あのことのレビュー・感想・評価
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逃げられない女性、消される命
主人公アンヌを演じた、アナマリア・バルトロメイの体を張った演技がすごい。前半はアンヌの行動について頭の片隅であれこれ考えていたが、実際に中絶をする後半はそんな余裕がなくなってしまった。
女性の体を持つ人間は、その体が起こす自然現象の前で孤独だ。日常である生理でさえ、女性同士の間でもその痛みや出血の度合いは千差万別。ましてや中絶が犯罪である60年代フランスでアンヌのような立場になれば、その孤独と不安はすさまじいものだろう。妊娠に至る経緯の是非を超えて、そんな彼女の心身の痛みを主観で見せられる100分間だ。
アンヌの妊娠の原因になったセックスについて、あまりにアンヌ側にも愛がない様子でちょっともやもやしたが、個人的な価値観で見方を固定する前に、背景を考慮してみる。
性教育が浸透してきた現代と違って、性交渉がもたらす結果についての想像力は、情報が少ないゆえに大学生でも乏しかったのだろう。針金を突っ込んだり怪しい堕胎方法に頼りながら「いつかは出産したい」と無邪気に言う様子にも、知識の少なさを感じる。
そもそも、労働者階級の女性が大学で学ぶ、ということ自体のハードルが高かったであろうからなおのこと、どんな中絶手段を使ってでも大学での学びを手放したくなかったのだろう。
だったらなおさら性交渉に慎重であるべきだったのでは、とも思ってしまうのだが、アンヌはそういう後悔はしないタイプだ。彼女の事前の認識が甘かったとして相手の男もそれは同じか、当事者感覚はさらに薄い。お互い低い認識で同じことをして、命(胎児を含めて)に関わる結果は女の体にだけ刻まれる。その点では、不公平だと口にしたくなる気持ちも理解出来る。
ただ、当時の感覚と彼女の若さでは難しかったのかもしれないが、「主婦になる病」の原因以外の存在意義を持たないまま消えていった胎児の命が、人間扱いされていないのが苦しかった。
中絶の権利を語る時には、(レイプなどによるやむを得ないものを除いては)中絶しないですむにはどう行動すればよいのかという内省(男女ともに)と常にセットであってほしい。そうでないと消される命が報われないのではとどうしても考えてしまう。
アンヌはレイプや強要ではなく、気軽な性交渉の結果ああなっていたが、自由に性交渉する権利が子供の命を上回るとは個人的には思わない。男は自由にやってもリスクが少ないのに女だけこんなふうになるのは不公平だ、男が悪い、と言い続けても体の作りが変わるわけではない。結局、自分の体は自分で守るしかない。
針金を使うような堕胎方法の荒さは、安全かつ合法的に対応出来る方法がない時世だったので仕方がないとする。それでも、妊娠発覚後にも誘われて結局セックスをするなど、アンヌが自分の体を大切にしないところも共感を遠ざける一因になった。
とはいえ迫真の演技には十分引き込まれて、中絶の不安や恐怖とはこういうものか、という実感のようなものがあった。そこはたくさんの人に観てほしいと思えた作品。
本作を衝撃作と呼ぶことをやめるところから始めたい。
主人公の硬質な佇まいも、寄る辺のない世間の冷たさも、主人公がぶつかる壁の理不尽な高さも、すべてを飾ることなく提示しているのがいい。目を覆いたくなるようなシーンもあれば、当惑するような裸のシーンもあるが、どれも映画ならではの虚飾とは程遠く、2022年の日本での公開作では『セイント・フランシス』と並んで、何を見せるか、何を見せないかという映画のリテラシーを更新する作品になるのではないか。
手法的には『サウルの息子』、内容的には『4ヶ月と3週と2日』に通じるのだが、堕胎にまつわる先達には『ヴェラ・ドレイク』やソダーバーグの『ザ・ニック』、前述の『セイント・フランシス』などがあって、手法が変われど脈々と受け継がれ、叫ばれるべき女性たちの主張とテーマがある。時代設定は
