あのことのレビュー・感想・評価
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母も子も幸せになれる社会よ来てくれ
主人公は1940年生まれだ。
昔が舞台とはいえ、人生と引き換えに出産したくない、という主人公の言葉が
昨今、とりだたされている少子化や、女性の権利、自立、
もしかすると結婚という制度の問題点に対して、
答えをだしてしまっているのではないか、と感じつつ観た。
それも自業自得だとして、男性との間にあるリスクの差は、
生物的にではなく社会的に、
ずるい、や無責任、を越えてもはや雲泥がホラーの域。
戦慄するほど、納得できず、社会制度でのフォローを!
と言わずにおれなかった。
また、産めば人生が終わる、はすなわち、
産むのは「いつか」の「いつか」が、
「最後に仕方なく」という意味にもとれ、
子供目線で考えた時、複雑な思いにもかられる。
母と子の権利は同時に守られないのか。
やはり社会制度でのフォローを! である。
「プロミシングヤング・ウーマン」とテーマは同じであると感じるが、
「プロミシング」で男性はかなり下劣に描かれている一方、
こちらでは抑えられたごく普通の人物像として表現されている。
ゆえに女性がヒステリックと浮き上がり、
追い詰められた感のすさまじさがリアルでなおホラーであった。
長らく色々映画を見てきたが、初めて途中、直視できなかった場面もある一方、
主人公と同年代の男女、昨今の問題うんぬん論じる人が見たならば、
一体どういった感想を持つのかも興味が尽きない。
青少年向け性教育映画
本作も評価が高かったので興味が湧き観に行ったのですが、かなりエグい作品ではありました。恐らく独り身の初老の男が観るべき作品では無かったのかも知れません。
というか、もっと若い世代の人達に観て欲しい作品だと思いました。
本作は1960年代の話で、私からするとついこの前の物語であり、それでこういう法律が成立している先進国の国にあったという事実があり、社会は不公平で理不尽であり、悪法も法なりという事実は子供(十代)知っておくべきだという切実なメッセージを含んだ作品だったと思います。しかし、恐らく世間の思惑は逆行していて、むしろ大人達は子供には見せたがらない作品の様にも感じられます。
全然比較にはならない例えかも知れませんが、バカで幼稚な悪戯の動画をSNSに投稿したニュースなどが氾濫していますが、何が良い悪いの話ではなく、若気の至りというか、ちょっとしたお遊びやミス程度のことでも、思っている以上の大事となり相当の痛い目にあったり、それにより人生にとって大きな痛手となり得るってことを、若者は知っておくべきだと思うので、こういうキッツイ作品こそ十代の青少年達に見せておくべき作品のような気がしましたね。それにより“責任”の意味を少しは学べるかもと期待します。
でも本来学ぶべきバカでクズで幼稚な人間が観てどういう影響を受けるのかは分かりませんが、ショック療法として少しは暴走のブレーキになるかも知れませんしね。
優先すべきことを見失わず行動した大学生の記録
私が当然の権利だと信じて止まず、そうではない世界があること自体信じられないと思っても、世の中はそうでもないことがいくらでもある。でもこの映画はそういったことの是非を考えることからは切り離して、ただ一人の大学生が自分の優先すべきことを見失わず、自分の頭で考え、不安に押しつぶされそうになりながらも行動した記録として鑑賞したい、そう思った。まだ若い大学生であり、行動は手探りで危うい。できることは今よりずっと限られている。観ていてやきもきする。でも彼女の鋭い目にエールを送りたい。
「あのこと」とは、口に出しにくい過去の出来事をほのめかす時に使うものだ。時間的、空間的、心理的に一定の距離をおくことに成功したからこそ、「この」でも「その」でもなく「あの」と言えるようになる。邦題がそれとなく示すものはとても深いと思う。
テーマと手法が完全一致のクレバー作
とてもミニマルな中に(スタンダードでもあり)小さな世界が詰まっていて、それが窒息するように(ウィークリーテロップも相まって)なっていく共感性。
