あのことのレビュー・感想・評価
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テーマと手法が完全一致のクレバー作
とてもミニマルな中に(スタンダードでもあり)小さな世界が詰まっていて、それが窒息するように(ウィークリーテロップも相まって)なっていく共感性。
教室、宿舎の部屋、庭、道、世界は狭い。広い空間は映されない。人生と引き換えの時限爆弾を抱えた若い女性のカウントダウンで追い込まれていく様。身体と顔とアクションだけでこのテーマを見せきっていく。心の痛みだけでなく、身体的痛みもいやというほど突きつけてくるだろうと思ったらそうなった。これは、痛い。キツい。映画表現は切り捨てることだと再認識した。
痛みと出血
女性として生きるということ
痛かった
心も身体も痛かった
若者が傷つき孤独に隠れながら、
自らの人生を達成する方法を模索していた
実際、この時代の恐ろしい価値観が平気で
放り込まれてくるし、彼女を取り巻く環境はひたすらに残酷だ
それを助けていたのも女性だったことが興味深い
また、彼女が手術に行く前、
抱擁した母親の表情が忘れられない
中絶を禁止するという事はこういう事なのだ
女性に選択肢を与えないということは、こういう痛みなのだ
現代だって普通に、ゴムなしでいい?とか平気で聞いてくる男いますからね、そりゃお前の身体はいいだろうよ
ここ何年かで最も痛みを感じる映画だった
鑑賞中、力が入ってしまった
痛みを共有して、わたしたちは学ぶ
この痛みが、力に姿を変えますように
どうか女性たちが安全に適切な環境で中絶できますように
どうか性行為に対する認識が変わりますように
人生を諦めることが無くなりますように
気軽に見てはいけない作品
(原題) L'événement
時代は違えど
無邪気に見える仲良し3人組からのスタート。
一緒にパーティーに行き、飲み物はボトルに入ったコカ・コーラ?噛んだガムを分かち合うほどの仲の良さ。
フランスの光と緑溢れる一見、多幸感を感じられる大学生活。
でも… アンヌは妊娠していて、そこからは観ている私たちもアンヌの視点で一緒に妊娠擬似体験として引き込まれて行く。
現代の日本に生きる我々ならば、中絶という選択肢があるかもしれません。それが正しいのかは別ですが。
しかし、途中で気づきました。1940年生まれの彼女が生きていた時代は1960年代。
カトリックが多数を占めるフランスでは中絶をする人も幇助する人も重罪のようです。
そこからは本当にアンヌと同化。育っていく胎児と大きくなっていく不安。不安とは狭められる自分の未来。
今でこそ、家族があっても子供がいても社会が認めてくれるかもしれないが、当時は子供が出来たら主婦となるしか,道は無いのでしょう。それが主婦になる病。
妊娠が分かるとあれだけ仲が良かった友達も皆んなが去っていく孤独。アンヌの心の痛みと身体的な痛みの擬似体験、本当に痛いです。そしてその痛みは女性だけの痛み。アンヌの目力が段々心細くなり弱々しくなっていく様、そして最後の再度の輝き。
女性にだけこんな厳しい状況を作っていたのは男性社会ゆえか。
深々受け止めました。
目的を果たす為に新しい生命と引き換えに勝ち得た称号の価値の重さに同じ物差しでは測れない。
階級制度のあるフランスでのし上がる為に選択を余儀なくされた彼女の決断は考えさせられるものがあった。
時代が時代だけにその事実を踏まえ、後世に伝えて置く事も大切だと思いました。
それでもオリヴィアはアンヌのために臍帯を切った
◆女子寮の、いけ好かない寮長のオリヴィア。
それでもオリヴィアはアンヌのために駆け付けて来てくれた。小さく叫びながらもハサミを持ってきて臍帯を切ってくれた・・
◆親友の黒髪のレティシアは、
アンヌの部屋をそっと訪ねてきて、窮地のアンヌに「自分も男性経験があること」を思い切って打ち明けた。
◆クラスの男子も、実はアンヌのために法を犯して“闇墮胎屋”を探し当ててくれた。
◆医者たちは狼狽。
◆墮胎屋(アナ・ムグラリス)は感情を押し殺して客の目を見据え、声を出さずに女たちに助けの手を差し伸べる。
彼女たち、そして彼らみんなが “それ”を感じていたのだ、
友人やそして自分自身が置かれているこの社会というものと、文化と法と、国民を縛る宗教の軛(くびき)とが、“どこか間違っている”ということ。皆がそれに気付いていた・・その頃の物語だ。
アンヌは、実家のお母さんに打ち明けられなくて、どんなに辛かっただろう。あの表情。
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【宗教】
フランスはカトリック教国なのです。
バチカンが認めるのはオギノ式だけ。