60年代のフランスとしても、現代に連なる物語として、特に若い人たちがこれをフラットな気持ちで受け止められる世の中になって欲しいと乞い願う。
かつてない忘れえぬ映画体験となった
映画芸術の最も素晴らしいところは、自分にとって未知なる世界を垣間見せてくれる点だと思う。その意味で本作は衝撃的だった。男性の僕がいま、スクリーンに映し出された可憐なヒロインと秘密を共有し、徐々に増していくお腹の膨らみを感じている。そして彼女の「出産しない」という決断を叶えるにあたっての長く過酷な道のりに寄り添っている。かつて映画を通じてこんな視覚的な経験を生きたことがあっただろうか。印象に刻まれるのは、人にはなかなか打ち明けられない悩みを抱えた彼女の押し黙った表情。それにもかかわらず常に眩く射し込んでくる陽光。両者のギャップは一見すると残酷なようにも思えるが、ふと僕にはこの陽光が原作者アニー・エルノーが若き日の自分に向けて注ぐ一つの励ましの眼差しのようにも感じられた。と共に、本作は決断の重さを描いた物語でもあり、エルノーの忘れえぬ記憶や痛みがここには強烈なまでに焼き付けられているのである。
違法の堕胎を望む女学生の苦闘を疑似体験させる衝撃作
予備知識なしでぼんやり観始めて、大学生の主人公アンヌが1940年生まれという台詞があり、「ジョン・レノンが生まれた年だ」などと反応し、そこでようやく1960年代の話だと思い至った。
スタンダードサイズの画角は、古い時代のルックに貢献しているだけでなく、プレス資料に「(オードレイ・)ディヴァン監督が本作のアスペクト比を1.37:1にしたのは、カメラとアンヌを完全に同期させるため」とあるように、4対3(1.33:1)よりわずかに広いだけの画角により、両脇の視野が限られるぶん観客は被写体の姿に集中し、やがて彼女の視点に、さらには内面に同化していくような感覚になっていく。そしてもちろん、望まない妊娠をするが、中絶が非合法の時代において堕胎の試みが何度も失敗するなか、週が経過するにつれて焦りが募り、そのことで頭が一杯になり視野狭窄に陥る感覚や閉塞感も、このアスペクト比によって強調されている。
ディヴァン監督はこれが長編2作目で、ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞受賞という快挙。2週間早く日本公開された「ファイブ・デビルズ」もレア・ミシウス監督の第2作だし、フランスでは女性監督の躍進が続いている印象で、これも歓迎すべき傾向だ。
【12/13更新】初回投稿時にレイティングに関して誤った記述があったことをお詫びします。当該部分を削除しました。
この不公平さというか理不尽さというか…は到底許せるものではない
12週後...‼️
理解のない人は現代にもいる
映画を観て大概の場合は、本作の主人公アンヌが講義で聞いていたようなアプローチ、つまり、どんな物語だったのか、や、テーマやメッセージは何か、とか、見所は?他の作品と比べて特別なところは?などといった具合でみている。
一緒に観ている妻も似たようなアプローチだ。
しかし、本作に限って妻は、もっと感情的に、身につまされるような感覚の心情を私に述べた。
アンヌの心境も、妻の言も、本当に理解することは難しいかもしれないが、確かに、この作品を観ている間の息苦しさは感じずにはいられない。
この作品の内容を完全に現代に置き換えることは難しいだろう。それでも、女性の選択肢の少なさという意味では現代でも解消しきれていない地続きの問題である。
本作の製作国であるフランスはもちろん、日本よりも性差について進んでいる他の欧米諸国でもそれを訴えようとしているのだから、もう少し何とかしようと意識を変えていく必要を感じる。
既に書いたが、観ている間ずっと息苦しい作品だ。
