The Hand of Godのレビュー・感想・評価
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記憶とは概ねあやふやで時々リアルなもの
イタリア映画界の奇才、パオロ・ソレンティーノが生まれ故郷のナポリを舞台に自らの少年時代に思いを馳せる。そう来たか!?と画面を凝視していると、やっぱり冒頭からぶっ飛んでいる。ナポリ湾上を陸地に向かって進んでいたカメラが、途中でターンして再び大海原へと方向を変えるのだ。
それが、監督の分身である少年、ファビエットの決断を意味することが次第にわかってくる。また、ファビエットが憧れていた叔母が辿る悲しい運命、互いに深く愛し合っていた両親を襲った突然の出来事、同時代夢中になっていたディエゴ・マラドーナの存在、そして、俳優を目指していた兄から教えられた映画の魅力、等々が、印象的なショットの積み重ねによって描かれる。
親戚一同で出かけたクルージングでの奇妙な静寂、サッカー観戦する部屋に差し込む太陽と心地よい風、高速ボートの船底が海面をかすめる音。それらはソレンティーノが自らの記憶を画面に再現したものだが、観客もある思いに駆られる。記憶とは概ねあやふやで、時々リアルなものだと。
だから、本作はソレンティーノが説明しているように、人々と思い出を共有するための作品。そして、旅立つファビエットを通して今の若者たちを勇気づけるための作品。繰り出されるショットはとんがっていても、監督が差し出すHandは温かいのだ。
ナポリの魅力1000%
何かの記事で見たスクーター3人乗りの澄んだ写真がとても印象的だったことと、イタリア映画は結構好み系ということで鑑賞。
とても期待して観たのだが、本作はそれをもさらに上回るほど良い作品だ。
まずはとにかく映像がきれい。ナポリの街並み、青い海、緑の木々、そして、人々の飾らない生活、全てがきれいに撮られている。特に海から望むナポリの街並みや、ちょっと暗めの室内から望む外の景色は息をのむほど美しい。
そして、イタリア気質というのかナポリ気質というのか、どの登場人物もちょっと風変わりであるがとても魅力的で、意外に重いストーリーにもかかわらず後味も悪くない。
パオロ・ソレンティーノ監督のことは本作で初めて知ったのだが、個人的推しのジュゼッペ・トルナトーレ監督と作風が似た系統にて、とても惹かれた。本作は良い意味で既視感があり、「ニュー・シネマ・パラダイス」×「マレーナ」のよう。
本監督の他の作品もぜひ観てみよう。
ナポリの王
ナポリ特有なのか、監督なのか、
パトリツィアとマラドーナ、"とっくに女神だ" --- 大人の女性に憧れて = 周りの大人たちに囲まれて、壊れそうな少年の夢と未来への確かな一歩
あの日の自分へ?パオロ・ソレンティーノ監督 × カミングオブエイジもの = 80sを舞台に、監督らしい不思議な味付けや切り口・見方/観点を遺憾なく堪能できる青春映画。作家主義的ですらある手触り、感覚を想起させる。ある意味で創作の過程、産みの苦しみ。つまり盟友・名コンビ、またやあの一度見たら忘れられない顔の役者トニ・セルヴィッロが出ているけれど、今回は主人公ではなく主人公の父親役。共産主義だ。俳優になりたい兄にイタズラ好きな母。思わずハンドしちゃうくらいエキサイティング?サッカーの神マラドーナのように神の手を感じる?…かはともかく魅了される。
家族を襲う突然の悲劇から不確かな未来に導かれて。突如余儀なくされる大人の階段、時として自由奔放すぎる女性性を感じる。男の欲望を映し出す鏡として映画が発展してきた側面はきっと否定できないだろう。人によっては不純な動機に映るかもしれないけど、例えば役者や監督を目指す者の夢が美女と付き合いたいからだとか。あの近隣みんなで盛り上がるサッカー観戦めっちゃ楽しそう。スッキリしたら泣けること、最近ずっと溜め込んでいたものから解き放たれる。家族が破綻した人生はいい加減うんざり、誰もが映画を撮りたがるが勇気がいる。あの始まりや前半からまさかこんな感じ入る最後ラストが待っているなんて思いもしなかった…。この後『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を見るかも。
"できることを自分なりにしただけ"マラドーナ
「イタズラはやめて」泣けない
「私は使命を果たした。未来に目を向けさせる」
俺は女に弱い、孤児はいつも怒ってる
「度胸がなきゃ美女と寝られない」親の最期に会えなかった!「ローマに行くな」
壊れなかった監督
マラドーナに夢中だったファビエット少年はPaolo Sorrentino監督自身の分身です。
『ソレンティーノは1970年にナポリのアレネーラ地区に生まれ、16歳のときに両親を失い孤児となる。』(Paolo Sorrentinoのwikiより)
『ソレンティーノの2021年の長編映画『神の手』(È stata la mano di Dio)はナポリで撮影され、自伝的要素を含んでいる。ガーディアン紙は本作に関する記事の中で、ソレンティーノのこれまでの作品の中で「最も個人的」な青春物語であり、以前の作品に見られたような冷静なスタイルとは一線を画している、と伝えた。
ソレンティーノはまた、本作をスタイルの点で「全く異なる映画」と呼び、自伝的要素については「ほとんどすべてが真実である」と認めている。