教室、宿舎の部屋、庭、道、世界は狭い。広い空間は映されない。人生と引き換えの時限爆弾を抱えた若い女性のカウントダウンで追い込まれていく様。身体と顔とアクションだけでこのテーマを見せきっていく。心の痛みだけでなく、身体的痛みもいやというほど突きつけてくるだろうと思ったらそうなった。これは、痛い。キツい。映画表現は切り捨てることだと再認識した。
痛みと出血
痛みと出血をリアルに感じさせること
これに成功した作品です
社会の無理解と制度の不整備ために女性だけが追い込まれて違法な堕胎をしなければならなくなるという事態を見て、考えることはいろいろあるはずです。
「女性は強い」などと言っているレビューがありますが、まったくのトンチンカンだと思います。これは追い込まれた結果なのですから。
また、女性側だけの責任を問うような書き込みも見られます。男性の無責任も同時に責めなきゃいけないはずなんですが……
いまだに続く男性側の理解の無さを思い知らされる反応ではありましたが。
女性として生きるということ
痛かった
心も身体も痛かった
若者が傷つき孤独に隠れながら、
自らの人生を達成する方法を模索していた
実際、この時代の恐ろしい価値観が平気で
放り込まれてくるし、彼女を取り巻く環境はひたすらに残酷だ
それを助けていたのも女性だったことが興味深い
また、彼女が手術に行く前、
抱擁した母親の表情が忘れられない
中絶を禁止するという事はこういう事なのだ
女性に選択肢を与えないということは、こういう痛みなのだ
現代だって普通に、ゴムなしでいい?とか平気で聞いてくる男いますからね、そりゃお前の身体はいいだろうよ
ここ何年かで最も痛みを感じる映画だった
鑑賞中、力が入ってしまった
痛みを共有して、わたしたちは学ぶ
この痛みが、力に姿を変えますように
どうか女性たちが安全に適切な環境で中絶できますように
どうか性行為に対する認識が変わりますように
人生を諦めることが無くなりますように
気軽に見てはいけない作品
中絶が違法だった時代に中絶しようとする女子大生の話。
当時のフランスは避妊も違法だったそうで、男性社会の弊害を女性がもろに受けていた時代なのかもしれない。
話が進むにつれて子供に愛着がわくとか一切なく、アンヌは徹底してお腹の子供を殺しにかかる。それが本当に辛い。望まれて生まれてくることができない悲しさ、アンヌの状況等々…
結構衝撃的なシーンがあるので、痛いのやグロが苦手な人は注意。
今のフランスは避妊や中絶が医療保険でカバーされているそうで、日本は遅れているのでは?
世界では今もこういった状況があると思うとやるせない気持ちになる。
(原題) L'événement
中絶が違法だった60年代フランスでのお話!
扱ってる題材は重たいけど、観て良かった。沢山の人が観るべきだと思う。
辛いシーンも沢山あり、なんで女性だけが1人で責任を負わなきゃいけないんだろう…女性には権利がないなんて理不尽すぎる…
時代は違えど
無邪気に見える仲良し3人組からのスタート。
一緒にパーティーに行き、飲み物はボトルに入ったコカ・コーラ?噛んだガムを分かち合うほどの仲の良さ。
フランスの光と緑溢れる一見、多幸感を感じられる大学生活。
でも… アンヌは妊娠していて、そこからは観ている私たちもアンヌの視点で一緒に妊娠擬似体験として引き込まれて行く。
現代の日本に生きる我々ならば、中絶という選択肢があるかもしれません。それが正しいのかは別ですが。
しかし、途中で気づきました。1940年生まれの彼女が生きていた時代は1960年代。
カトリックが多数を占めるフランスでは中絶をする人も幇助する人も重罪のようです。
そこからは本当にアンヌと同化。育っていく胎児と大きくなっていく不安。不安とは狭められる自分の未来。
今でこそ、家族があっても子供がいても社会が認めてくれるかもしれないが、当時は子供が出来たら主婦となるしか,道は無いのでしょう。それが主婦になる病。
妊娠が分かるとあれだけ仲が良かった友達も皆んなが去っていく孤独。アンヌの心の痛みと身体的な痛みの擬似体験、本当に痛いです。そしてその痛みは女性だけの痛み。アンヌの目力が段々心細くなり弱々しくなっていく様、そして最後の再度の輝き。
