流浪の月のレビュー・感想・評価
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感情をもっていく映画
確かに確かに、小児性愛は嫌悪感がある。
それは君も同じだろ?ってのは間違いで、その嫌悪は僕だけのもので
僕の中で完結するべきものと思う。
深く接するか距離を置くか、それは僕が決めることだ。
逆を言えば、誰かがそういう性癖であったとして、
その人に近づく別の人がいて、それをどうこう言うのは
もう本人同士の問題でもあると思うのだ。
という、感情整理させてくれた映画。
松坂桃李がだいぶ痩せて挑んでるみたいだなと。
広瀬すずは広瀬すずぽかった。よくも悪くも。
原作未読
原作を読んでいないので純粋に一つの映画作品として鑑賞しました。
出演者もとても良かったのですが
なんとなく詰め込み過ぎな作品だなと思いました。
そしてひとつひとつが重すぎて、最後は飽和状態。
原作物なので何かを削るというのは出来ないかもですが
せめて二つくらいまででいいのかなと思いました。
更紗は幼いころ誘拐されたけど、実はそれは純愛だった、
なぜなら更紗はDVを受け、それを文は匿った。
だけど世間の信じたいものしか信じない感情がそれを許さなかった。
だけで十分だった気がします。
亮の歪んだ思考による異常な執着、
なのに最後にあっさり手を放すのも?って感じ。
文の最後が大元の伏線回収になるのかもしれませんが
斜め上過ぎて崩壊しました(笑)
文も更紗もしんどい環境で育ちながら
キレイに育ちすぎるのもなんか、、、(容姿も内面も)
都合のいいところだけキレイな映画だな、、、という印象でした。
捉えどころのない重み
この作品自体の難しさはないが、作品がテーマにしている現代社会で生きていく難しさがよく描かれている。
アメリカでは、州にもよるだろうが、7歳を超える娘と一緒に風呂に入ると逮捕される法律がある。
昨今ではLGBT法に代表されるように、個々人の思想を法律によって規制する動きがある。
同時にそれは、自由な思想を持つものに対する攻撃として利用される。
この作品に登場する警察は、どのくらいまでフミとサラサの話を聞き入れたのかは不明だが、少なくとも週刊誌の内容を鵜呑みにはしなかったようだ。
「レッテル」 これがこの作品の根底に流れている主人公二人の苦悩の根源だ。
エンディングの冒頭に、広瀬すずと松坂桃李の名前の直後にタイトルが来るが、これはこの作品が二人の物語であることを強く主張している。
当たり前だが、あえて主張しているのはなぜだろう?
月はモチーフ。さまよえる月。「またどこかに流れていけばいいよ」
少し前、コロナ化の始まりのころ、県で最初にコロナにかかった人を特定してネットで拡散するということが流行った。その人の実家に石が投げ込まれたりしたことを聞いたのを思い出す。
この愚かさ。私は虫唾が走るほど嫌いだ。
「レッテル」 親がつけたレッテル「お前は外れだ」 「異常」「病気」…
フミにとって失うものなど何もないが、いわれのないレッテルを貼られるのはいたたまれないことだ。
そして2度もフミにレッテルを貼ることになってしまったサラサの心中も罪悪感で満たされている。
ただ一緒に居たかった。たったそれだけのことが、フミの幸せを奪ってしまった。
何の事実もないことが勝手なレッテルによってネットに流れ独り歩きしている。誹謗中傷の雨あられ。生きづらさ。