だから避妊は認められないし、墮胎は神の戒めへの「罪の行為」として、フランスでは許されていなかったのです。
皆さんご存じのあの絶世のボーカリスト セリーヌ・ディオン。彼女は、カナダの東部=フランス語圏(カトリック地域)=の15人きょうだいの末っ子。
同じくイージーリスニング界の寵児、ピアニストのアンドレ・ギャニオンは、17人きょうだいの末っ子。
もしも彼らの親たちが避妊をしていたら、または中絶をしていたなら、あの不世出のアーティストたちは文字通りこの世に生まれ出てくることはなかったわけなのですが、
単純に「そうかーそれは良かったねー」とならないのが この映画がえぐり出した陰の部分なのだと思う。
子沢山の家庭が誕生している反面、産まされる性という苦役や、闇墮胎によって命を落とした女たちがどれほど多く世界には存在していたのだろうかと、この映画の各シーンから想わされるから。
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【キリスト教会の課題と解放の神学】
50年ほどまえ、
アフリカや中南米でキリスト教界に革命が起こった。
それは教会組織主軸ではない「人間主軸のキリスト教への転換」への呼び掛けだった。
黒人のマリヤ像や黒人のイエス像を作る驚愕のムーブメントが生まれたのだ。
その名も「解放の神学」。
白人の王族や政治家、白人の宗教者や軍隊によって改宗させられ、土地を奪われ、それらがすべて力づくの「男の暴力」によって世界中に広められてきたキリスト教という仕組みを、彼ら支配者の御用宗教の座からではなく、「被抑圧者」の側から聖書を再度読み解いて、原点回帰を探ったムーブメント。それが「解放の神学」だ。
その核は、一言で言うと「不正義とは闘い」「共に」「生きる」生活。
・創世記の「生めよ増えよ地に満ちよ」はその文脈や書かれた時代背景と著者の正確な意図から「避妊を禁ずるものではまったくない」ことが明らかとなり、
・男だけがキリスト教会の指導者・聖職者であるべきであるかのようなこれまでの伝統も撤回されつつある。
⇒新約聖書の記者が男であり男性中心に事が進められていた時代的制約の中で、それにも関わらず新約聖書の本文の中に女たちが多数登場し、実のところ男たちを上回るほどに活動していた原始教会の様子が再発見された。
・男たちはそのような女性たちを正当に表現する語彙さえ持っていなかったことも判ってきた。
その流れで
・性差を超えて女性聖職者、女性司祭(聖公会)、LGBT牧師もぞくぞくと誕生してきている。
そもそもが
(神話風に書かれてはいるが)、
イエスの母マリヤは、《父親がわからない子を産んだ女》として、ユダヤ教の戒律によるならば「石打ちの裁き」=死刑になるところを助けられた村娘として、それこそが物語の端緒として、記憶・記録されていたことも再発見された。
すべてが「解放の神学」のビッグバンから始まり、原点復帰がなされた姿。
(※)
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【フランスは】
1975年の「ヴェイユ法」で人工妊娠中絶が合法化。
(映画の原作者アニー・エルノーは、アンヌと同い年の1940年生まれ、ヴェイユ法公布は35歳のとき)。
アメリカでは―
南部のバイブル・ベルトを中心に国論はいまだに右往左往、
以下引用
「2022年6月24日、アメリカの連邦最高裁が人工妊娠中絶の権利が憲法上の権利(修正14条から導かれるプライバシー権)であることを否定しました」。
(それに対しこの映画の舞台となった)
「フランスではその翌日である25日に早くも、大統領与党のルネサンスが国会に対し、中絶の権利を憲法に定めるための法案を提出し、政府もこれを指示(ママ)することを明確にしました」。
(弁護士金塚綾乃のフランス法とフランスに関するブログ 2022.07.18 Monday「フランスの人工妊娠中絶」より引用)。
↑これはフランスにおけるキリスト教の信者率の低下と、中絶合法化の受け入れ機運上昇が比例するゆえかもしれないのだけれど、人間の社会と宗教の世界が大きく改革され、様相を変えつつあることを感じさせる報告です。
(※)「解放の神学」運動に加わった神父やシスターたちが各地で抵抗を受け、殺害されているけれど。
【日本は?】
やむにやまれず、熊本のキリスト教病院慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」をスタートさせた。
ところが我が国の厚労省・薬事審査会は、ピルやアフターピルの認可は一種異様に徹底的に渋っている。でも男に利する「バイアグラ」の審査〜認可がわずか6ヶ月とあっけなかったのは笑い話のような本当の話。