女性にだけこんな厳しい状況を作っていたのは男性社会ゆえか。
深々受け止めました。
目的を果たす為に新しい生命と引き換えに勝ち得た称号の価値の重さに同じ物差しでは測れない。
階級制度のあるフランスでのし上がる為に選択を余儀なくされた彼女の決断は考えさせられるものがあった。
時代が時代だけにその事実を踏まえ、後世に伝えて置く事も大切だと思いました。
それでもオリヴィアはアンヌのために臍帯を切った
◆女子寮の、いけ好かない寮長のオリヴィア。
それでもオリヴィアはアンヌのために駆け付けて来てくれた。小さく叫びながらもハサミを持ってきて臍帯を切ってくれた・・
◆親友の黒髪のレティシアは、
アンヌの部屋をそっと訪ねてきて、窮地のアンヌに「自分も男性経験があること」を思い切って打ち明けた。
◆クラスの男子も、実はアンヌのために法を犯して“闇墮胎屋”を探し当ててくれた。
◆医者たちは狼狽。
◆墮胎屋(アナ・ムグラリス)は感情を押し殺して客の目を見据え、声を出さずに女たちに助けの手を差し伸べる。
彼女たち、そして彼らみんなが “それ”を感じていたのだ、
友人やそして自分自身が置かれているこの社会というものと、文化と法と、国民を縛る宗教の軛(くびき)とが、“どこか間違っている”ということ。皆がそれに気付いていた・・その頃の物語だ。
アンヌは、実家のお母さんに打ち明けられなくて、どんなに辛かっただろう。あの表情。
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【宗教】
フランスはカトリック教国なのです。
バチカンが認めるのはオギノ式だけ。
だから避妊は認められないし、墮胎は神の戒めへの「罪の行為」として、フランスでは許されていなかったのです。
皆さんご存じのあの絶世のボーカリスト セリーヌ・ディオン。彼女は、カナダの東部=フランス語圏(カトリック地域)=の15人きょうだいの末っ子。
同じくイージーリスニング界の寵児、ピアニストのアンドレ・ギャニオンは、17人きょうだいの末っ子。
もしも彼らの親たちが避妊をしていたら、または中絶をしていたなら、あの不世出のアーティストたちは文字通りこの世に生まれ出てくることはなかったわけなのですが、
単純に「そうかーそれは良かったねー」とならないのが この映画がえぐり出した陰の部分なのだと思う。
子沢山の家庭が誕生している反面、産まされる性という苦役や、闇墮胎によって命を落とした女たちがどれほど多く世界には存在していたのだろうかと、この映画の各シーンから想わされるから。
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【キリスト教会の課題と解放の神学】
50年ほどまえ、
アフリカや中南米でキリスト教界に革命が起こった。
それは教会組織主軸ではない「人間主軸のキリスト教への転換」への呼び掛けだった。
黒人のマリヤ像や黒人のイエス像を作る驚愕のムーブメントが生まれたのだ。
その名も「解放の神学」。
白人の王族や政治家、白人の宗教者や軍隊によって改宗させられ、土地を奪われ、それらがすべて力づくの「男の暴力」によって世界中に広められてきたキリスト教という仕組みを、彼ら支配者の御用宗教の座からではなく、「被抑圧者」の側から聖書を再度読み解いて、原点回帰を探ったムーブメント。それが「解放の神学」だ。
その核は、一言で言うと「不正義とは闘い」「共に」「生きる」生活。
・創世記の「生めよ増えよ地に満ちよ」はその文脈や書かれた時代背景と著者の正確な意図から「避妊を禁ずるものではまったくない」ことが明らかとなり、
・男だけがキリスト教会の指導者・聖職者であるべきであるかのようなこれまでの伝統も撤回されつつある。
⇒新約聖書の記者が男であり男性中心に事が進められていた時代的制約の中で、それにも関わらず新約聖書の本文の中に女たちが多数登場し、実のところ男たちを上回るほどに活動していた原始教会の様子が再発見された。
・男たちはそのような女性たちを正当に表現する語彙さえ持っていなかったことも判ってきた。
その流れで
・性差を超えて女性聖職者、女性司祭(聖公会)、LGBT牧師もぞくぞくと誕生してきている。
そもそもが