サラサもまた家庭環境の崩壊と、叔母宅の息子によるいたずらに悩んでいた。雨が降ってきても読書を続けている。「帰りたくない」
似た者同士の二人だったが、法律がそれを許さなかった。それは、ごく一般的なことだろう。
サラサの婚約者のリョウは、自殺未遂したことで自分の気持ちを収めたのかもしれない。
それは、人の心は支配できないということを物語る。誰も、他人に縛られたくないし、他人の支配を許してはならないことを言っているのだろう。
フミにも神聖なる生きる権利がある。そして普通の人間だ。しかし染色体の異常で幼児体系と性器が子供のままという設定だ。映画ではよくわからなかった。
彼の苦悩の根源。
フミは当てつけのようにサラサに自分が成長できないことを言う。
そして親によるレッテル。
おそらく検察は、サラサの事件の裁判後にフミの病気を知ったのだと思う。事件を冤罪にせず葬った。しかしその検査結果は残っていた。だから2度目は無罪放免。
レッテルだけが今も付きまとう。
フミはサラサに恋心を抱いていた。
「サラサが近くにいるほど怖くなった」のは、はじめてのことでどうしていいかわからなかったから。
「サラサにだけは知られたくなかった」フミの病気
でも「サラサに知って欲しかった」本当のことを。
「いつまで経っても、俺だけ大人になれない。サラサは成長した」そうフミは言いながら裸になり泣き崩れる。
幼児体系と幼児のような性器。
フミの彼女はおそらく彼に本気だった。「初めから私を信用しなかった」
彼女の言葉にうそぶくフミ。
彼女に本当のことは最後まで言えなかった。
監督はあの「怒り」の監督。
その表現する意味深は多少わかりにくい。その捉えどころのない重みこそが、闇というのかグレーゾーンというのか、私自身が目を背けている部分なのかもしれない。
考えさせられる作品
☆☆☆☆ 〝 モノも人も同じ。出逢って別れ、また出逢う 〟 原作読...
☆☆☆☆
〝 モノも人も同じ。出逢って別れ、また出逢う 〟
原作読了済み。
正直に言うと、この監督はかなり苦手な人でした。
以前に撮った『悪人』は、私が原作と映画化に於ける比較をレビューをする…キッカケになった作品でした。
但しその際の『悪人』を観た時に、(長尺になってしまうのを恐れたのでしょう)原作部分での《肝》にあたる箇所を描かなかった為か?どうしても出来上がった作品には歪な部分が多々あったのは否めなかったと思っています。
それだけに、観る前にはかなり心配な面があったのですが。出来上がった作品を観て、それは間違いであった事実を知る事となりました。
これは傑作ですね!
原作を読んでいたからこそ、上映が始まって1分程経った辺りで「こ、こ、これは!」と、凄いモノが観れるかも知れない…との予感に胸がドキドキと高鳴りだしたのです。
予め言っておきますが。本屋大賞を受賞した原作を、私は世評程には凄く良く出来た小説だとは思ってはいない…と、宣言しておきます。
勿論、駄作だと言っている訳では無く、良く書かれてはいるとは思いますが。前半部分での更紗が過去を振り返る描写に、少しモタつきを読みながら覚え、なかなか内容にスンナリと入って行けなかったのです。
原作では、そんな大きくなった更紗と、文が偶然にも再会を果たす迄が全体の1/3辺りになります。
でも、そこからは一気呵成にページをめくって行ってしまいます。この似た者同士な境遇の2人の運命に目が離せなくなって行きました。
そんな前半部分を一体どう描くのか?