ソレンティーノとトニ・セルヴィッロが再会した本作は、第94回アカデミー賞の国際長編映画賞のイタリア作品として選出された。』
(Paolo Sorrentinoのwikiより)
ネットフリックスで見ていたので、しばしば席を立ちました。家で映画を見ていると、とちゅうで冷蔵庫へいったり、トイレにいったりします。この映画の舞台は1986年ごろのナポリです。きれいなところです。冒頭からその眺望をパンします。海、島、連なる家々。ため息が出るようなところです。映画のとちゅうで、ためしにアパートの窓からおもてを眺めたら、景観の差に、さらなるため息がでたかもしれません。(そもそも隣家の壁しか見えませんが。)
家もきれいです。調度もきれいです。陽光かがやく緑の庭で、多世帯で食事をします。そこから真っ青な空と海が見えます。
監督自身が『自伝的要素については「ほとんどすべてが真実である」と認めている。』──自伝映画であるにもかかわらず、映画は寓話のようなフォルムを持っています。寓話のようなフォルムとは、あたかも作り話のような劇的な緩急と、熱狂や憧れの対象があること、です。
わたしが自分の少年時代を書いたなら、どんなに脚色してもこんなにドラマチックにはなりません。ボクたちはみんな大人になれなかった──にはなりますが、そんな話なら人様につたえる必要はありません。(個人的な意見です。)
Hand of Godが劇的なのは、マラドーナに対する熱狂と、叔母パトリツィアに対する憧れと、両親の死が三つ巴になった物語が、ナポリのうつくしい街や海や空を背景に繰り広げられるからです。
そして、この映画をみている最中に席を立ち、おもむろにイタリアのナポリとはことなる現実世界をながめたのとおなじ気分で、牽合とは知りつつ、自分の世界=日本と比べてしまったわけです。
健全な精神を環境がつくるのであれば、夜な夜な狭いアパートでネットフリックスを見る日々が、陽を浴びながら歓談して海水浴をする日々にかなうわけがありません。寓話のようなフォルムとは、そういう落差のことを言ったのです。
俺はまだ本気出してないだけやモテキやボクたちはみんな大人になれなかったは寓話のようなフォルムを持ち得ることができません。かれらの経験とPaolo Sorrentino監督の経験が違いすぎるのです。良い悪いは知りませんが違いすぎるのです。
おそらくこの映画を見た多数の人が映画は人生経験を積んだ者がつくるもの──と感じるはずです。もちろん、そうでなくても面白い映画はありましょうが、傷のような経験をしていなければ、出せない風合いがありました。そんな風合いを、わたしはついぞ(最近の)日本映画で見たためしがありません。
まがいもの感のない確かなフォルムを映画は持っていました。
に加えて、フェリーニのように幻想的でもありました。映画は8と1/2のように車の渋滞から始まります。役者志望の兄はオーディションを受けています。その昔フェリーニの周りに群がってきたような奇人や妖婦が出てきます。リアリティを抽出していますが、(たとえば)是枝監督風のリアリティではなく、もっとざっくりと、やわらかくコミカルに表現します。が、リアルです。夏なのにジェンティーレ婦人は毛皮を着てモッツァレラチーズの塊(みたいなのを)わしづかみで食べています。チネチッタのようなところではいつも宙づりを撮影しています。伯爵夫人は童貞喪失に挺身してくれます。ちいさなジェダイのような修道僧が起にも結にも出てきます。
Paolo Sorrentino監督自身が語る8分ほどの映画の紹介フィルムも併せて見ました。16歳で孤児になりローマへ出て37年ぶりにナポリに帰郷し、じぶんが住んでいたアパートや周辺を歩きながら、神の掌(たなごころ)に導かれた映画製作を語るのです。素っ気ないほどひょうひょうと語りますが言い知れない含蓄がありました。
Hand of Godがいい映画なのはファビエット少年が思春期につらい経験をしたから──ではなく監督が「壊れる」ことなく映画の演出や技法を習得したからです。
故郷を振り返ることなく一心不乱に走り続けた痕跡が監督の白髪にあらわれていました。
途中までよく分からず
ふとした瞬間に
この感想は鑑賞してからずっとあとに書いてるのだけど
ふとした瞬間に
ザン、ザン、とゆう高速艇の音を思い出して
その音を語っていた彼を思いだす。
映画には美しい瞬間がある。
パオロ・ソレンティーノ監督の作品で
「きっとここが帰る場所」も大好きなのだけど、彼の作品は
生活で孤独を感じる瞬間にこの映画のことを思い出してしまう。
青が印象的で、日常的な風景にファンタジーの違和感を埋め込んだ絵づらも
好きで。
ほんとうに急に、変なシーンがあるのが
好き。
イタリア人の明るくて家族を大丈夫にするんでしょとゆうパブリックイメージを
裏切る繊細でナイーブな話がいい。
実際、この映画観たらイタリアの家族嫌だし
めちゃくちゃストレス溜まりそう。
でも主人公の家庭の雰囲気は良いので、これは
万国共通で家族や親族はどこでも揉めるし、問題のない普通の家庭は存在しない。
家族が仲良いのは、とても奇跡的なことで
イタリアでもきっとそうなのだ。
悲しいシーンだけど
クマが出てくるところも、あれ
あのクマのシーンなんの映画なんだっけ?