(神話風に書かれてはいるが)、
イエスの母マリヤは、《父親がわからない子を産んだ女》として、ユダヤ教の戒律によるならば「石打ちの裁き」=死刑になるところを助けられた村娘として、それこそが物語の端緒として、記憶・記録されていたことも再発見された。
すべてが「解放の神学」のビッグバンから始まり、原点復帰がなされた姿。
(※)
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【フランスは】
1975年の「ヴェイユ法」で人工妊娠中絶が合法化。
(映画の原作者アニー・エルノーは、アンヌと同い年の1940年生まれ、ヴェイユ法公布は35歳のとき)。
アメリカでは―
南部のバイブル・ベルトを中心に国論はいまだに右往左往、
以下引用
「2022年6月24日、アメリカの連邦最高裁が人工妊娠中絶の権利が憲法上の権利(修正14条から導かれるプライバシー権)であることを否定しました」。
(それに対しこの映画の舞台となった)
「フランスではその翌日である25日に早くも、大統領与党のルネサンスが国会に対し、中絶の権利を憲法に定めるための法案を提出し、政府もこれを指示(ママ)することを明確にしました」。
(弁護士金塚綾乃のフランス法とフランスに関するブログ 2022.07.18 Monday「フランスの人工妊娠中絶」より引用)。
↑これはフランスにおけるキリスト教の信者率の低下と、中絶合法化の受け入れ機運上昇が比例するゆえかもしれないのだけれど、人間の社会と宗教の世界が大きく改革され、様相を変えつつあることを感じさせる報告です。
(※)「解放の神学」運動に加わった神父やシスターたちが各地で抵抗を受け、殺害されているけれど。
【日本は?】
やむにやまれず、熊本のキリスト教病院慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」をスタートさせた。
ところが我が国の厚労省・薬事審査会は、ピルやアフターピルの認可は一種異様に徹底的に渋っている。でも男に利する「バイアグラ」の審査〜認可がわずか6ヶ月とあっけなかったのは笑い話のような本当の話。
“家長である男が跡継ぎの子を産ませる”という生殖の特権は、未だに男だけの専権事項になっている。つまり生むこと・生まないことの権利と決定権を女には是が非でも渡さぬようにしているがごときだ。
そして嫡子ではない=認知しない妊娠については、男は逃げる。
【僕は?】
生命倫理および生殖科学の問題は、命は誰のものかという問いや、胎児は人間かという問いとも直結している。
これは「人間とは何か」という根源的な自己検証になるし、宗教や哲学の領域にまで踏み込むホモ・サピエンスに課せられた究極の命題だ。
そして同時に人間とは哺乳類の一種でもあるのだから、自然の摂理に導かれてアンヌやステディの彼のように、その瞬間は理性も分別も失って引力のままに行われるセックスは、生物として決して間違ってはいないのだとも僕は知っている。
観終わって数日・・
思いが定まらない。このレビューも こんなにもとっ散らかっているし。
頭はぐるぐると回って僕は混乱しているのだが、
①人間でもあり、かつ動物でもある私たちとしては自然な衝動に身を任せる事と、
②3週間後には判明する妊娠と出産と子育てに関して、
種付けだけの種(しゅ)や、ホトトギスのような他人任せの生殖でなく、人間の場合は(個体差は振れ幅が大きいのだけれど)、我々は本能を愛でつつ、またそれを超越して妊娠・出産・子育てを ①と②と両立して受け止める存在であれる筈だとは思う。
大人の男と女の、そしてその順位としては圧倒的に先ずは男の側の問題として、男が変えられて、男たちが染まってしまっている思い違いから彼ら自身が「解放」をされていくべき課題なのだと、僕は振り返り、自戒を込めて思うし、そして
女も、もっともっと、もっと!賢くならなければいけないのだと思う。
何れにせよ
人間は賢くなり過ぎたので、
こんなにも悩み、傷付き、迷い、絶望する。
意味づけをしようとしてしまうから苦しんでしまう。
たった「生き物の出産という当たり前で単純なお話」のはずだったのに。
