メインストリームのレビュー・感想・評価
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“確たる自分がない女性像”は、著名人一家に生まれた監督の投影か
ジア・コッポラ監督の長編第2作。前作「パロアルト・ストーリー」でエマ・ロバーツが演じた女子高生エイプリルと、本作のYouTuberになりたい主人公フランキー(マヤ・ホーク)は、確たる自分がないという点で似ている。ジアの祖父はフランシス・フォード・コッポラ、叔母にソフィア・コッポラ、親戚にはニコラス・ケイジやジェイソン・シュワルツマンがいる。著名な映画人の家系に生まれたことで、スター、才人、奇人変人に囲まれて育ち、彼らと比べて「自分には何があるのだろう?」という自問を抱えて大人になったであろうことは想像にかたくない。そんなジアの思いが、長編2作のヒロインに投影されているようだ。
デビュー作はオーソドックスな演出の青春群像ドラマだったが、今作ではYouTubeやSNSが全盛の現代を反映し、ネット動画で多用されるアイコンや絵文字を貼りつけたエフェクト、早送り再生、人工的なカラーリングによる強調などを駆使した。新しい映像表現に挑戦した点は評価できるが、スタイルを確立するまでには至らず、いまだ模索中という印象だ。
アクセス数、再生回数、いいねの数を稼ぐためにコンテンツが過激化したり、ネットの炎上やバッシングが個人を精神的に追い詰めたりといった話は、もちろん日本の観客にとっても他人事ではない。本作の鑑賞が啓発や戒めにつながればと願う。
現代社会の一部を映画化する難しさ
SNS、streamer、you-tuber、influencerを中心に映画化された作品。主人公がインターネットを通して『承認欲求や登録者人数を増やす事ばかりに浪費してるとゾンビになるぞっ!』と注意喚起に賛同する者から承認欲求を満たして終演。映画の中で主人公はスマホは嫌いという事は明らかにされないものの、おそらく10代の頃に犯した火事事件で有ること、無いことを投稿されて嫌になったのかなと思う。主人公がクレイジーということ意外、設定や登場人物の背景の描き方がイマイチ弱い感じ...
《余談》ローラが出ていることに驚いたけど、表情とアクションだけで台詞なし。もともと台詞はなかったのか、あったけどカットされたのか不明だけど、他の約柄の人達は1、2ほどの台詞があるのに何も無いのは映画界って厳しいなと思った。
ロマンスを動力に
動画をアップする人は、ただお金を稼ぎたいだけの人は別にして、自分のクリエイティブさを発揮したいものだ。
クリエイティブさの先に、それを認められたいと思う欲求がある。
認められるためには他人が必要だ。自分ではない認めてくれる人が。
肥大していく承認欲求は、動画を観る側の問題へと波及する。
クリエイティブさと承認欲求のバランスは、登場するメインキャラクターの3人は物語の始まりから変化しない。
狂って落ちていくように見えるアンドリュー・ガーフィールド演じるリンクは最初からクリエイティブさを発揮しようとは思っていないのだから。
物語に変化をあたえるのは、3人の認識の齟齬だ。それぞれがそれぞれの考えに賛同できないという状態。それを担うのは恋愛感情である。
つまり、この作品はスリラーかサスペンスのような狂気の皮をかぶったロマンス作品だったようにも思う。
尺が短いので、盛られた内容を昇華しきれていない印象がある。
問題提起型の作品の動力をロマンスで、というものだが、動力が弱い。問題提起がしきれていない。もちろん答えもない。
全体的には悪い部分ばかり目に付くが、それなりに面白かったんじゃないか。
映画は一人では作れない。お金を稼ぐことが第一目標のプロデューサーの意向には逆らえないものだ。尺が短くなれば利益率が上がる。一日に上映出来る回数が増えるから。
クリエイティブさと承認欲求のバランスの物語で、一番最初に書いた「お金を稼ぎたいだけの人」の横槍が入って尺が短くなったように見える本作は、それだけでなんだかちょっと面白いようにも思う。
短いのが救い。
最初の20分くらいは面白く、その後の展開に期待していたのだが、途中からの展開は悪い意味で予想通り(イザベルの身に起こったこと)で、ユーチューバーという人たちに対する胸糞悪さだけが残る。短いのが救い。
実際んとこ、マジ謎なのが、アメリカンの《承認欲求》ってヤツなんだよね〜
ジャンルはSNS(動画配信)ものだけど、キュンキュンなラブ・ストーリー要素もあるね。
フランキー(主人公の女の子)だけど、ある日突然、ヤバくて謎めいた男(リンク)に出会っちゃって、どんどん彼に惹かれていくの。リンクは警官や警備員に取り押さえられるようなアナーキーな人なんだけど、なんか不思議な優しさがあって、マトモじゃないんだけど、妙に説得力ある発言もあって、フランキーはもうメロメロになっていくんだね!
