「あなたは、あなた自身は、自分を名乗れますか…?」ある男 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
あなたは、あなた自身は、自分を名乗れますか…?
“別人ミステリー”は映画の題材でよくあるっちゃあある。
本作も話の入りとしては奇妙ながら実に興味惹かれる。
死んだ夫は別人だった。調査する内に明らかになっていく事実…。
謎が散りばめられ、少しずつ少しずつ事実に迫っていくミステリー仕立ての語りは最後まで目を離せない。
だが本作は、単なるミステリーだけに収まらない。
そこにいる人は本当にその人ですか? あなたは何者ですか? あなた自身は何者ですか?
ミステリアスで意味深で暗示めいたものを問い掛けていく。
加えて、差別や偏見、逃れたくても逃れられない自身の出生、何故別人として生きざるを得なかったのか、戸籍を巡る社会の闇、家族や夫婦の関係、幸せと不和…様々なテーマに斬り込んでいく。
エンタメ性と社会的メッセージ性と芸術性の見事な調和。
石川慶監督の一つ一つの緻密で深い演出、向井康介の巧みな脚本、キャストたちの名アンサンブル熱演。
昨年を代表する邦画の一本に偽りナシ。
ズバリ本作は、戸籍交換を題材にした作品。
ネットでちょっと検索しただけでも、戸籍交換に関する様々な項目が出てくるほど。
実際にそれがあり、実際にそれを請け負う仲介人もいる。
衝撃的でもあるが、私も戸籍で驚いた事がある。と言っても自分自身の事ではないが、
劇中で柄本明演じるかつて戸籍売買の仲介をしていた不穏な老人の台詞。“300年生きた人がいる”。
これを聞いた時、ピンときた。もう何年も前のニュースで、死亡届が出されず戸籍上生きている人がいるという。それも一人二人じゃない。把握出来ないくらい。
戸籍なんて言うと絶対的な自分の証明…と一見思う。が、実際は、どうとでも偽れる。
戸籍さえ名乗れば(偽っても)、相手はそう自分を見てくれる。
これ以上ない隠れ蓑。犯罪者にとっては。
戸籍を偽るのが全て犯罪者とは限らない。どうしても戸籍を偽らなければならない、そういった事情や人生に置かれた人も…。本当の自分を捨ててまで…。
窪田正孝演じる男がそれだ。
劇中と同じく、“X”と呼称しよう。
“X”は“谷口大祐”と名乗り、安藤サクラ演じる宮崎の片田舎町で文房具屋を営む里枝と出会い、やがて結婚。幸せな日々は4年と続かず、“X”は仕事中不慮の事故で死亡。“谷口大祐”の兄が一年後の法要に訪れるのだが、その時初めて全くの別人である事が発覚。死んだ夫は誰…? 里枝は離婚調停で世話になった弁護士・城戸に依頼。戸籍仲介人やある絵画展からようやく本物の“X”と彼の歩んできた人生に辿り着く…。
“X”の本名は“小林誠”。誠はどうしてもこの名前を捨てたかった。誠の父親は、凄惨な殺人事件を犯した犯罪者。犯罪者の息子。誠がどんなに偏見の目に晒されてきたか。
母親の旧姓で“原誠”へ。この頃誠はボクサーとなっていた。才能を開花させ、新人王も期待されていたが、何処の誰かが誠の出生を知る。逃げても逃げても、過去から逃れられない。
逃れられないのなら、別人になるしかない。そうして仲介人を通じて別人の戸籍を手に入れる。
最初は“曽根崎義彦”。そして“谷口大祐”。
“谷口大祐”としてようやく人並みの幸せを手に入れた矢先…。
“X”こと誠の人生は悲痛だ。何も自分自身に罪がある訳ではないのに、出生と名前のせいで…。
彼が車の窓ガラスに映った自分の顔を見た時、彼がボクシングを始めた理由、ロードワーク中の苦悶、“うっかり落ちた”はその苦しみ悲しみの表れ。
本作での戸籍交換は違法であろう。そもそも戸籍を交換する事自体、良し悪しは難しい所。
が、誠は戸籍を変えた事によって少なからず救われたと言えよう。ボクシングジムや林業の人たちにも好かれ、何より里枝と出会った事。里枝は前の夫との間に息子・悠人がおり、悠人も誠に懐いている。新たに娘も産まれた。
事実を全て知って、里枝たちは誠に嫌悪を抱いたか…? 否。
父親としての大祐が優しかったのは、自分が父親にそうして貰いたかったからなのか。そうであり、純粋に悠人の事が息子として好きだったから。
終盤での里枝の台詞。本当の戸籍など知る必要なかった。この町で彼と出会って、好きになって、4年にも満たないが幸せな家庭を築いた。それが全て。
この言葉に、誠の人生は報われたと言えよう。
里枝自身も離婚や亡くしたもう一人の息子の悲しみから救われたと言えよう。
あなたの目の前にいるその人は、愛した人自身なのだから。
この非常に難しい役所を、窪田正孝が素晴らしく演じ切った。
安藤サクラもいつもながらの名演、好助演。
本作は平野啓一郎によるベストセラー小説が原作。原作では微かな希望や幸せを感じさせる終わりだとか。
が、映画は違う。映画は何とも人の心の闇や意味深な含みを持たせた終わり方。
それを表すのが、妻夫木聡演じる弁護士の城戸。
城戸は人権派の弁護士で有能。
横浜の高級マンションで、美しい妻、幼い息子と満ち足りた上流暮らし。
全てが完璧のように思えるが、彼にも“陰”が時折覆う。
ズバリ、城戸は在日朝鮮人の三世。
義父母との会食でもそれを。別に差別的な意味合いはないだろうが、三世だからもうすっかり日本人…それは裏返せば差別そのものだ。
戸籍仲介人からは直球で“在日”と呼ばれる。侮辱される。三世でどんなに血が薄くとも、在日は在日。それを隠しおおせるものかとでも突き付けるかのように。(柄本明、さすがの怪演!)