ところが!本編では、この2人が再会を果たすのは、まだ始まって僅か数分なのです。
「えっ?マジか!」
驚いたのは言うまでもありません。
2人が再会してから、その原作に於ける前半部分の過去の描写を、映像化に於いて〝 出逢って別れ、また出逢う 〟…とゆうモチーフを基に。更紗の苦悩として《大好きだった文への想い》を、溢れさせる描写が以降ふんだんに描かれていました。
以降映画本編は、ほぼ原作を踏襲して進んでいます。
しかしながら、そこはやはり尺の都合でしよう。原作での様々な2人の絡みから、周りやネット・マスコミ・世間が、好奇の目を向けて行く辺りは、最小限の省略にとどめてストーリーを展開させていました。
その辺りの賛否は、観た人によって色々な意見があるかも知れません。
その辺りの【否】として。とにもかくにも、2人は出逢ってしまい。更紗の異変に気付いた亮が、嫉妬にかられた事から。更紗と文の2人は、坂道を転げ落ちる様にネットであり周囲の人達から蔑まれて行きますが。その際に、更紗が唯一心を許せる同僚だった安西であり。文の恋人の谷の描写は大幅にカットされている為。原作を読んでいない人には、多少都合の良い人物像…と思われてしまうのでは?とも感じました。
そんな安西と谷ですが。原作では安西は、更紗の相談相手であり。亮のDVから助けてもくれ、その代わりに…と、何度も娘の梨花を預け。それが最後には、2人にとっての過去と現在との【月と鏡】の関連性に繋がり。悲劇性はより増幅されてしまうのです。
一方で、文の恋人だと思っている谷。
彼女は(原作だと)更紗の事を、文に付き纏う《ストーカー》だと思い込み。諌める為に交番へ連れて行ったり、(年上である事から)更紗を何かと子供扱いします。
その事が、映像化でのオリジナル要素として、最後の最後に凄い展開を見せるのですが。それは映画本編のラスト40分辺りから展開されるパートで明らかにされるのです。
安西と谷のキャラクターは、2人の運命を握る人物像として展開上では重要な2人なのですが。
それぞれ、安西はそのビッチ的な性格。谷は病気により胸を失っている設定ゆえか、ある程度は観に来たお客さんを意識しての配慮なのか?あまり目立たない存在になっている。
主演の2人、広瀬すずと松坂桃李のコンビは本当に素晴らしかった。
会う人毎に「芯の強い人」と言われる更紗。
広瀬すずはまさに更紗そのものだった。
同時に、彼女の若い頃を演じた子役の女の子も素晴らしかった。
松坂桃李は、その見た目からしてもう圧巻の極み。
【幼女趣味のど変態】
世間で言われ蔑まれた辛い日々。
だが本当の彼は、人には言えない病気を抱えていた。
谷に言われて告白する文。
「僕は少女が好きなんだ!」
でも本当は全然違う。
映画のラスト40分は、そんな文から発せられる苦悩の叫びが、映画オリジナルと言えるくらいに爆発している。
男の子として生を受けたものの、「どうして自分は女の子にはなれないのか?」
女の子になりたいのに、どうしても周りには男の子として見られてしまう。
それゆえ〝 男の子になろうとするが、思えば思うほど女の子にはなれないし、そもそも女性を愛する事が出来ない 〟
「母さん…僕は出来損ないなの?」
それを感じながら生きて来た、その悲しさ。
谷に放った言葉の真の意味には、自分を蔑む世間に対する精一杯の怒りが伴っていたのだった。
それを、全身全霊を持ってスクリーンから殺気を帯びながら放つ松坂桃李は素晴らしかった。
映画本編での出番は少ない谷役の多部未華子。
彼女は、確かに先程述べた様に出番は少ない。
でも、最後に彼女の存在自体がこの作品では世間が蔑む【ロリコン変態野郎】の代弁者となっていた。
「少女趣味だから私を抱かなかったのね!」
この時の多部未華子がまた凄かった!
泣き崩れ、怒りに打ち震えなぎら叫ぶその顔の何という醜悪か!
この際のあの醜悪な顔のアップこそ、製作側が狙った〝 世間の偏見と差別による醜悪な姿 〟そのものだった気がする。
最後にもう1人。亮役の横浜流星。
原作以上にDV男を演じており。そのクソっぷりこそは、この作品での最大に見所と言えるかもしれなかった。
原作の最後に描かれる《2人+或る人物》のその後。
映像化では、あくまでも社会から蔑まれた【現在】の2人が辿り着いた、行き場のない閉鎖感で映画は締め括られている。
それにより、原作でほんの少しだけ示されていた(2人にとっての)ハッピーエンディングではなかった。寧ろバッドエンディングと言って良いのだと思う。
しかしながら、この映像化によるエンディングには。原作よりも深い2人の信頼性であり、お互いの境遇を慈しみ会う共有性に溢れ。原作を読んだ時以上の余韻を味合わせてくれるラストシーンでした。
一見すると、月は夜の帳に明るい光を放つ。
夜=裏の顔との存在として。
だけど、決して月は自ら光を放つ事などない。
寧ろ月は存在を主張する事などない。
月は本来、自ら光を放たない為に昼間にも存在しているものの、なかなか気付かれる事もない。
月は地球に引かれ続けながら絶えず寄り添い存在し続ける。
2022年5月14日 TOHOシネマズ西新井/スクリーン4
※ なお、原作に重要な要素として登場するタランティーノの『トゥルー・ロマンス』は、一切出て来ず。逆に、数本の今敏作品がヒューチャーされており。(おそらくは)そこが監督自身による、原作との1番の違いとしての拘りの1つなのだろう…とゆうのが分かる。
松坂桃李と広瀬すずの演技が良かった。 この二人は純粋にお互いを精神...