せめてもの救いが最後の医師のセリフだ。それで安堵してしまったのだからこの作品の閉塞感は恐ろしいものがある。
望まない妊娠と「女性」という立場
<映画のことば>
大半の医師は中絶に反対だ。
女性には選択権がないと考えている。
(中絶藥ということで他の病院が注射したエストラジオールは)流産防止の藥だ。
別に「セクハラ」とかなんとかいう意図は、評論子にはまったくないのですけれども。
物理的に妊娠して子供を産む機能が備わっているのは女性の側だけであって、その機能が(状況によって)入れ替わったりしないというのは、高等動物としての人間についての客観的な事象であると思います。
(その点、雌雄同体になっているような原始的な動植物とは、決定的に違うわけで。)
まして、女性は、その機能維持のために、毎月毎月、頭痛や体のだるさなど、男性にはない不快な体調不良を我慢してもいる―。(男性である評論子には、もちろん経験はありませんが、人によっては、動けなくなってしまうほど重いこともあると聞きます。婦人科系の病気で外科的な処置(手術)を受けた女性から、反面、いつでも気兼ねなく、好きな温泉入浴が楽しめるようになったと聞かされたこともありました。男性の評論子には想像すら難いのですが、そんな不自由・気苦労もあるようです。)
そういう物理的な「違い」というのはどうすることもできない訳ですし、これからも、未来永劫そうでしょうから、その中で真の「ジェンダーフリー」を実現するのならば、そういう物理的な「差異」を認めた上で、意識の上での「フリー」を図っていくしかないことになるのだとも思います。
(その意味では、「女性医師が産前産後休暇をとると、ただでさえ長時間労働が恒常化している医療現場は回らなくなる」―などという近視眼的な理由から、男性受験者に加点したり、女性受験者を恣意的に減点したりしていたという某医科大学の入試は、論外。)
本作は、私が参加している映画サークルが、地元で公開された作品の中から毎年選ぶベストテンの一本として、2022年に選ばれた作品でした。
上掲のようなジェンダー問題も背後に透けて見えるかのような本作は、充分に、佳作と評することができると思います。評論子は。
(追記)
ちなみに、日本でも人工妊娠中絶は、妊婦自身がすることでも(自己堕胎)、医師が行う場合でも(業務上堕胎)も、原則としては違法行為であると言ったら、レビュアーの皆さんは、驚かれるでしょうか。
(実際には、母体保護法の、いわば拡大解釈によって、その手の手術は広く行われていることは、周知のことと思います。)
(追記)
ものの本によると「堕胎罪の保護法益については、胎児の生命・身体、母体の生命と身体、性風俗、人口維持に対する国家的利益など種々のものを考えることも可能であるが、現行刑法は、胎児の生命・身体と母体の生命・身体の双方を保護法益としていると考えるべきである。自己堕胎・同意堕胎を処罰しようとしていることは、胎児の生命・身体を保護法益としていることを示すものであり、第三者堕胎を自己堕胎より、また、不同意堕胎を同意堕胎より、さらに妊婦を死傷に致した場合、重く処罰しようとしていることは、母体の生命・身体を保護法益としていることを示すものである」(斎藤誠二編著、八千代出版「改訂刑法各論」1990年)とされています。
残念ながら、そこでは、産むこと・産まないことについての女性の側の意思(決定権)は、微塵も省(かえり)みられてはいないようで、法律は(少なくとも刑法は)、その水準のことは何も考えていないということに、どうやらなりそうです。
妊娠して子供を下ろす事を疑似体験出来ます。
救いがない
中絶が法律で禁止されていた頃のフランス1960年代の、妊娠してしまった女子大生の話。
全く産む気のない主人公がなんとか中絶しようと必死になる話。なんの罪の意識もない主人公に、相手の男性も真剣に考えていない様子。友達にも関わらないほうがいいと突き放される。誰にも共感できないし、同情もできない。救いがない映画。
