性。クリスティーナ・アギレラの仕事の誘いをうけるも、現場まで行く交通費もない。
近くに住んでいたり、そこまでフットワーク軽く行けてしまうような経済的余裕があれば、その仕事を筆頭として、次のチャンスをつかめるかもしれないが、それ自体が難しい状況
これは、デザインやマスコミ系の仕事が都心に集中していて、地方のデザイン学校を出たとしても、その後の就職や仕事を獲るのに、苦労するという日本の現状にも通じる部分がある。
ちなみに今作の舞台になっているのは、2018年頃であるらしいが、確かにこの時期、アギレラが6年ぶりのアルバム「リベレーション」を発表した年であるだけに、アギレラの仕事があるということに辻褄が合う。
冒頭でもレオがネットで知り合った男性(ちなみにこの人はナチョ・ビガロンド)と卑猥な会話をしている。個人売春で金銭を得ようとしているが、自分の思っていた相場とは全く違い、断念する。仮にそういった方法で金銭を得たとしても使い道は、仕事を得るため、自分をアピールするSNSに偽装セレブ生活の演出だったりに使うこと。
ミシンなど家にあるものを売って、ギリギリの生活をおくっているし、母親も借金だらけで、ライフラインの支払いも滞納していて、電気も切られてしまう。
例えば女優を目指す人が、経済的な余裕のなさにキャバクラや風俗の沼にハマる寸前の状態や、バイトに明け暮れることでバイトメインの生活になり、いつしか夢がバイトに消費されていってしまうのと同じであって、国が違うだけで、決して異国の地の物語だけだと割り切ることのできない問題がびっしりと詰まった作品だ。
この様な問題は、今に始まったものではななく、芸術家という職業は食べることができないという定義に説得力をもたせている概念を作り出した時代から常に浮上してくる問題である。
現代においてはYouTubeやSNSで、より自分を主張できる環境となった一方で、自由といっても、そこにも環境格差が発生するという事実を考えると、単純に才能だけあっても、それをプロモーションする能力も同時に強いられるという面では、芸術家たちを以前よりも圧迫しているのかもしれない。
社会風刺でありながらも、コメディ要素も多い作品で、母親がセレブのように振舞うことで、周りにお金持ちだと思わせて、食事や美容、ショッピングなどをツケという手段で回避していく姿は、変化球ではあるが、そこには確実にある親子愛というのが映し出されている。
主演のアマリア・ウルマン自身が、経済的に困窮していた時期があったこともあり、自伝的要素が含まれている。容赦のない社会風刺を描いていながら、皮肉なことに終始、映像がモノクロフォトグラフのようで美しい。
最初からモノクロにしようとしていたけではなく、予算の都合でモノクロにするしかなかったことも、今作の環境によって、挑戦心さえも挫かれてしまうのと逆行して、自分のできる範囲だけでも勝負をかける、アマリアの現在のクリエイター意識にメタ的に繋がっていくのだ。