最後の決闘裁判のレビュー・感想・評価
全275件中、1~20件目を表示
視点が違えば決闘までの経緯も変わる
ひとつの流れの出来事について、複数の人間の視点をそれぞれ描写するという手法はたまに見るが、中世のエピソードを、当時人権などないに等しかった女性の主観も交えてここまでしっかり描き分けるというのはなかなか斬新だった。
同じ出来事の見え方の違いが面白く、また戦闘や決闘のシーンの手に汗握る迫力と、マルグリットの運命に説得力を与えるジョディ・カマーの美しさで、2時間半の長さを感じさせない。
リドリー・スコット監督とB・アフレック&M・デイモンコンビ、この名前への期待を裏切らないエンタメ性と深いテーマを持つ作品。
最初に語られるカルージュの視点からの物語は一番オーソドックスなものだ。世渡り上手な親友の裏切り、その横暴により傷つけられた愛する妻マルグリットのために闘う男の、正義の物語。
その親友ル・グリの視点が次に語られる。彼の主観ではカルージュに対し彼なりに悪意を持たず接していたつもりであることが伺える。知的で美しいマルグリットへの愛が燃え上がる気持ちも分からなくはない。
実はマルグリットと気持ちが通じ合ってたりしたのかと思ったら本人視点でもレイプで、懺悔によって姦淫はなかったことになったので唖然とした。だが、当時の女性の扱いを考えると、ル・グリには神の教えに反いた罪悪感こそあれ、懺悔によって赦されれば問題ないと心から思えたのだろう。彼はただ、マルグリットへの愛に正直でいただけなのだ。
最後はマルグリットの視点。
マルグリットから見れば夫にとって自分は所有物、繁殖牝馬のようなものでしかない。ル・グリも夫の友人以上の存在ではない。姑のニコルは子に恵まれない彼女に踏み込んだ物言いをし、彼女がレイプされたと知るとニコル自身が過去にレイプされたが黙っていたことを告げ、それが美徳であるかのように言う。
実際当時は女性の間でもそのような価値観が当たり前だったのだろう。マルグリットの友人も会話の内容の告げ口だけして彼女を見捨てた。
そんな中でも、マルグリットは自分の尊厳と子供の名誉を捨てなかった。
カルージュはあくまで自分のプライドのために決闘を選び、彼が負けるとマルグリットも残酷な刑に処せられることを裁判の場まで彼女に教えなかった。ここまでないがしろにされながらもマルグリットは耐え、最後には覚悟を決め、夫の決闘を見守った。
この時彼女は、愛情から夫の生還を願うのではなく、自分に対して神が正しい裁きをするならば夫が勝つはずと信じ、自分の運命だけを見つめていたように思える。
リドリー・スコット監督は、75%以上史実に沿ったストーリーにした、と述べている。歴史ものの登場人物が現代の価値観に基づいたかのような言動をする作品が時々あるが、本作ではその類いのフィクションはほとんど目につかなかった。
中世という古い時代の価値観を現代の感覚に忖度せず描くことで、マルグリットが思い切った告発により自己の尊厳を守ったことの凄みが増した。一方、2章までに語られてきた男性目線のヒロイズムやロマンチシズムを、女性の視点で綴る最終章で叩き壊す構成に現代的なセンスを感じた。
史実では事実の外形は分かっても、3人のどの視点が正しかったのか、真実は分からない。そこを逆手にとって最大限に生かした、技ありの作品。
Stylish Movie from Ridley
Last Duel is a Francophied Rashomon, examining the case of a rape in three perspectives. What results is human progress in the form of masculinized feminism. Affleck and Damon adapt a story that's as crude as Old English; a man risks burning his defiled wife at the stake to prove God's glory and fight the perpetrator to the death. The titular duel is one of the best movie fights for decades.