物語の前半はフランキー視点でその過程がめっちゃていねいに描かれてて、これ絶対女流監督だなって思ったの。そしたら、なんとあのコッポラさんの孫娘でした!超びっくり!
冒頭でフランキーが「自分は、まだ小さな女の子で《承認》と《愛》が必要なのか?」とか「成長するために一歩踏み出す必要があるのか?」って自問するシーンがあって、そこがかわいいよね。売れない芸人が手品を披露するさえないバーで働いていて、孤独で変化のない日常生活送ってるんだけど。(そこの同僚が、彼女を静かに見守るジェイクって男で、つまり三角関係ですよ~)
リンクの才能を見抜いたフランキーは、ジェイクも含めた三人で成功と自己実現を目指して、YouTubeの世界に飛び込んじゃう。そして、リンクは瞬殺で人々の注目を集めちゃうの。彼はスマホを否定する自己矛盾な男だけど、頭の回転速くて、シニカルな切り返しもうまくて、おふざけディベートの達人だったんだよね!
しかし、彼は成功とともにキャラ変しちゃうの。SNSの偽善的なところや赤の他人からの承認を極端に嫌っていた男が、いつの間にか手段を選ばず、SNS上のインフルエンサーを演じ切っちゃってる。でも実は、物語はフランキー視点だから、彼女が勝手にそう思ってただけで、リンク自体は最初からそういう性格だったのかも?
本国の映画評では「SNS批判に鋭く食い込んではいない」って言われてるけど、得体の知れない男を好きになる少女の心を持つフランキーの恋愛過程のほうがマジで気になったし、そっちのほうが面白かった!
で、おじいちゃんのコッポラさんには、赤の他人からの承認欲求あったのかな?ということだけど、単純に撮りたいものを異常な執念で撮ってただけの気がするんだよね。
前にこんなの観た
売れっ子ユーチューバーがビュー数を稼ぐために暴走する話、最近結構あるよね。
しかし、全然素性の分からないサイコ野郎とああいう関係になるかね? まあヒロインの承認欲求もあるってことなんだろうけど。
ヒロイン役はウマ・サーマンとイーサン・ホークの娘だそうだ。どちらにも似てるね。やや魅力的。
承認欲の塊
怖ろしいなぁと思いながら観ていたけど
現実でも多かれ少なかれある話なんでしょう。
YouTuberを含めたSNSの世界は
他人からの承認が頭の中を駆け巡り
そのためなら道を外すのも当たり前になってしまう。
コワいコワい・・・。
えっ、これで終わりなの?
と言うのが、終わった瞬間の感想。この後、どうなっていくかを
描いて欲しかったな、と感じました。
天才的な話術を持つ男が、人気YouTuberへと駆け上がっていく
ストーリーなんですが、正直、主人公の凄さみたいなものが
伝わってきませんでした。私自身、YouTubeにどっぷりと
はまってるような人間じゃないからそう思うのかもしれないけれど、
その映像作品があまりパッとしないんですよね。本来は、その映像で
これはすごいと思わせないとダメなんじゃないですかねえ。
YouTube自体がそんなにたいしたものじゃないよ、という
メッセージなのかもしれませんが。
視聴数稼ぎに躍起となるユーチューバーの狂騒。 今時な感じのテーマで...
視聴数稼ぎに躍起となるユーチューバーの狂騒。
今時な感じのテーマで興味はあった。
カリスマユーチューバーとなった青年の話は私には大して響いて来なかったし、やっていることもいわゆる「迷惑系」に属していて、内容もしょうもない。
ただ、何がウケるのか分からない世の中なので、その点は目をつぶる。
しかし、さんざんやりたい放題やって、一人の人間を自殺に追いやりながら全然懲りている様子もないのは不愉快だった。
SNS版『ネットワーク』といったところ?