とふとしたときに頭に浮かんだけど
この映画だった。
何を見せられたのか
【旅立ち】
北イタリアを旅していると、イタリアを南北に分け、独立しようというデモ(とは言っても、緩いやつ)にたまに出くわすことがある。
勤勉で産業の中心である北イタリアは、もうこれ以上、怠惰で依存的な南イタリアの面倒は見切れないというのが、その主張だ。
イタリアは南北の格差は大きく、産業や観光でも主要な都市は圧倒的に北に多く、欧州各国との地域的な利便性も高い。
だが、実は、ローマは”南”だ。
ローマは、歴史的にも文化的にもイタリアの中心だ。これを分離独立とは、なんだと思う人もいると思うけど、まあ、観光に依存ばかりで、政治的なリーダーシップはなく、混乱の極みで、それでも、常に宗教と文化の中心然としているローマへのやっかみもあるのだと考えたりもする。
さて、前置きが長くなりましたが、この「The Hand of God」は、パオロ・ソレンティーノの自伝的作品と言われていて、ファビエットがナポリを離れローマを目指すまでの、青春の、ほんの短い期間を綴った物語だ 。
もし、できたら、パオロ・ソレンティーノの前作「グレート・ビューティー」を観られたら、この作品へのつながりも感じられるように思う。
(以下ネタバレ)
この映画タイトルは、ナポリに加入したマラドーナの手に触れたゴールを引用したものだが、物語を通して観ると、ファビエットが最終的にローマを目指したように、神の手に導かれるように、人は決断をすることがあるのだと示唆しているような気がする。
地方から、何か目標をもって東京を目指すというのも実は同じではないかと思う。
だが、この作品は、ファビエットが抱えた葛藤と云うより、様々な出来事を通して、ナポリに対するアイデンティティや、家族への愛情、ほのかな恋心は持ちながらも、次第にナポリを離れようとする、微妙に傾いていく気持ちの変化を、美しいナポリの風景の中で、時には滑稽に、様々な出来事と併せて、きめ細やかに捉えているように思うのだ。
閉塞感、パトリツィアへの恋心、マラドーナ、事件、両親の死、親戚の対立、舞台への興味、兄の挫折、ユリア(?)への恋心、変化を求めようとしない演出家、精神病院のパトリツィア......
