「監督が「決闘裁判」を通して描きたかったこと」最後の決闘裁判 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
監督が「決闘裁判」を通して描きたかったこと
黒澤明の「羅生門」以降、異なる証言で構成される映画は数多く政策され、「最後の決闘裁判」もその系譜である。
黒澤は「羅生門」の中で真実を明確にした上で、自らのメッセージを伝えたが、「最後の決闘裁判」は果たしてどうだったか。
この映画で言いたいことは、監督であるリドリー・スコットのインタビューに関するエピソードに集約されているように思う。
「第2幕と第3幕の表現にあまり違いを感じられなかった」という記者に、監督は「もう一度映画を観ろ!」と激怒したらしい。
観る前にその話を夫から聞いていた私は、自分もそんな迂闊な感想を言いはしないだろうかとチラリと思ったが、実際に鑑賞すると「どう観たら“あまり違いを感じられない”って感想になるんだ???」と唖然としたくらいだった。
「最後の決闘裁判」の中でも、真実のみを述べる者はいない。誰も彼もが巧妙に「真実」を自分の都合の良いように捻じ曲げ、他人へ伝える。単純に嘘とは言い切れない。「主観的な事実」こそが個人にとっての「真実」なのだから。
ただ一つ決定的に違うのは、マルグリットだけが明確に本人の意思で嘘をついている事だ。
自分の都合で「事実」を解釈する男2人と、生き延びるために「事実」を偽る女1人、という構図により、聞く人それぞれの立場と誰から話を聞くのかによって「誰の話が真実なのか」が絶妙に食い違うところが面白い。
リドリー・スコット監督が「誰の話が真実なのか」を明確にしようとしないところがミソである。史実ベースとはいえ、脚色するにあたって後世の作家が「自分の思う真実」を描いても良いはずなのに、あえてそうしなかったように思う。それは何故か。
黒澤明が「人間不信と、それでも人間を信じる希望」を描きたかったのに対して、リドリー・スコットは「ハラスメントとは何か」を明らかにしたかったからだ。
第3幕、マルグリットの証言の中で義母は彼女に「無理矢理犯されたのが自分だけだと思ってるの?みんな同じよ。それでも黙っているの」と叱る。それはまさに現代でも女性同士の会話でチラホラ聞こえてくる話と同じだ。
軽度のものからえげつない行為まで、セクハラ行為とおよそ無縁で生きてきた女はいない。その時「私だって我慢してきたのよ」は最悪の助言だ。
パワハラだって同じ、「愛の鞭」だとか「厳しい指導があってこそ成長できた」とか、「みんな我慢してきた」ことを受け継ぐ姿勢は何の価値もない。
ハラスメントを容認し、耐えて来たことが新たなハラスメントの犠牲者を出す不毛な世界を垣間見ることで、観客に気づきを促したいのだと思う。
だから、実際にカルージュ、ル・グリ、マルグリットのどの話が真実であるかはテーマとは関係がなく、どうでもいいこととして処理される。
実際、「決闘裁判」というシステム自体が「真実などどうでもいい」とハッキリ謳っているではないか。「勝利が真実」になるのなら、強者がこの世の掟なのだ。それはつまり「立場の強い奴が正義なんだから、立場の弱い奴はその理不尽を受け入れろ」ということなのだ。
強い者が弱い者に理不尽を受け入れろ、という姿勢は現代ではハラスメントにあたり、それは勝者が全てを決める世界の在り方である。それを無自覚に行うのか、自覚して行うのか、意義を唱えるのか、それが観客たちに突きつけられたテーマだ。
テーマについて色々書いたが、「真実などどうでもいい」決闘裁判であることが、ミステリーとしても非常に面白い効果を生んでいると思う。
現代的ミステリーなら、真実を明らかにする為の決定的な証拠が必要で、物語の真実に信憑性を持たさなければならない。だが、決闘裁判はいわばスポーツと同じで、観客の肩入れしている人物が勝っても負けても結果は結果、「しょうがない」で済む。
根拠が薄いとか、理論的じゃないとか、ご都合主義とか言われない。
だって、所詮勝ち負けだからね。