「ラベルと中身。何が真で、何が偽なのか。 張り替えると偽なのか。そもそも真とは何か。」ある男 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
ラベルと中身。何が真で、何が偽なのか。 張り替えると偽なのか。そもそも真とは何か。
映画はたんたんと進み、終わる。
ミステリーとして観ても、人間ドラマとして観ても、胸にとどめておきたいような珠玉のシーンはあるものの、大きなカタルシスに向かってドラマが進むわけでもなく、ラストの意表をつくようなシーンはあるものの、どんでん返しというほどではない。
役者の演技で及第点ではあるものの、すべてが薄まった、帯に短し襷に長し、今一つのうまみが足りないもどかしさに、映画館を後にした。
なのに、なんだろう。後からじわじわ来る。
里枝と、自称大祐、里枝の母も含めた5人家族が、頭の中でかってに動き出す。
悠人が父の面影を追う姿。
城戸夫妻のそれから。
城戸自身の生きざま。
谷口のサイドストーリー。
小見浦のサイドストーリー。
そして、曽根崎のサイドストリー。
原作未読。
かなりはしょって映画化したのだろう。エッセンスだけを集めたように。
ラベル。
合法・違法な手段でラベルを変えることで、変わるもの・変わらないもの。
なりすました自称大祐。
帰化という形で、国籍というラベルを付け替えた城戸。
親の離婚・再婚によって、姓が変わる悠人。
自身の結婚・離婚によって、姓が変わる里枝。
ラベルこそ変えないのに、ラストに鵺の様相を見せる城戸の妻。…あなたは何者なんだ。
そして、その妻の真実を知って、城戸はカオナシになる。
城戸が被った仮面…。心の安らぎを求めたのか。
自分とは?
小見浦も言っていたが、その人がその人である証って何なのだろう。
他人が認める自分だけではなく、自分が認識する自分。
人生にいくつもある「たら、れば」
こうありたい自分と、こうである自分。
母であり、妻であり、子であり、女である里枝と城戸の妻は、それぞれにそれぞれの顔を見せる。
父であり、夫であり、子であり、男である城戸と自称大祐も、それぞれにそれぞれの顔を見せる。
そこにも、「父である」とか「弁護士である」とかのラベルが存在する。
戸籍を変えることで(帰化という手段で国籍を変えることで)、自称大祐や城戸が手に入れたかったものは何なのだろう。そして、手に入れられたのか。
自称大祐に関しては、手に入れられたのだと思いたい。
ラベル(名前)を付けることで、不特定多数の対象が、誰でもない特別なものになる(A manから The man)。そのラベルを付け替えたら…。
でも「ぼくのお父さん」というラベルの付け方もあるんだな。戸籍上・血縁関係がどうであろうと。
ステップ・ファミリーや事実婚の関係性。何を本物とし、偽物とするのか。心のつながり。制度のつながり。
「分人主義」
原作者の平野氏の講演を聞いたときはわかったような、「面白い発想」と思ったものだ。
だが、この映画を観てよくわからなくなった。
結局、自称大祐が手に入れたものは、それまでの人生で培った人間性によるものではなかったのか。彼の悩み・苦しみ・絶望が、人への優しさ・慈しみに昇華されたからこそ、手に入れられたもの。「ラベル」こそ変えて、リセットできたから、その優しさ・慈しみを素直に表現できたのではあるのだが。そして、それは悠人に受け継がれていく。
反対に、瓦解していく城戸。息子が名付けた金魚の名前で困惑。息子と同じものが見られない城戸。象徴的なシーン。
時間がたつにつれ、様々なことが頭に・心に浮かんでくる。
余韻がいつまでも響く。
★ ★ ★
しかし、原誠のトラウマは半端ない。
死刑囚の息子という境遇。
友達のうちに遊びに行ったら、まさかの場面に遭遇。その現場を見ただけでも、トラウマ必須なのに。その犯人が父だなんて。その父から手渡しされたもの。
なぜ、彼は顔を変えなかったのだろう。