人が故郷を離れようとする理由は様々だ。
必ずしも大いなる目標があるわけではないし、嫌気がさす場合もあるだろう。
この作品は、それでも良いのだと肯定しているように思えるのだ。
”東京で何するんだよ” ”田舎だって出来ることは沢山あるだろう” ”家族はどうするの”
実は、ローマや東京だけではなく、どこかを目指すことは世界中似ていることなのかもしれない。
これまでも、多くの人はそうやって、やってきたのだ。
きっとこれからもそうなのだ。
「The Hand of God」は、こうした人々への賛歌でもあり、それを躊躇ったり、恥じたりすることはないのだと語りかけているような気がする。
決して、オリジンを捨てたわけではない。
全ては、神の手に導かれたのだから。
ソレンティーノ・マジックと思春期とマラドーナ
久しぶりのソレンティーノ映画!前半はまさしくソレンティーノ監督の世界で嬉しくなりました。トニ・セルヴィッロを見ることができて幸せ。訳わからない人(外見も内面も)がたくさん出てくるのがいい。ナポリ vs. 北イタリアのフリウーリ・ジューリア!よりによってこの二つの地域出身者同士は悪口合戦になるだろう!でも面白かった。
両親、兄、近所、親戚など変わり者達が主人公に寄り添い励まし勇気を与え未来を向きなさいというメッセージをいろんなやり方でプレゼントしてくれる。同い年でなくみんな年上。表面的な感じもするけれど、言葉少なくても心がこもっている。自分のことで精一杯なのかもしれない。みんな孤独だから、でも誰か居る、でも孤独。それでも好きなこと、夢に向かうことを決められたのはこの世のものではない存在の後押しなのかもしれない。神の手なのかもしれないし、モナシエロなのかもしれない。主人公役の男の子、とても良かった。海から見たナポリの町の美しさが胸に沁みた。行ってみたい。
マラドーナは二つの意味で「神の手」であったこと、マラドーナはソレンティーノの命の恩人で大切な存在であることがやっと納得してわかった(遅い!)。だからこそ「グランド・フィナーレ (Youth)」でもマラドーナ役を登場させていたんだ⚽️
どう形容して好いか悩んでいたけれど、これはこの監督バージョンの『アマルコンド』だ、という事に思い至ったらストンと納得。秀作だ。
①監督の出身地だけあって空からの、海からの、日光の中の、夜景のナポリが実に美しい。②フェリーニへのオマージュだと思えるところは映画のあちこちにある。ファビエットがついていった兄のフェリーニのオーディションのシーン。如何にもフェリーニの映画に出てきそうな奇抜な役者群の中で、兄が「普通の農民顔」と言われるのも良くわかる。オーディション会場の舞台裏を覗いたファビエットの目に飛び込んでくる色んな女性たちの顔写真…「女の都」?ファビエットの親戚の女達の大半が太っているのも如何にもフェリーニ好み?ストロンボリ(イングリッド・バーグマンを思い出す)から一人帰るファビエットを乗せたフェリーに向かって人々が海に飛び込むシーンはまるで『アマルコンド』を思い起こさせる…④見る側と見られる側との切り返しを多用しているのも如何にも映画らしい。ほぼ冒頭、《見る側》ファビエットと両親とが部屋を覗き込んでいる→カメラが切り替わると→《見られる側》叔母(母親の妹、ファビエットのミューズ)が鼻血を流し片方の乳房を露にしている姿。初めの方でファビエットの親族が集まってのパーティーのシーン。《見る側》叔母(父親の妹)が新しいボーイフレンドを連れてくるのを皆待っている。叔母さんの新しいボーイフレンドはいとも醜男らしい。二人が坂を上がってくるのを代りがわり望遠鏡で覗く「脚が悪いらしいぞ。」「やはり醜男だ。」→《見られる側》二人の到着。それほど醜男ではないが何と声帯マイクを使って話す男!《見る側》パーティーのあと水泳を楽しんだ一行が船の片側にまとまって座って困惑した顔で何かを見つめている→《見られる側》ファビエットのミューズである叔母が全裸で船のもう片側で日光浴している。《見る側》隣人宅で母親のイタズラを謝って畏まる一家四人→《見られる側》先程の喜び様とは真逆のぶちきれた隣人家族※ここは逆でもいいか。《見る側》ファビエットが街頭でふとあるものに目を吸い寄せられる。見ると周りの大人達も一点を見つめている→《見られる側》マラドーナらしきた男が車に載っている。⑤
ナポリ帝国とモナシエロ
待っている人が居るなら街を出よう
イタリアの映画と言うよりナポリの映画であろうか。
屈託なく無邪気に過ごしていた少年が不慮の事故で両親を亡くした途端、
その日から苦々しく不透明な現実の社会を歩まざる得なくなる。
混乱したナポリの街だが、周りの海は美しい。
そんな故郷を捨てて電車に乗る。
車窓にはどんどん故郷を超えて隣の街の駅に着くと、
小さなあの修道士が佇んでいた。
ホッとするFine
Hand of God - 神の手が触れた日 - なのだ。
では、何故、両親は死んだのか?
おばさんから何を受け取ったのか?
主演のフィリッポ・スコッティが愛すべきマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞した。
『グレート・ビューティー/追憶のローマ』で主演したトニ・セルヴィッロが渋く消えていった。
「グレート・ビューティー 追憶のローマ」などで知られるイタリアの名匠パオロ・ソレンティーノが、故郷ナポリを舞台に、運命と家族、スポーツと映画、愛と喪失のエッセンスを散りばめながら1人の少年の成長を描いた自伝的作品だそうだ。
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