この残虐描写が可なら、傑作漫画「シグルイ」もNetflixで実写化してくれまいか
脚本がマット・デイモンとベン・アフレック、出演に前述の2人とアダム・ドライバー、そして監督がリドリー・スコットという強力な布陣。1億ドルという潤沢な製作費は、同監督のスペクタクル史劇「エクソダス 神と王」の1億4000万ドルには及ばないものの、CGを多用した特撮が少ない分、重厚かつ壮麗なセットや衣装に注ぎ込まれたことが見応え十分の映像から伝わってくる。
中世フランス、14世紀のパリで、騎士カルージュの妻マルグリットが夫の旧友ル・グリに暴行されるが、ル・グリは合意があったと主張し、カルージュとル・グリは勝者の主張が真実と認められる決闘裁判に臨む――という実話に基づく。これを、芥川龍之介の短編「藪の中」を原作とした黒澤明監督の「羅生門」と同様に、カルージュ、ル・グリ、そしてマルグリットの順に異なる視点から描いていく。この3回の反復の中に微妙な違いがあったり、新たな事実が明かされたりして、劇的な効果をある程度生み出してはいるのだが、単なる筋の繰り返しも多く、評者にはやや冗長に感じられた。2人目、3人目の視点によるパートから重複部分をある程度割愛していたら、2時間半の長尺にはならずよりタイトなドラマになったはず。
百年戦争のさなかの時代であり、合戦の場面や、カルージュとル・グリの決闘など、かなりの残虐描写が含まれる。夫婦の性生活、マルグリットがル・グリにレイプされる場面も直接的に描かれる。日本ではこれでPG-12のレイティングなのだから、エログロ描写に相当甘い(ちなみに米国ではR指定、英国では18歳以上推奨)。でもこれが映画化できたのだから、御前の決闘という点でシチュエーションが近い傑作漫画「シグルイ」も、Netflix製作で実写映像化してくれないだろうか。WOWOWで2007年に12話構成でアニメ化されたのだが、内容的には原作全体の半分にも満たないところで終わっている。三池崇史監督に「オーディション」や「殺し屋1」の頃の振り切り具合で撮ってほしいと願うがいかがだろうか。
羅生門のほうが凄かったけど、こちらも全然観れる。リドリー・スコット...
監督が「決闘裁判」を通して描きたかったこと
黒澤明の「羅生門」以降、異なる証言で構成される映画は数多く政策され、「最後の決闘裁判」もその系譜である。
黒澤は「羅生門」の中で真実を明確にした上で、自らのメッセージを伝えたが、「最後の決闘裁判」は果たしてどうだったか。
この映画で言いたいことは、監督であるリドリー・スコットのインタビューに関するエピソードに集約されているように思う。
「第2幕と第3幕の表現にあまり違いを感じられなかった」という記者に、監督は「もう一度映画を観ろ!」と激怒したらしい。
観る前にその話を夫から聞いていた私は、自分もそんな迂闊な感想を言いはしないだろうかとチラリと思ったが、実際に鑑賞すると「どう観たら“あまり違いを感じられない”って感想になるんだ???」と唖然としたくらいだった。
「最後の決闘裁判」の中でも、真実のみを述べる者はいない。誰も彼もが巧妙に「真実」を自分の都合の良いように捻じ曲げ、他人へ伝える。単純に嘘とは言い切れない。「主観的な事実」こそが個人にとっての「真実」なのだから。
ただ一つ決定的に違うのは、マルグリットだけが明確に本人の意思で嘘をついている事だ。
自分の都合で「事実」を解釈する男2人と、生き延びるために「事実」を偽る女1人、という構図により、聞く人それぞれの立場と誰から話を聞くのかによって「誰の話が真実なのか」が絶妙に食い違うところが面白い。
リドリー・スコット監督が「誰の話が真実なのか」を明確にしようとしないところがミソである。史実ベースとはいえ、脚色するにあたって後世の作家が「自分の思う真実」を描いても良いはずなのに、あえてそうしなかったように思う。それは何故か。