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2022年ノーベル賞受賞アニー・エルノーの自著「事件」の映画化だそうです。
原作は読んだことはありませんが、1時間40分の素晴らしい出来。監督がどれだけ丁寧に原作に向き合ったかが判ります。女性監督が撮りました。
このラストで、試験に臨むアンヌがアニー・エルノーその人なのだと思うと、鳥肌が立ちます。
きつい告発映画でした。
映画館で
入場チケットをもらいながら
「また辛そうな映画ですねぇ」、
「ええ、しっかり観てください」。
言葉を交わす僕と支配人。
ハッとするほど、きょうの支配人の短い口調は、いつになく強めでした。容貌はあのアパルトマンの8階に住むアナ・ムグラリスを彷彿とさせて。
高野悦子亡きあと、片田舎ではあるけれど、信州・塩尻、東座の支配人=合木こずえさんには頑張ってもらいたいです。
この日、チケット販売は合木さん。小さなロビーの接客係はお母様。映写技師は妹さん。
観客は女性が多かった。
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痛いのと辛いのが混ざりあって
もはや、ホラー映画に途中は思えました。
時代とか関係なく、
女性が『受け入れる』選択肢しかない、と言うのが
非常に切なくて悲しかった。
もしかすると、
今の時代でも、同じ様な経験してる人いるのでは?
子供が産まれても、心から愛せる自信がない。
確かにそうかもしれない…。
そうならない様なサポートを求められる時代が来て良かった。
教師志望から作家へ。
この頭の切り替え方が出来るのも、彼女には才能があったんでしょうね。
出産によって、人生捨てたくない!
と必死に戦った12週間のお話しでしたが、
ただ、中絶したいだけの話しでないと思いました。
凄くテーマが重たくて、考え感じることが色々ありました。
彼女の周りの友達や両親との関係も絡めて、
アンヌへ共感しました。
痛みと傷み
思春期の女の子が最も恐れるのが
「生理が来ない」なんじゃないかと思う(笑)
※もちろん性体験あればって事だけど。
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1960年代のフランスは中絶禁止で
発覚すれば本人はもちろん処置した者も禁固刑。
近年、アメリカで大きな話題になっていたのは
記憶に新しいところではあるけど、
如何なる事情があろうともって事なのか?
宗教の問題もあるのだろうけど、少々理解に苦しむ。
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アンヌは成績は優秀であっても
決して「優等生」という感じではないので
自業自得感はあるのだけれど、
誰にも相談できず、
刻一刻とタイムリミットが近づく恐怖感
絶望感なんて
男性には全く理解できないものだろう。
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親友に告白しようものなら、
友達の縁を切る勢いだし、
男友達に相談したら
「妊娠してるなら大丈夫じゃん」と
体を求められる始末。
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「いつか子どもは欲しいけれど今じゃない」
「人生を引き換えにしてまで」
「不公平だ」の言葉がリアルで等身大。
遠距離恋愛中の彼氏が放った
「傲慢だな」とは
一体誰に向かって言ってるんですか?と言ってやりたい。
とはいえ、
消防士とのあれはアンヌの浅はかさが鼻に付く。
反面、安堵からなのかもしれないけれど軽率です。
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カルテに書かれる言葉がアンヌの生死を
(肉体という意味ではなく)
決めることになるが、
あの場にいた医師が、唯一アンヌの状況を
理解し親身になってくれていたあの医師で
あったと思いたい。
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原作者のエルノーは現在82歳。