ガムちょうだい。もうないと言って、自分のかんでるガムをあげる。それをもらう主人公。ヒエ〜
仲のいい友だちだって、かんでたガムはもらえないよー。
中絶してトイレで産み落とした時、友達にハサミを持ってきてもらい、自分できれないから切って、と頼む主人公。友だち可哀想。いやよねえ。私なら頼まれても切れないかも。
あまり観ていて気持ちのいい映画ではない。
大切な命の母なるべき人生か⁉️
1960年代のフランスだと堕胎は法律違反。
施術した医師と受けた本人の女性が刑務所行き、となったらしい。男性が対象とならない、というおかしな法律。
賢い前途有望な女子大生が、妊娠してしまい、苦悩していく様子を映し出していく。
本当に女の性をちゃんと見極めるべきであると思った。堕胎を罰する法律を制定したのは男たちじゃないかと。女の意見を聞かずして。
堕胎は子供を殺すことになるから、むやみに堕胎してはいけないという意味合いはわかる。
しかし、妊娠に繋がる性行為は男女二人でするのだから、
責任は半々であるべきであるのにもかかわらず、ほぼ女性に肉体的にも、社会的にも負担になり、自身の将来を考える主人公などにとっては、苦悩することになる。
男性は気楽だ。言うこと聞かないなら会わないと逃げ出すこともできる。
妊娠出産が、
全てにおいて男女にきっちりと公平なら、
罰する事も受け入れられよう、もちろん男女平等に。
だが、現実的には違う。
ならば、当時の法律は間違っていると言えよう。
主人公本人が、どうにか自分で堕胎しようと試みるシーン、観てられなかった。
結局失敗する。
親に打ち明けられず、本やアクセサリーなど自分の持ち物を売って費用を工面し、
ヤミのところでの施術も大丈夫かと思うような場面だった。
失敗し、二度目命の危機に。
決して軽はずみに堕胎するのでは無いなら、法律を変えるべきだと思った。
しかし、主人公が避妊せずに性行為をするのも、向こう見ずで運を天に任せているような会話など、性の乱れは戒められる必要があると感じた。。主人公本人が命の大切さをどう考えているのかも描いて欲しかった。
ホラー風味で撮られた新味。
葛藤を一人称視点で浴びる
2022年劇場鑑賞96本目 優秀作 73点
結論、観る人が等身大で衝撃的な体験をできる怪作
60年前のフランスでの物語で、主人公は当時大学生で教員を目指している優秀な生徒だったが、ひょんなことで妊娠してしまう。当時のフランスは法律により中絶が禁止されていて、まだ勉学に励みたいので出産し育児する気も無ければ、中絶し捕まる気もさらさらない。そんな中で葛藤する彼女の決断までの数ヶ月を凄まじい臨場感で体験させられる作品
部屋で自分でどうにかしたり、医者に最初は頼ったり、手に負えなくなって闇医者に頼ったり、みてるこっちまで痛すぎるよ
最後のトイレでのシーンはもう悶絶した
当方ちゃんと映画を劇場鑑賞し初めて22年で5年目くらいのまだまだ歴は短いものですが、数年前から作品を判断する上で欠かせないポイントが衝撃的であるで、これは内容でも演出でも演技でも音楽でもなんでもいいのですが、作品それぞれの色やベクトルで個人的にひっかったポイントが残り続けるものは自ずと評価が高く、今作はそういった意味で例に漏れずまさしく衝撃的な内容に演出に演技で、残り続ける作品に間違いなくなります
是非
鼻につく
やはり私はヨーロッパの映画祭との相性が良くないことを再確認。
この映画の良さがよく理解できない。
まず鼻につくのがヒロインの被害者面。
悲劇のヒロインにでもなったつもりだろうか。
こと妊娠に関しては確かに女性に大きな負担を強いる不公平さはある。
だが、それを差し引いても自らの身から出たさびには違いなく、
一方的に中絶できない制度を嘆き反発するのには反感を禁じ得ない。