黒澤明が「人間不信と、それでも人間を信じる希望」を描きたかったのに対して、リドリー・スコットは「ハラスメントとは何か」を明らかにしたかったからだ。
第3幕、マルグリットの証言の中で義母は彼女に「無理矢理犯されたのが自分だけだと思ってるの?みんな同じよ。それでも黙っているの」と叱る。それはまさに現代でも女性同士の会話でチラホラ聞こえてくる話と同じだ。
軽度のものからえげつない行為まで、セクハラ行為とおよそ無縁で生きてきた女はいない。その時「私だって我慢してきたのよ」は最悪の助言だ。
パワハラだって同じ、「愛の鞭」だとか「厳しい指導があってこそ成長できた」とか、「みんな我慢してきた」ことを受け継ぐ姿勢は何の価値もない。
ハラスメントを容認し、耐えて来たことが新たなハラスメントの犠牲者を出す不毛な世界を垣間見ることで、観客に気づきを促したいのだと思う。
だから、実際にカルージュ、ル・グリ、マルグリットのどの話が真実であるかはテーマとは関係がなく、どうでもいいこととして処理される。
実際、「決闘裁判」というシステム自体が「真実などどうでもいい」とハッキリ謳っているではないか。「勝利が真実」になるのなら、強者がこの世の掟なのだ。それはつまり「立場の強い奴が正義なんだから、立場の弱い奴はその理不尽を受け入れろ」ということなのだ。
強い者が弱い者に理不尽を受け入れろ、という姿勢は現代ではハラスメントにあたり、それは勝者が全てを決める世界の在り方である。それを無自覚に行うのか、自覚して行うのか、意義を唱えるのか、それが観客たちに突きつけられたテーマだ。
テーマについて色々書いたが、「真実などどうでもいい」決闘裁判であることが、ミステリーとしても非常に面白い効果を生んでいると思う。
現代的ミステリーなら、真実を明らかにする為の決定的な証拠が必要で、物語の真実に信憑性を持たさなければならない。だが、決闘裁判はいわばスポーツと同じで、観客の肩入れしている人物が勝っても負けても結果は結果、「しょうがない」で済む。
根拠が薄いとか、理論的じゃないとか、ご都合主義とか言われない。
だって、所詮勝ち負けだからね。
恐ろしい話
3者から見えた現実
リドリー・スコット監督が、マット・デイモンとアダム・ドライバーの2人をW主演に迎え、14世紀の100年戦争最中のフランスを舞台にした、史実を75%は盛り込んだというた歴史ミステリー。フランス史上、最後の決闘裁判となった、姦通罪を巡る裁判で、決闘に至るまで過程を、決闘する当事者2人と恥辱を受けた妻の3者の視点から描いている。
これまでの歴史大作は、主人公を中心に見方や活躍の様子が、一方的に描かれることが多い。しかし本作では、一つの姦通という事実を、犯された妻の夫カルージュ、犯した夫の旧友ル・グリ、そして犯された妻マルグリットの三者三様の見方で、真実を語り進められていく。それぞれが、世間体も含めた事実を自分なりの解釈で吐露していく中で、3部に分かれて物語は展開。そして、ラストには、生死を賭けた決闘シーンへと繋がる。
戦地の友であった騎士カルージュとル・グリ。戦地から戻りカルージュは、領地の娘マグリットと結婚する。しかし、2人にはなかなか後継ぎが生まれずにいた。そんな中、夫や使用人が留守をした隙に、マグリットに恋焦がれていたル・グリが訪れて、姦通してしまう。それをマグリットは、夫が帰ると告白。夫は怒り狂う中、ル・グリを訴えるが、彼は無罪を主張、双方の言い分が食い違う中、国王は2人に生死を賭けた決闘裁判を許可する。勝者には栄光と生を、敗者には罪と死を巡る、カルージュとル・グリの壮絶な決闘が展開されていく。