もどかしいところがある
きっかけは、どうあっても…。
二人の関係性が良好なら、本来、それは他人様がいらぬ世話を焼く次元のお話ではないと思うのですけれども。
ふつうに「誘拐」といえば、身代金目的やわいせつ目的で、相手方(被拐取者)を無理やり連れてくることがイメージされると思うのですが。
しかし、特に相手方が未成年だったりすると、可哀想に思って連れて来たり、家の中などに連れ込まなくても、相応の長い時間に渡って連れ回したりすると、警察などの捜査機関の眼から見れば、それも立派な「誘拐」になってしまうことから(そうは思ってはいない当事者にしてみれば)訳が分からなくなってしまうという次第になるようです。
ものの本によると、「略取・誘拐の罪は、人の自由を侵害する犯罪の一種であるが、その本質(保護法益)について、被拐取者(略取又は誘拐される者)の自由に重点を置くか、被拐取者が未成年者であるために監護者がある場合には保護監督権に重点を置くかによって見解が分かれている。判例や通説的立場は、一面においては被拐取者の自由が保護法益であるが、他面では被拐取者が未成年者や精神病者であるために親権者などの保護監督者がある場合には、この親権者などの保護監督権(監護権)もまた保護法益と考える」(斎藤誠二著「刑法各論」八千代出版、1990年)とされているので、捜査機関の眼から見ると、上記のようなことになる訳です。
誰しも、保護者に身代金を要求する目的だったり、体を触ったり、その他(まだまだ「子供」の評論子には詳しく分かりかねますが)いろいろと「いけないこと」をするために自分を拉致してきた人に好意を寄せることは、ふつうには、あまりないだろうと思うのですが。
しかし、お互いに何となく惹かれ合って、それで結果として、ずっと行動を共にして来たりすると、とくに相手が未成年者だったりした場合、本作のようなことは、起こり得ないとは断言できないだろうなぁと思います。実際問題として。
(「いいパパをゲットするまで」とは言いつつ、結局は行方不明になってしまった安西の子供の面倒を見ていたことが「誘拐」というのは、いくらなんでも無茶だとは思いますけれども、評論子は。最初に、保護者(親権者)である安西からの明確な委託がある訳ですから。)
その意味では、本作の「私が愛した人は、(私を誘拐した)誘拐犯でした」というキャッチフレーズは、まるまるは嘘ではないのですが、当事者の二人の心情にしてみれば、「誘拐した」「誘拐された」という意識は、どちらにも、しかもハナからなかったように思うので、評論子的には、いささか羊頭狗肉の感が否めないところです。
いずれにしても、他者(世間一般)からは偏見を持って見られがちな恋愛…というのか、語弊を恐れずに端的に言ってしまえば、他者(世間)からは理解されない恋愛関係の二人は、いつか出会うであろう理解者に巡り合うその日まで、満ちては欠ける「月」のように延々と世間を「流浪」しなければならない―。
そこに、本作の題名の意味があって、そしてその「痛さ」が、胸に迫る一本で、観終わって切ない一本でもあったと思います。評論子は。
充分に佳作と評することができると思います。
<映画のことば>
自分を好きになってくれる人と、恋もしてみた。そういう人なら、本当のことを分かってくれると思って。
でも、やっぱり人って、見たいようにしか見てくれないのかもね。
<映画のことば>
「生きていても、どうせ、いいことないし…」
「でも、僕は生きていたから更紗にまた会えた」
今の邦画にはとがった映画も必要なのかもしれない
