「「多様性」から除外された男たちの話」流浪の月 hhelibeさんの映画レビュー(感想・評価)
「多様性」から除外された男たちの話
見終わった直後の印象は「社会派映画かと思いきや、ギリギリアウトな恋愛映画」だった。
更紗と文はくっついちゃダメだろと思ってたら最終的にくっついちゃって、見てる側からするとカタルシスはあるけどモラル的にはダメだよなー、でも面白かったな、みたいな感想だった。
帰り道に色々考えてるうち、違う考えに行き着いた。
一見、この映画の主役は更紗みたいに見えるけど、ほんとの主役は文と亮じゃないかと。
ふたりは線対称の関係で、更紗はその「線」の役割じゃないかと。
文はどうやら小児性愛者、亮はDV癖のある男として描かれている。
ふたりともそれが社会的に許されないと自覚し、それを隠しながらなんとか生きている。が、どうしてもそれを抑えられなくなりそうな瞬間もある。
更紗はふたりの“それ”が発露する対象として存在している、とも言えるんじゃないか。
文と亮の違いは、自分の“それ”を自覚し、向き合ってきたか否か。
若い頃に(何もしていないとはいえ)大きな事件となり、否が応でも“それ”と向き合わざるを得なかった文と、“それ”を無視し続けながら「社会的な幸せ」を掴もうとし、踏み外した亮。
心の中に怪物がいたとしても、人はこの社会の中で暮らさなきゃいけない。
そのためには、“それ”を無視せず、正面から対峙して、飼い慣らし、しんどくても一緒に生きていくしかないんだろう。
「多様性」とか「自分らしさ」とか安易に言うけど、こういう危険だったり汚いとされる「自分らしさ」は社会から除外される。
それは社会の治安や安全のためにはしょうがないかもしれないけど、でも社会が見て見ぬ振りをしても、そういう人もいるんだよ。「いる」ことを否定しても、糾弾しても、いる。
「自分らしさ」を発揮すればたちまち加害者になってしまう人たち。
そういう人たちとどう付き合えばいいのか、社会はまだその術を知らない。
この映画だって、おそらくどうしようもなく受け入れられない人もいっぱいいるだろう。
そんなことは百も承知で、それでもこの映画を作った李相日監督の覚悟を感じたし、私は敬意を払いたい。
一方、すんごい面白かったからこそ、些細なことが気になった。
ああいう生き方をしてきた文が、あんなにきれいな筋肉のついた身体なのは違和感ある、とか、更紗はどうやってあのマンション借りられたんだ?とか。
あと、警察に連れて行かれた梨花ちゃんがその後どうなったか分からず、更紗も文も心配すらしないのか…と思ったけど、二人には梨花ちゃんを心配する余裕なんてないってことかなぁ。
ともあれ、重厚感のある素晴らしい日本映画がまたひとつ誕生したことを嬉しく思います。