しかし、本作の中で見えてきたことは、男の見栄と傲慢さによって、女を自分の所有物としてしか視ていなかったという悲しい過去の事実。マグリットがル・グリに犯された事実を夫に伝えた時の、夫の言い分と妻の言い分では随分違いがあり、また、ラストシーンの夫の勝者としての立ち居振る舞いも、妻の為ではなく、自分の威厳を保つ為の勝利であったことが覗える。そんな中、女は恥辱を受けても泣き寝入りする時代に、負けたら火炙りの刑を覚悟し、女としての尊厳の為に裁判に臨んだ、マグリットの誇りが伝わった…が、エンドロール直前に、子供を見ながらのマグリットの微笑みには、女のしたたかさも感じて身震いした。
背景や舞台となる中世フランスの騎士達の生活や戦闘の様子も、かなりリアルに作り込まれていて、きっとどこかな古城で撮影されたのであろうが、スコット監督のディテールへの拘りも強く感じた。また、ラストの決闘シーンでの壮絶なる死闘も臨場感があり、本物の決闘を観てイルカのようで、マット・デイモンとアダム・ドライバーの名シーンとなった。その中で紅一点、カルージュの妻を演じたジョディ・カーマ―の美しさが、むさ苦しい男たちの世界の中に、際立っていた。
リドスコ御大の「羅生門(藪の中)」
Disney+で鑑賞(字幕)。
原作は未読。
リドスコ御大による「羅生門(藪の中)」。今とは全く違う中世の価値観や考え方、めちゃくちゃエグかったです。
この決闘の顛末については今も議論を呼んでいるようで、人間心理の奥深さを象徴する事件ではないかなと思いました。
真実は人の数だけあると云うことを痛感させられました。
マルグリットが全てを操っている気がしましたが、それも結局は、物事のとある一面に過ぎないと云うことでしょう。
☆☆☆★★★ ※ 注意 これはあくまでも男目線に於ける感想にすぎま...
☆☆☆★★★
※ 注意 これはあくまでも男目線に於ける感想にすぎません。
…と、その前に少しだけ脱線します。
ちょっとだけの感想。
今では【絶滅危惧種】に入る…とまで言われ、その存続に向けての取り組みまでされつつある《ミニシアター》
思えば、全国に先駆けて都内に日本で2番ないし3番目にオープンした《ミニシアター》が〝 シネマスクエアとうきゅう 〟だった。
オープニングを飾ったのがニコラス・ローグの名作サスペンスの『ジェラシー』
そして(記憶が確かならば)オープン2作目に選ばれた作品が、当時は全く無名の監督リドリー・スコットの監督デビュー作品『デュエリスト/決闘者』でした。
中世の『激突』とも言える、ただひたすら決闘をしたがる男から逃げ回る男。
その単純なるプロットは、次の『エイリアン』で更なる高みに昇り歴史的な作品となり。この2本でリドリー・スコットの名前は映画フアンの間で一気に知れ渡る。
そして次が『ブレードランナー』、、、
まあ、なかなか『最後の決闘裁判』の話に行かなくなってしまうのでこの辺で戻します💧
2人の男と1人の女の間で繰り広げられる真実の追求。
観ながら「嗚呼、これは『羅生門』だな」…と思っていた。
実際にもその様な展開で進んでいたのですが。最後の決闘場面に至り、少し様相が違って来たのでした。
男はひたすらに自分の【名誉】に拘るがゆえの《決闘》であり、女にはその気持ちに段々と苛々を募らせる。
今の時代に於いて、当時の男尊女卑があからさまになる ※ 裁判を経て、決闘で勝った方が真実 (〝 神のご意志 〟)とされるバカらしさ。
だからこそ、決闘の結果で全てが決まる当時の裁定の行方は。ほんの少し前の、、、いやひょっとすると、まだ現代の時代でもまだどこか繋がっているのでは?とゆう問いかけで映画は締められる。
※ その際でのラストに映る彼女の表情こそは。男女の関係に於ける 《 性の悦び・興奮の高み》と指摘する問題の裁判に関する考え方の違いと言え、、、、
「オイ男ども!わかっとんのかゴルア〜!」
…的なドヤ顔に、ついつい見えてしまい。〝 げに恐ろしきは女の心 〟と思ってしまうのは、こちらが男の目線で鑑賞しているからなんでしようねえ〜💦