自身の経験をもとに女性の”性”に焦点をあてた本作は、
1964年の3か月間の間に彼女が経験した何もかもが
見事に詰め込まれている。
この画角で表現したこと
観始めて早々、画角の狭さに気付いた。
印象としては正方形に近い。
調べたら1.37:1とのこと。
主人公は予期せぬ妊娠をした大学生アンヌ。
物語の舞台は60年代フランスで、当時、中絶は法律により禁止されていた。
アンヌは教師を目指している優秀な学生。
だが、妊娠、出産となれば大学を中退せざるを得ない。当時、女性にとってそれは主婦になるか、または工場などで働く労働者になることと同義だった。
物語の流れとしてはタイムリミット・サスペンスである。
妊娠週の進行がテロップで表され、時間が、着実に主人公を追い詰めていく。
そこに、この画角の狭さが効いている。
画面の窮屈な感じが、緊迫感をよく表しているのだ。
どこにも持って行き場のない苦しみ、心の余裕のなさ。
そして心理面だけでない。
中絶手術が禁止されている以上、主人公には取り得る行動の選択肢がほとんどない。つまりどうにも手の打ちようのない、いわゆる“詰んだ”状態にあるのだ。
こうした状況を本作は実に巧く表現していて、終始ヒリヒリとした感覚が狭い画面から溢れ、観るものに迫ってくるのだ。
加えて、本作にはたびたび主人公のクローズアップがある。
そして時間の進行とともに、彼女の苦悶の表情は深まる一方なのだが、この画角は、観客とアンヌとの距離感を縮めている効果があると感じる。
アンヌは孤独だ。
妊娠のことを打ち明けられる人は限られる上、親身になってくれる人はさらに限られる。
そもそも妊娠は、その女性の身体に起こることで、たとえ夫がいたとしても、その身体感覚を共有することは困難だろう。
その、孤独なアンヌを捉える画面が、この画角ゆえ近くに感じられるのだ。
観ていて何度か震え上がるような、身体的に“痛い”シーンがあるのだが、まさに画面から「迫ってくるような」感覚が伝わってくる。
結局、闇医師の手により、アンヌは中絶の施術(“手術”とは呼べないだろう)を受けることが出来た。
施術を受ける場所が、「袋小路の道の最上階」というのも象徴的だ。
まさにアンヌは袋小路に閉じ込められていて、助けを求めて天に近づくしかない。
ラスト、物語は意外な結末を見せる。
終盤、アンヌは、指導教授に講義録を見せてほしいと頼みにいく。
妊娠によって勉強が手につかなかった分を挽回するためである。
そしてさらに彼女は、将来の志望を教師から作家へと変えると教授に告げる。
この妊娠は、彼女にとって歓迎したくない「事件」ではあったが、確かな変化と成長をもたらした。
本作の原作者、のちにノーベル文学賞に輝く作家アニー・エルノーの誕生である。
診断書を書く医師ガチャ過ぎる 流産って書かれたのが救いなのかな S...
診断書を書く医師ガチャ過ぎる
流産って書かれたのが救いなのかな
SFでいう体に時限爆弾セットされたような焦燥感、笑いとかは一切なくてひたすら孤独との戦いのように見えた
カメラが一人称に近い撮られ方してるので大分アンヌ視点でみれた
自分が気持ちイイ事した結果のくせに…
20代の女が自力で産み落として逮捕されるとコメント欄はその言葉で踊る
しかし気持ちイイ事をした結果は女一人では成し得なかったはずだ
同じように気持ちよくなり、誘って来た男は簡単に逃げる
リスクを背負うのは女だ
痛みもお金も刑罰すらも女が背負う
日本で堕胎は違法行為ではないので信じがたい法律ではあるが、あそこまで色々試しても流れない子がすごい
不妊治療までして産みたい夫婦がいると言うのに神様はなんで残酷なんだろう
彼女の選択が間違っていたとは思わない
私でも迷わずに堕す
自分の人生と引き換えにはしたくない
それでも後ろ指を刺される
自分が欲望に負けた結果だろ、と
そうだろうか?
中に出した男はなぜ何の責任も取らないのか?せめて金を出せ、人を寄越せ、謝罪しろ、と感じる
淡々と描かれているように見えるが、平然を装っていても生理が遅れている時の恐怖感、妊娠してから目に見えて成績が下がっていく描写
全てが生々しい
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