第二に自らの子に対する愛情の片鱗や性への尊厳がないことに唾棄する。
フェミニスト活動家にありがちな天上天下唯我独尊、
自らの思想にかなわないものはすべて悪という思想と同じ匂いを感じる。
昭和のドラマのように必要性の薄いシャワーシーンや赤裸々な表現の乱発も
表現の自由とやらでゲージツなのかな。
孤独な戦い
1950年代のフランス。
妊娠した女学生が堕胎のために奔走する様子がたんたんと描かれる。
当時中絶が重罪だったことで医者から見放され、アンヌ(Anamaria Vartolomei)は誰にも打ち明けず、ひとりで向き合って苦しみぬく。
その意味で、17歳の瞳に映る世界(2020)やムンジウの4ヶ月、3週と2日(2007)よりも見ていてつらかった。
ほとんど恐怖映画。
2022年にノーベル文学賞を受賞した仏作家アニーエルノーの自伝小説L'Événementの映画化──とのこと。ウィキによればアニーエルノーは著作のほとんどが自伝だそうだ。
妊娠を誰にも言わないところに特有の気質を感じた。
個人差もあるだろうが、依頼心がなく、すべて自分の問題として解決しようとするところにフランスの冷徹な個人主義を感じた。
エルノーの親はカフェ兼食料品店を営む労働階級だったそうだ。迷惑をかけまいとする頑なな自立心が、フランス人らしくもあり作家らしくもあった。
ウィキ情報だが、ダルデンヌ兄弟のロゼッタ(1999)を引き合いにしている批評家がいて、はげしい共感をおぼえた。
近接カメラのリアリティ表現も、ひどい条件下で不屈の人物像もたしかにロゼッタだった。
この映画は2021年のヴェネツィアで金獅子賞、併せてAnamaria Vartolomeiの演技も賞賛された。監督はAudrey Diwan。もとは脚本家であり、長編の監督は2本目だそうだ。
個人的に創作物に子宮感覚なんてないと思っているが、この映画は女性が監督していることがよくわかる映画だった。
17歳の瞳に映る世界(Never Rarely Sometimes Always)を見たときもそれを思ったが、妊娠の話だけに、どうしようもなく顕われてくる生理的情緒があった。
どこが──という指摘はできないが、たしかに女性が描いている(監督している)ことが解った。
ただ、それはAudrey Diwanが有能だからであって“女性だから”ではない。
すなわち、この映画は女性が監督をしていることが解るけれど、それは女性だから女性感覚や痛みを体現できた──のではなくAudrey Diwanの脚本家のキャリアと演出家としての力量によってそれが体現できたのだった。
(いい映画があり、監督が女性で、堕胎を描いている──となるとフェミ界隈が寄ってきて女性感覚や女性権利を標榜してしまうが、女性であることの前段に映画技術がある──ということを言いたかった。)
中絶ができる限界期をあらわすように週毎にテロップが入る。
編み棒で掻きだすも失敗し、お金をつくって闇稼業の堕胎婦のところへ。
全体を通じて彼女は泣き言を言わず誰のせいにもせず愁嘆場もなかった。
その強さを支えたのは向学心だったにちがいない。
見た後で原作がアニーエルノーという作家で2022年にノーベル文学賞をとったというのを知って腑に落ちるものがあった。
一種の“ファイター”を描いていると思う。彼女の体験は“戦った”としか言いようのないものだった。
女性にも男にも痛々しく突き付ける“事件(あのこと)”
新たな生命の誕生。それはこの上なく幸せな事。
…と思っているのは、愚かな男の妄想に過ぎないのかもしれない。
そもそも男が出産する訳ではない。身体の異変、妊娠や出産への不安。ましてや想像を絶するという産みの苦しみ。
男なんて種を植え付けるだけの傍観者に過ぎない。
勿論、子供を欲し、愛し合う夫婦だったら何の弊害もない。
が、それがもし、未婚で、望まぬ妊娠だったら…?
中絶が法律で禁止されていたら…?
