「14世紀のフランス。 騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン...」最後の決闘裁判 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
14世紀のフランス。 騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン...
14世紀のフランス。
騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)と従騎士のジャック・ル・グリ(アダム・ドライヴァー)が王の目の前で決闘裁判を行うことになった。
勝者には正義と真実の証が与えられ、敗者は汚辱にまみえるというもの。
争う事柄は、ジャンの妻マルグリット(ジョディ・カマー)が、ル・グリにおかされたかどうか。
ド・カルージュ夫妻とル・グリの告白は真っ向からぶつかり合うものだった・・・
といったところからはじまる物語で、決闘裁判に至るまでの経緯を、ジャンからの視点、ル・グリからの視点、マルグリットの視点から描くというもので、当然のことながら、黒澤明監督『羅生門』を想起せざるを得ない。
となると、おかされたのかどうか、というのが興味の焦点になるだろうし、観る側はそれを期待する。
が、ジャンからの視点、ル・グリからの視点と観進めていくと、そこに焦点があるように思えなくなってきます。
ル・グリからの視点からみても、それはあったに違いないし、それ以外には解釈のしようがない。
ならば、無理やりだったのかどうか、ということになるのだけれど、マルグリットの視点からみても、あきらかに強要されたものとしかみえない。
で、観ながらもしばしば混乱するのだけれど、ラストシーンで腑に落ちない謎が解ける(といっても、謎解き的な終わりではありません)。
ジャンとル・グリの、争いにおける真実は「名誉」に関わることなのだけれど、マルグリットが求めていることは、まるっきり異なる。
マルグリットの心の根底にあるのは、父親が与えてくれると約束していた「小さな荘園」である。
ジャンの許へ嫁ぐ際、マルグリットの持参金の一部としてド・カルージュ家のものとなるはずだったけれども、その「小さな荘園」は地代の替わりとして領主(ベン・アフレック)のものとなり、巡り巡ってル・グリのものとなる。
辺境のやせこけた地にあって、その「小さな荘園」だけが、豊かな、生きるに値する土地であり、マルグリットの生きがいだったから。
この「小さな荘園」に関するエピソードは、ジャンからの視点でも、ル・グリからの視点でも、いくらか異なった形で登場するので、見逃し厳禁。
つまり、マルグリットにしてみれば、
持参金の一部としてド・カルージュ家のもの(つまり、自分のもの(実際には異なるのだろうが))となるはずだった「小さな荘園」、
それをいま手にしているル・グリからの愛の告白(ここで、ル・グリはなにものにかえてもマルグリットを守ると誓っている)、
にもかかわらず、ことが終わった後のル・グリの手のひら返しに対して、裁判で再び取り戻そうとし、
決闘裁判でどちらが死んでも最終的には再び自分のもとに戻ってくる
と信じていたのであろう。
決闘裁判で
ジャンが死んだ場合は、未亡人として土地の所有者になる、
ル・グリが死んだ場合は、ふたたび取り戻せる、
と信じていたのだろう(ジャンが死んだ場合、自分も死に処せられるとは知らなかった、と決闘の直前で言っている)。
なので、ことがあったのか、なかったのか、という興味で観ていると、映画の肝心なところを見逃す可能性が大。
ただし、ことがあったのか、なかったのか、という関心で観進めていてもそれは観客側の責任とは言えず、どうも、脚本と演出の問題のような気がします。
というのも、脚本として3人の名前がクレジットされるが、順序は、ニコール・ホロフセナー、ベン・アフレック、マット・デイモンの順。
ベン・アフレック、マット・デイモンが書いたオリジナル脚本(原作があるのだが)を、ホロフセナーが決定稿としてアダプテーションした、という意味の順序と読み取れ、決闘シーンなどのスペクタクルシーンに重点をおいてしまったが故に、マルグリットの真実から離れていったように思います。
監督のリドリー・スコットは、意外と脚本の細かいところに頓着せずに撮るタイプなので、肝心のところがさらにボヤケテしまった感があります。
とはいえ、スペクタクルシーンや美術デザインなどは相当凝っているので、それだけでも観ていて飽きないんだけれどもね。