①私のように余りSNSをしない(と言っていま投稿しているのもSNSか😅)人間としては困った世の中になったものだと思わせられ
もしたが、メディア・媒体が時代に伴ってどう変わろうと「結局、金か!」とも思わせられた。②『ネットワーク』(1976)ではヒロインのダイアナが「TVなんて所詮スポンサー相手の商売じゃないの」と言って視聴率を上げるためなら番組の中で殺人まで起こしてしまうが、この映画では人気You-tuberの陰の仕掛役であるマークがそれに対応する役どころか。③この映画でも視聴回数を上げることでスポンサーがつき金が入るという点ではTVがYou-tubeになっただけで余り変わりがないなぁ、と思いましたね。この映画でも犠牲者が出るけれども、SNSは便利でもあるけれども両刃の剣で困った人間が手にすると凶器にもなるという戯画でしょうか。④ラストシーンでリンクはかなり勝手なことをほざきまくるが、その後観客が引くどころか喝采するところも結局メディアにいいように振り回される一般大衆を皮肉っているのでしょうか。。⑤アンドリュー・ガーフィールド熱演。⑥懐かしや、コリーン・キャンプがえらいオバサン役で出ていて隔世の思い。⑦それと、ヒロインの女優はイーサン・ホークとユナ・サーマンとの娘なんですってね。こちらもWOW!ってな感じ。
よくありそうな話
ユーチューバーが人気の為にどんどんエスカレートしていく話。まあ、よくありそうな事件が起きて、その後にどうなっていくのかな、と思っていたらそこでバスンと切られて終わってしまったので物足りなかったです
邦題を「YouTuberの悲劇」にしたい。
邦題を「YouTuberの悲劇 」にしたい。
私もスマホ依存症だしSNS大好きなので
衝撃的だった。
ここまでじゃないが
似たようなYouTuberも多くいる。
有名YouTuberも
YouTuberごっこレベルの人も。
日本も誹謗中傷で問題が起きてるので
ジャンル的には同じような世界で生きてる。
じゃあ私はYouTuber側の気持ちになったかと言うと
「いいね」押す側で見てる。
便利で楽しいからこそ副作用が付き纏う。
主導権を握ってるのは人間なのにね。
映画としての編集や繋ぎ、
感情の持ってき方の粗さは
YouTubeの編集的にする事により
この世界観を肌で感じる為か?
悪い意味で日本レベルの脚本
YouTubeとかSNSとか絡めて企画を作ろうと思ったら、日本の脚本家でもだいたいこんな展開を思いつくし、こんな脚本書くよなってレベルのストーリーです
コッポラの孫が監督みたいですが、日本でいうと思いっきり蜷川実花ですね
娘と孫娘の違いはありますが、才能ないとこうなるんだなって思いました
コッポラの娘は確かよい映画撮ってましたね
SNSを批判する人がSNSで人気になるかな?
主人公は芸人志望?でちょっとエキセントリックなキャラクター。それと、何者かになりたいフランキー。それでエキセントリックな騒ぎ立てとポップなCGで修飾された演出で人気youtuberになれるのかな?それと、ここではyoutuberもスタジオ録画してるけど、そことCG演出の食い合わせがわるい。ラストの演説は内容も下らなく、どこかで聞いたことのあることばかりだ。コールドプレイを揶揄するジョークは10年以上前からあったし、それはもう悪い意味でのクリシェだ。SNSとスマホを批判することで、人気者になること自体が年寄りの説教臭いし、その嘘は視聴者もすぐわかるだろ。フランキーと途中までの作家の彼はマジックバーでバイトしているのだから、食えていないかもしれないが、自分の芸を小さい店で披露している芸人たちこそ、凄みを感じてほしかった。 これに比べるとガンズ・アキンボやナーヴは映画はライブ映像を見せてこそであるという核心をついた誠実な作品であることよくわかる。 アザは小池百合子と整形水を思い出した。アウティングされることの何が面白いんだろう。今年ワースト候補をビバリウムと争っているかも。
とても不愉快だが、とてもよくできた映画
観ていて不愉快な映画だが、何故か目が離せないまま、最後まで鑑賞した。どうして不愉快に感じたのか、どうして目が離せなかったのか、そのあたりを考えていきたい。
SNSはその成立過程はどうあれ、いまや誰もが不特定多数に対して自分をアピールできる場となった。フェイスブック、ツイッターは主に文字と写真でアピールするから自己主張のツールとなり、インスタグラムやユーチューブは画像と動画だから主張に関わらず何でもアピールすることができる。