2021年10月19日 TOHOシネマズ錦糸町オリナス/スクリーン5
神に委ねた判決の行方
【鑑賞のきっかけ】
劇場公開時には全く気づかなかった作品。
でも、監督がリドリー・スコットで、豪華俳優陣が演技。
しかも、中世が舞台で、予告編からは、しっかりとした歴史劇が期待できそうに感じて、動画配信で鑑賞してみました。
【率直な感想】
<現代なら、法廷サスペンス>
原題は、「The Last Duel」で、Duelは、決闘の意味なので、直訳すると「最後の決闘」。
ただ、これだと説明不足の感があります。
邦題の「最後の決闘裁判」の方が、「裁判」が入っている点で、この作品が描いていることを的確に表現しているように思えます。
【中世フランス――騎士の妻マルグリットが、夫の旧友に乱暴されたと訴えるが、彼は無実を主張し、目撃者もいない。真実の行方は、夫と被告による生死を賭けた“決闘裁判”に委ねられる。それは、神による絶対的な裁き――。】
上記は、公式ホームページからの引用なのですが、ネット等で調べた結果で補足すると、次のとおりになります。
中世ヨーロッパでは、刑事告訴による裁判が行われていたものの、証拠や証人が不足し、原告と被告の主張が対立したままで決着がつかないとき、お互いが剣を手にして「決闘」を行い、勝った方の主張を認めるという裁判方法が認められていた。
本作品では、告訴したのは、妻マグリットですが、夫の旧友(ジャック:アダム・ドライバー)が乱暴したことを否定し、明確な証拠がなく、真実がはっきりしないので、妻に代わって夫(ジャン:マット・デイモン)がジャックと決闘をすることになったのです。
この決闘シーンが、後半の見せ場なのですが、この方式が採用された背景には、キリスト教への信仰が絶対的であった時代、「神はすべてをお見通しなのだから、真実を主張する方に神が勝利を与えるであろう」という考えが根底にあったと言えるでしょう。
つまり、原題では、「決闘」を強調しているけれど、本作品の重要な点は、「裁判」の行方な訳で<現代なら、法廷サスペンス>としたのは、このためです。
<人が人を裁く難しさ>
今の時代では、裁判の行方を「神」に委ねるというのは、「あり得ない」と思ってしまいます。
でも、もし、この作品の時代の人間が、数百年後の世界では、「人が人を裁くのが当たり前」になっていると知ったなら、現代社会の裁判のやり方を「あり得ない」と思うのではないでしょうか。
「人が人を裁く」きっかけを作ったのは、本作品から400年後、18世紀末に起こった「フランス革命」です。
社会のルールである「法律」は、人が自ら作り、「法律」に違反した者は、裁判にかけられ、裁判官という「人」が判決を下すという法治国家が世界中で誕生しました。
一方、宗教については、「信仰の自由」という枠組みの中で存在することとなり、「神が人を裁く」なんてあり得ない、となりました。
しかし、人が人を裁くとき、間違いが生じないか、不安があります。
人は間違いを犯す生き物だから。
それゆえ、キリスト教への信仰が絶対的な中世においては、最終的な判断を「神」に委ねることにしていたのだな、と本作品を通して気づきました。
【全体評価】
じつは、本作品のテーマは、「人が人を裁けるのか」ということではなくて、女性が、乱暴されたことをきちんと告発していくのは、現代社会でも難しく、実際、裁判にまで至らず、泣き寝入りということも珍しくないと聞いています。
自分は乱暴されたと主張することは、現代でも困難が伴うことなのに、それを600年以上も前の女性が行っていたという歴史的事実。
ここに、現代に通じる深いテーマ性が感じられるのです。
本作品では、最終的に「神」が判断してくれるのですが、これが現代の裁判で、人間の裁判官が判決を下さなければならないとしたら、一体どうなっていただろう?