更紗は文との時間が一番居心地がよかったんだよね…
本屋大賞で話題になった作品でずぅっと観たいと思っていた映画だ。原作は読んでいない。あらすじだけ読むとかなり重い内容で、私には理解できないのでは?と心配していたが、何となく更紗の気持ちがわかるような気がした。最初はストックホルム症候群を描いたものかと思っていたが、そんな単純なものでもない感じだ。更紗は私はかわいそうな被害者ではないと強く思っていて、ある意味自立している。一方、文は心の奥に深い闇を抱えている。亮は更紗に執着し、依存している。そんな3人の関係がだんだん変化してゆく。2人ともただ一緒にいたいだけなのに、まわりの人たちがそうっとしておいてくれない。そんなにミーハーに干渉しなくてもいいのにと思った。更紗も文も家庭的に恵まれなかったから、弱い者の気持ちがわかるのだと思う。誰にも理解してもらえなくても、あの道を進んで行くのだろうか? 2人がそれで幸せなら私はそれでいいのではないかと思う。何よりも2人の幸せを祈りたい。
何が正しいのか分からなくなる、とりあえず横浜流星最高。
映画館で見逃したため、サブスクで鑑賞。
暗いけどどこか穏やかな映画の雰囲気がすごい好きだった。松坂桃李のハマり役感がすごいし、すずちゃんの幼少期役の女の子の魅力がすごかった。誘拐はれっきとした犯罪、でも幼児自身が望んでいる。何が正解なのか、何が正義なのか、分からなくなった。第三者として映画をみるとすずちゃんと松坂桃李の味方をしたくなるけど、“誘拐”という事実で見たら確かに気持ち悪い。でもこの誘拐はどこか美しくて。そんな色んなことを考えた映画だった。でもなんといっても横浜流星が覚醒したんか?ってくらい演技がハマってたしほんとにかっこよかった。これを機に流星沼にハマった。すずちゃんと横浜流星のシーンが最高すぎて、、、流星結構ヤバいやつだったけど普通に沼だった。観て良かった。
社会的マイノリティvs.未成年性加害
大きくは、社会的マイノリティ(今作ではロリコン)への差別を風刺する作品。社会的に受け入れられないロリコン、当人達の実情をよそにバイト先や住居マンション、警察やネットから社会的圧力をかけられる。
とても印象深い文のセリフがある。幼少の更紗と文が離れ離れになる公園で2人が手を繋いでいるシーン。
「更紗は更紗だけのものだ。誰にも好きにさせちゃいけない。」
この【誰にも】にはきっと文自身も含まれているのだろう。文の折れない「強さ」と「優しさ」に心を打たれる。
ただやはりこれはあくまで映画として文、それから更紗の主観で見ていたからマイノリティへの差別を語れるのであって、客観で見るとやはりそこには未成年への性加害が疑われるのは自然だし、社会的圧力がかかるのも理解できないものではない。マイノリティの受容を叫ぶのは簡単ではあるが、社会の歯車に噛み合い受容されていくのは容易ではない。
細かいが気になった点。警察描写への違和感。さすがのさすがに現行犯にできるわけない描写多数。あと更紗と文の出会いである、雨の中の公園のシーン、「更紗が帰りたくない。」といった後の文のセリフ「いいよ」が2秒ほど早すぎた。食い気味の「いいよ」はあの場面では似合わない。違和感を感じてしまった。
しかしとにかく演出は上手で、時間が経つのを忘れ、画面に釘付けになり、没頭できる、深い映画だった。
闇夜を照らす灯り 月の満ち欠けのように彷徨う2人の感情🌒
気持ちで繋がる
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