SNS開発者たちはアピールの度合いがひと目で分かるように「いいね」クリックを発明した。「いいね」はフェイスブックではその数を増やし、いまは「いいね」「超いいね」「大切だね」「うけるね」「すごいね」「悲しいね」「ひどいね」と7種類もある。
ユーチューブでは再生回数だ。これはテレビの視聴率に似ていて、数百人しか見ていなければ誰も見向きもしないが、数百万人、数千万人が見ているとなれば、テレビと同じようにスポンサーが付く。宣伝効果があれば企業は費用を惜しまない。動画をアップしている人の中には、一再生が0.1円などといった割合で金を受け取る人が出てくる。ユーチューバーの誕生である。
テレビの視聴率と同様に再生回数だけが指標とされるから、コンテンツの内容は問わない。猫や犬の動画が多くの再生回数となることもあれば、ただ食事をしているだけの動画が再生回数を稼いでいることもあるらしい。短期間で沢山の「いいね」や再生回数を稼ぐことを「バズる」というらしい。なんとも下品な響きの言葉だが、最近の日本語に上品も下品もないのだろう。
主人公リンクの目的はバズること。フォロワーに受ければ内容はなんでもいい。密かな性的欲望をくすぐったり、人間が心の底に隠している悪意をあぶり出したりすることでもいいのだ。そのあたりの節操の無さというか、思いやりや寛容の欠如が、本作品に感じた不愉快の本質である。
聖書には「人を裁くな、自分が裁かれないためである」と書かれている(マタイ福音書第7章、ルカ福音書第6章)。しかしSNSでは沢山の人々が互いに裁き合っている。自分は匿名の陰に隠れて、見ず知らずの他人を批判し、非難し、否定し、攻撃する。攻撃された方は不特定多数から容赦なく攻撃される訳で、ひとつひとつのコメントを見てしまうと、場合によっては精神を病んでしまう。最悪の場合はプロレスラーの木村花のようになる訳だ。
本作品はSNSが今後どのようになっていくのかを暗示する。リンクの主張する通り、SNSを否定する方向に社会が向かっていくかもしれない。しかしSNSを否定をすることをSNS上で行なうとなれば、それを矛盾だとする指摘に対して、何の反論もできない。やがてSNSから離れていく以外に道はなくなる。ネット上での匿名で間接的な関わり合いを捨てて、実名の直接的な関わり合いに戻っていくのだ。
それでもSNSは情報源として生き続けるだろう。中にはTwitterのDappiというアカウントのように悪質な書き込みを請負業務として続けるような会社もある。しかし大多数は個人の発信であり、中には有用な情報や思想も見つけられる。我々の取捨選択能力がいよいよ試される時代になるのだ。これからは情報処理だけでなく、情報の断捨離が必要科目になるに違いない。
とても不愉快だが、とてもよくできた映画だった。アンドリュー・ガーフィールドは流石の演技力である。メル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」で主演したときに匹敵する熱演だったと思う。マヤ・ホークという女優さんは初めて観たが、とても好演だったと思う。調べたらイーサン・ホークの娘らしい。頑張ってお父さんのような名優になってほしい。
もう少し「ローラを観たかった」頑張ってほしい。
正直申し上げて「新鮮味に欠ける」映画だと感じました。これが10年、いや5年前に発表されていたのなら、それなりの支持を得たと思います。いまではSNSを用いた拡散ビジネスは日常になっていますから。日本でも世界でもインフルエンサーという“炎上ビジネスマン”がメディアを席巻しています。彼らがもたらす弊害というデメリットより、「良いこと」を行う人が多くなっている現状を取り上げた方が面白かった気がします。
それとやっぱりわれらが日本のローラが出演ということで期待してしまいました。しかしんながら、出ていたのは本の数秒で、しかもセリフがありませんでした。ローラが出ている場面に違和感を覚えたほどです。別撮りしているのでしょうか?やっぱり「ローラを応援したい」と思っているのに、あれだけのシーンだと複雑な気持ちになりました。もう少し大切に扱ってほしいと思いました。でも、競争が激しいハリウッドにおいて、ローラクラスの女優はたくさんいるから、仕方ないのかもしれません。次回に期待!
『運だぜ!アート』のluckygenderでした
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