調査の過程であるスナックでマスターの北朝鮮による日本人拉致陰謀論。
TVのニュースで報じられるヘイトスピーチ。
それらが少しずつ少しずつ、城戸の心を蝕んでいく。思えばこの件に携わってから、自身のアイデンティティーに直面する。
戸籍を偽って別人になるは、在日である事に触れさせず日本人で居続ける事に何か通じるとでも言うのか…?
“谷口大祐”の兄。ちょいちょい相手を侮蔑する事を言う。“本物の谷口大祐”が嫌になって縁を切りたかったのも分かるような…。
里枝と谷口兄を呼んで調査報告の場。“X”が犯罪者の息子と知るや否や、谷口兄は「犯罪者の息子は犯罪者の息子」と侮蔑。それに対し城戸は冷静にしつつも調査ファイルを机に叩き付ける。
城戸にはこう聞こえたのかもしれない。“在日の息子は在日の息子”。
生涯、在日として差別偏見に晒されなければならないのか。それも直球ではなく、うっすら陰ながら。時にそれは面と向かって差別されるより突き刺さる。
殊に日本人は差別や偏見に対して愚かで鈍感だ。性差別、人種差別、ジェンダー差別…それらへの見方があまりにも薄く、問題になる事もしばしば。
城戸が差別偏見に対して向き合い、己や周囲との関係が変わっていく…のならまだいいのだが、城戸は違う。
表面に出さない。が、怒りや憎しみを穏やかな顔の下に煮えたぎらせている。周囲だけじゃなく、それは在日である自分に対しても。
本作では戸籍仲介人や谷口兄など差別的な人物が登場するが、城戸が時折見せる“闇”はそのどれよりも深刻だ。いや、誰よりもヒヤリとさせるほど。
抑えながらも複雑な内面を含んだ役所を、妻夫木聡も見事に演じている。
ラスト、調査も終わり、城戸もまた家族との穏やかな生活に戻ったかに思えた。
ある時城戸は知ってしまう。たまたま操作した妻のLINEから妻が浮気している事を…。
妻を問い詰める事無く、何も見てないと平静を装う。また無理矢理自分を抑え込んで、偽りの顔を浮かべて。
ラストシーンが印象的。あるバーで、一人の男と話しているのは、城戸だ。
城戸は自分の事を話す。しかしそれは本来の自分の人生ではなく、“谷口大祐”としての“X”の人生を。それを自分の人生として。
差別偏見に晒され、妻にも裏切られ、城戸は自分と同じようでありながら最後は幸せな人生を歩んだ“X”の人生を欲したのだろうか…?
いや、別人になりたかったのは自分だったのだ。
開幕とこのラストシーンに登場する一枚の絵画。ルネ・マグリットの有名な絵画だという。
この絵画、何とも奇妙だ。一人の男が鏡で自分を見ているのだが、その鏡に写っているのは自分の後ろ姿。普通に考えれば変だ。
この絵画は『複製禁止』と言い、別人となり別の人生を複写した本作を表しているという。
それに自分を重ねる城戸。
別の人生、別の自分。
名を訊ねられ、答える寸前で映画は幕を閉じる。
城戸は“誰”と答えたのか…?
同時にそれは、我々に問い掛ける。
あなたは偽りなく、“自分”を名乗れますか…?
こんばんは🌟
共感していただきましてありがとうございました😊
戸籍のことよくわかりました。
何をどう考えればいいのだろうか?という作品でした。
原は一応、幸せだったと思えばいいのか。城戸が、複雑怪奇❣️
多要素が混ざりわけわかりません。子供は、妻と別の男性との子だったとか、だから、結婚できたのか、とか。難しい作品でした。
いやあ、すごいレビューでした。ありがとうございます。
> 日本人は差別や偏見に対して愚かで鈍感だ。
ですよね。多数派である集団の安定を重視するか、少数派の個人の権利を重視するか、というのが政治の一つの軸だと思いますが、これまでの日本はかなり前者に偏っていると思います。だから、少数派に対して「普通じゃない」とか「変わっている」とか言いがち。それが、差別や偏見の原点。単なる多数派を「普通」と言う癖をなくさないと、少数派を「異常」と勘違いしてしまう愚かさから、脱却できませんよね。
そんなことを考えさせてくれる映画でした。
近大さん
コメントへの返信を頂き有難うございます。
解釈をあれこれと考える時間、確かに醍醐味でしょうね。
新作が目白押しですね。僅かしか観ていませんが、佳い作品に出逢いたいです。
近大さん
近大さんが書かれた緻密なレビュー、とても読み応えがあり、幾つかのシーンを思い出しながら、3回読ませて頂きました。有難うございます。
戸籍を偽らざるを得ない苦しみを抱えて生きる彼らの人生に光を当てた作品でした。
窪田正孝さん、最優秀助演男優賞受賞も納得の迫真の演技でしたね ✨