今も法律で中絶が禁止されている国は多い。
1960年代のフランスもそう。
大学生のアンヌ。ある日突然、自分が妊娠している事を知る。
診察した医師には恋人も性行為もないと言ったが…、心当たりあり。
非常に困った。と言うのも、アンヌは成績が優秀で、進学を目指している。
いずれは愛する人と出会い、その間に子供を望む時が来るかもしれないが、それは今じゃない。進学という道を行きたいのだ。
まさかの望まぬ妊娠。
手段は一つしかない。が、法律で禁止されている…。
作者の実体験を基にした小説の映画化で、タイトルは“事件”。確かに本人にしてみれば、“事件”だ。
邦題は“あのこと”。誰にも知られてはいけないという意味合いだろうが、この邦題センスも悪くない。(インディーズ作品では優れた邦題が多い。それが何故メジャー作品になると時折首を傾げたくなる邦題が多いのか…?)
そんなアンヌの12週間に及ぶ“事件”級の“あのこと”…。
印象的なのは、カメラがアンヌに密着型。さながらリアル・ドキュメンタリーを見ているかのような臨場感。
その手法は、アンヌの一つ一つの感情をも掬う。
呆然、戸惑い、不安、焦り、もどかしさ、苦悩…。
それらがアンヌの息づかい、汗、体臭まで漂ってきそうなほど、ビシビシと伝わって来る。
尺は100分ほどだが、見てるこちらもアンヌと一緒になって苦闘の12週間を体感。
痛々しいシーンや目を背けたくなるシーンもある。
もし“やったら”逮捕されてしまう。よって、医師は何処も誰しも拒む。
アンヌは自分で中絶を。熱した鉄串で…。((( ;゚Д゚))) 胎児は元より母体の方が心配。
失敗。仕方なく限られた友人知人に事情を打ち明ける。ほとんどが助けを拒むが、ようやく遂に、“してくれる”人を紹介して貰う。
大切なネックレスや本を売って資金を集め、指定された場所と日時へ。
言うまでもなく、違法。周囲に聞こえないよう、どんなに苦痛でも声を上げない事。万一の事があっても自己責任。
耐えに耐え、処置は終わった…筈だった。不十分だった。
何だか、何としてでも堕ろしたい母体と何としてでも産まれたい胎児の鬩ぎ合いのように感じた。
アンヌの身体に異変。突然、流産。一瞬だが“それ”も見せ、衝撃…。
体調が悪化。意識が朦朧としていく…。
同じく中絶を扱った『ヴェラ・ドレイク』『4ヶ月、3週と2日』。凄まじい出産シーンの『私というパズル』…。
これらの作品のリアルさ、生々しさ、衝撃は尋常じゃない。並みのホラーなど比じゃない。
如何に作り物のホラーが安っぽいか。実話でないものもあるが、迫真で恐ろしさに押し潰されそう。
もし私が女性だったら、本作を見たら、妊娠する事が恐ろしく感じてしまうだろう。絶対、中絶なんてしたくない、と。
それをひしひしと感じさせたオドレイ・デュワンの演出。
全編出ずっぱり。アナマリア・バルトロイの熱演。
二人の女性の才能が源となり、本作を確かなものにしている。
妊娠全てがそんな恐ろしい事ではない。初めに挙げたが、本来は喜ばしい事だ。
賛否分かれる中絶問題。産まれてきた生命を“殺す”なんて…。だけれども、どうしてもどうしてもそうしなくてはならない状況の人たちも居るのも事実。
本作はその是非を問う作品ではない。本作が訴えるもの…
結局全てを負うのは、女性だ。苦悩や実際の痛み…全てを負う。現に本作で、相手の男は何をした? 男どもよ、知らぬフリをするな。知れ。
その時だけの快楽や勢い。無理矢理強制されたのなら話は別だが、受け入れた側も“想定”して何の防止もしなかったのか…?
アンヌも妊娠してる身ながら男と行為に及ぶ。人の三大欲求だから抑え切れないのは仕方ないとしても、現状が現状だけに…。
どっちがどっちと否を明確にしておらず、見る側に委ねる。
いつ突然、我が身やあなたの身に起きるかもしれない“あのこと”。
“それ”がどういう事なのか。
男はともかく、女性にも痛々しく突き付ける。
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