“家長である男が跡継ぎの子を産ませる”という生殖の特権は、未だに男だけの専権事項になっている。つまり生むこと・生まないことの権利と決定権を女には是が非でも渡さぬようにしているがごときだ。
そして嫡子ではない=認知しない妊娠については、男は逃げる。
【僕は?】
生命倫理および生殖科学の問題は、命は誰のものかという問いや、胎児は人間かという問いとも直結している。
これは「人間とは何か」という根源的な自己検証になるし、宗教や哲学の領域にまで踏み込むホモ・サピエンスに課せられた究極の命題だ。
そして同時に人間とは哺乳類の一種でもあるのだから、自然の摂理に導かれてアンヌやステディの彼のように、その瞬間は理性も分別も失って引力のままに行われるセックスは、生物として決して間違ってはいないのだとも僕は知っている。
観終わって数日・・
思いが定まらない。このレビューも こんなにもとっ散らかっているし。
頭はぐるぐると回って僕は混乱しているのだが、
①人間でもあり、かつ動物でもある私たちとしては自然な衝動に身を任せる事と、
②3週間後には判明する妊娠と出産と子育てに関して、
種付けだけの種(しゅ)や、ホトトギスのような他人任せの生殖でなく、人間の場合は(個体差は振れ幅が大きいのだけれど)、我々は本能を愛でつつ、またそれを超越して妊娠・出産・子育てを ①と②と両立して受け止める存在であれる筈だとは思う。
大人の男と女の、そしてその順位としては圧倒的に先ずは男の側の問題として、男が変えられて、男たちが染まってしまっている思い違いから彼ら自身が「解放」をされていくべき課題なのだと、僕は振り返り、自戒を込めて思うし、そして
女も、もっともっと、もっと!賢くならなければいけないのだと思う。
何れにせよ
人間は賢くなり過ぎたので、
こんなにも悩み、傷付き、迷い、絶望する。
意味づけをしようとしてしまうから苦しんでしまう。
たった「生き物の出産という当たり前で単純なお話」のはずだったのに。
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2022年ノーベル賞受賞アニー・エルノーの自著「事件」の映画化だそうです。
原作は読んだことはありませんが、1時間40分の素晴らしい出来。監督がどれだけ丁寧に原作に向き合ったかが判ります。女性監督が撮りました。
このラストで、試験に臨むアンヌがアニー・エルノーその人なのだと思うと、鳥肌が立ちます。
きつい告発映画でした。
映画館で
入場チケットをもらいながら
「また辛そうな映画ですねぇ」、
「ええ、しっかり観てください」。
言葉を交わす僕と支配人。
ハッとするほど、きょうの支配人の短い口調は、いつになく強めでした。容貌はあのアパルトマンの8階に住むアナ・ムグラリスを彷彿とさせて。
高野悦子亡きあと、片田舎ではあるけれど、信州・塩尻、東座の支配人=合木こずえさんには頑張ってもらいたいです。
この日、チケット販売は合木さん。小さなロビーの接客係はお母様。映写技師は妹さん。
観客は女性が多かった。
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痛いのと辛いのが混ざりあって
もはや、ホラー映画に途中は思えました。
時代とか関係なく、
女性が『受け入れる』選択肢しかない、と言うのが
非常に切なくて悲しかった。
もしかすると、
今の時代でも、同じ様な経験してる人いるのでは?
子供が産まれても、心から愛せる自信がない。
確かにそうかもしれない…。
そうならない様なサポートを求められる時代が来て良かった。
教師志望から作家へ。
この頭の切り替え方が出来るのも、彼女には才能があったんでしょうね。
出産によって、人生捨てたくない!
と必死に戦った12週間のお話しでしたが、
ただ、中絶したいだけの話しでないと思いました。
凄くテーマが重たくて、考え感じることが色々ありました。
彼女の周りの友達や両親との関係も絡めて、
アンヌへ共感しました。
診断書を書く医師ガチャ過ぎる 流産って書かれたのが救いなのかな S...
自分が気持ちイイ事した結果のくせに…
20代の女が自力で産み落として逮捕されるとコメント欄はその言葉で踊る
しかし気持ちイイ事をした結果は女一人では成し得なかったはずだ
同じように気持ちよくなり、誘って来た男は簡単に逃げる
リスクを背負うのは女だ
痛みもお金も刑罰すらも女が背負う
日本で堕胎は違法行為ではないので信じがたい法律ではあるが、あそこまで色々試しても流れない子がすごい
不妊治療までして産みたい夫婦がいると言うのに神様はなんで残酷なんだろう
彼女の選択が間違っていたとは思わない
私でも迷わずに堕す
自分の人生と引き換えにはしたくない
それでも後ろ指を刺される
自分が欲望に負けた結果だろ、と
そうだろうか?
