「男性器というモチーフを駆使して西部劇を解体。」パワー・オブ・ザ・ドッグ 村山章さんの映画レビュー(感想・評価)
男性器というモチーフを駆使して西部劇を解体。
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知性も感性も豊かながら、歪んだマスキュリニティにとらわれた男がたどる、奇妙な悲劇であり、西部劇に多く出演してきたサム・エリオットが「(男性ストリップショーの)チッペンデールかと思った」と嫌悪感もあらわに揶揄したことで批判を浴びたのが記憶に新しい。
ジェーン・カンピオンという映画作家は直接的にも隠喩としてもセックスに執着があって、この映画でも男性器を匂わせる描写がそこかしこに登場する。おそらくサム・エリオットはそういう部分に敏感に反応したのだろうと思われるが、実際に「そういう話」を「カンピオンらしいあからさまさ」で描いている以上、当然出てくる反応だったのではないか。そして、その執拗なほどの性の匂いへの執着が、映画がテーマやメッセージ性に縛られるのでなく、原作にあった匂いをさらに増幅させた個性を獲得させているのだと思う。
ややこしい書き方になったが、わざわざ数えてみたところ、直接的にせよ隠喩的にせよ、男性器を思わせる描写は27箇所あって(全部が意図的でないにせよ)、これってかなりの数である。その過剰さこそがこの映画の面白さにつながっており、過去にも作られてきた「同性愛的視点から西部劇を描き直す」系の中でも異様な迫力を伴ったのではという気がしている。ヘンな映画なんだけど、目が離せない。
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