鑑賞直後、そんな思いが頭をよぎり、「人を裁く」主体が、「神」から「人」へ移っていく歴史の流れについて、述べさせていただきました。
多くの気づきを与えてくれた本作品、私にとってはお気に入りの一作となりました。
タイトルなし(ネタバレ)
1300年代フランス。聖職者特権、教会上層部にはそれで訴えられた人が多い。って昔から腐ってんのね。こないだ『スポットライト』見たけれど、700年前から同じなのね。
ジャン、ジャック、マルグリット各人の〘真実〙を語った後、決闘裁判に至る。
三者三様、事実はひとつなのに真実は三つ。嘘をついていなければ、だけど。
でも正直最後までマルグリットの表情から気持ちは読み取れなかった。
展開が遅い
主人公が何をしなきゃいけなくなるのか・・ が示されるのが遅すぎる
主人公に愛されるべき要素が見当たらない。・・ この男の どういうところが魅力的で観客が主人公を好きになるのかが描けていない。 そもそも マットデイモン という俳優そのものに魅力がない。 ハリウッドは ここ20年以上 娯楽大作の主役になり得る俳優を一人も輩出していない
敵役のキャラが曖昧・・ 途中まで 結構いいやつみたいだったのが突然何でああなるの? そこんところが 自分でも愛だったのか 肉欲 だったのかよくわからない・・というのが全く描けていない。
エピソードの一つ一つに 面白みがない・・・ 場面場面を面白くしようと頑張った後が見られない あらすじ通り 機械的に ストーリーを書いているだけ。しかも 同じ場面を3回も繰り返して。このストーリーが観客にとって退屈であることに脚本家はもっと敏感であるべきだった。 3人の視点で描くのなら それぞれの視点によって物語の真実とか正義とかが全く違って見える・・ということを描かないと面白くない。
セットと 衣装は素晴らしかったと思う
逆光撮影のところはフレアが入りまくっている。 多分 オールドレンズで撮ったと思うがコーティングがダメになってると思う。役者に払うギャラを少し削ってもらってコーティングのし直しをすると良いだろう。 多分 数百万円もあればできる。日本でならね。
それにしても作品の出来と不釣り合いな高い得点が入っている 巨匠の名前だけで酔ってしまう人がいかに多いかということだ ビジネスの参考にしてほしいな
戦闘シーンはさすが。
中世モノの残酷さは好み分かれるよね
個人的には中世モノの残酷さは結構苦手で積極的には観ないようにしているが、本作はリドリー・スコット監督作品ということとスペクタクル超大作感にひかれて思いきって鑑賞。
中世のお城でのろうそく生活やファッション等はディズニー感すら感じるほどファンタジーに映るのだが、決闘シーンは当然のことその他のシーンでも肉体的にはもちろん心理的なものも含めて随所随所で残酷だ。
この歴史あっての現代社会、と自分に言い聞かせながら観つつも、この後味の悪さはそうそう慣れるものではない。
内容的にも、構成としてチャプター分けがそこまで効果があったのかと、少々疑問が残ったかな。そして、フランスが舞台でありながら言語が英語というのは、よくあるやむなきことだが…やはり残念。
とは言え、出演者皆の熱演は凄みがあり絶対的に評価されるべきで、期待していた大作感はじゅうぶん味わえた。
意図が分からん
三人の視点で描き直してるけど、マルグリットの視線だけとか、夫に対する態度とか、違いが微妙すぎてミステリーになっておらん、ただの時間伸ばしとしか思えん。羅生門くらい混乱させてくれよ。人間の描き方も甘々だからマット・デイモンが妻のことをどこまで思ってるのか、完全に利用してるだけなのか図りきれない。アダム・ドライバーもほんとにそこまでイヤなヤツなら最初から親友にならんよね。マルグリットも解説には女性の権利を主張する強い女性みたいに書かれてたけど正直夫に翻弄されてるだけの取るに足らない女にしか見えない。リドリー・スコットなんてこのあたり上手い人なはずなのにやっぱり年取るといろんなことが衰えるんだね。かなしい。
アップデート
すごい時代
全275件中、1~20件目を表示