中に出した男はなぜ何の責任も取らないのか?せめて金を出せ、人を寄越せ、謝罪しろ、と感じる
淡々と描かれているように見えるが、平然を装っていても生理が遅れている時の恐怖感、妊娠してから目に見えて成績が下がっていく描写
全てが生々しい
「痛み」を含めた身体感覚の擬似的な体験が強烈に印象的な一作。
本作のカメラはほぼ全編、主人公アンナ(アナマリア・ヴァルトロメイ)に密着しており、観客はまるで彼女にまとわりつく透明人間にでもなったかのように、彼女の肩、あるいは頭越しの映像を辿ることになります。
完全な一人称視点とも異なる、こうした「密着型三人称視点」とも言うべき描写は、『サウルの息子』(2015)や『レヴェナント:蘇えりし者』(2015)でも用いられた手法ですが、本作は画面がスタンダードサイズに近く、要するに左右が切り詰められた画面であるため、さらに『サウルの息子』を想起させる画面となっています。加えて被写界深度(ピントの合う範囲)を極端に狭めて、画面の大半がぼやけているところもまた、『サウルの息子』を思わせます。
こうした撮影手法の目的は明確で、オードレイ・ディヴァン監督はアンナが見たもの、感情、そして痛みの感覚すら、観客との同期を試みています。観客が体験するものは1960年代の大学生、アンナの数週間の経験です。中絶が違法だった1960年代のフランスで、予期していなかった妊娠が明らかになったアンナがどのような判断を下し、行動するのか。その下した決断と行動は余りにも鮮烈で、疑似体験とは言え時に目を背けたくなります。近くで鑑賞していたご年配の男性が思わず「お、おお…」と言葉にならない呻き声を発して身をすくませるほどでした。
ポスターの文言ではアンナが目的のために主体的に「闘った」ように受け取れるのですが、彼女はむしろ、実際に妊娠した女性の身体や感情を置き去りにしている当時の法律、人々の相互監視、社会関係だけに関心がある男性などに翻弄され続けていることは明らかで、鑑賞後にポスターを見返すと、ちょっと違和感を感じてしまいました。
鑑賞にはそれなりの心積もりを要しますが、遠い国の過去の物語ではなく、現代の問題として多くの人に観られるべき作品でした。
当時の苦しさを追体験
胸いたくなる苦しさ
シンプルながら力強いメッセージを放っている
アンヌはたった一度のセックスで妊娠してしまい、堕胎を決心する。しかし、1960年代のフランスでは中絶は違法で、大きな罪とされていた。彼女は成績優秀で周囲からの期待も大きい優等生である。世間体のこともあり家族や友人に相談できず、医者に打ち明けたとしても力になってくれる人は皆無で、どんどん絶望的な状況に追い込まれてしまう。
本作には原作があり(未読)、原作者本人の実体験を元にしているということだ。本作のアンヌのように、原作者もさぞかし苦しい思いをしたのだろう。
物語は非常にシンプルである。過去には「JUNO/ジュノ」や「4ヶ月、3週と2日」等、同じテーマを扱った作品があるし、かつての人気ドラマ「金八先生」の中では「15歳の母」という中学生の妊娠を描いたエピソードもあった。こうしてみると題材自体、決して新鮮というわけではない。
ただ、緊張感を持続した演出が素晴らしく、観ているこちらも終始、この息苦しさに押しつぶされそうなってしまった。
劇中には目を覆いたくなるような凄惨なシーンも出てくる。そこもカメラはカットを切らずに彼女の苦痛の表情を生々しく捉えている。特に、終盤はほとんどホラー映画のようなトーンになっていき、この畳みかけるような演出には戦慄を覚えた。
尚、フランスでは現在は中絶は容認されている。日本でも、もちろん認められている。しかし、世界を見渡せば、宗教上の理由から中絶を認めていない地域がまだあり、この手の話は決して過去のものではない。今まさに起こっている現在進行の話でもあるのだ。
もとをただせば、避妊をしてセックスしろという話だが、若さゆえの過ちというのは誰にでもあるわけで、現実問題としてそう単純に割り切れない面がある。それゆえ、この手の作品はいつの世にも通じる普遍性を持っているのだろう。
全96件中、21~40件目を表示