「映画『流浪の月』- 「真実」の所在とは」流浪の月 重金属製の男さんの映画レビュー(感想・評価)
映画『流浪の月』- 「真実」の所在とは
鑑賞を決めたのは当日の深夜で、原作が本屋大賞を受賞したことぐらいしか前情報がなかったので、とりあえず予告編を観て眠りについた。原作は凪良ゆう氏の同名小説で、脚本・監督は李相日氏(『悪人』、『怒り』)、撮影監督には『パラサイト 半地下の家族』のホン・ギョンピョ氏を迎えている。それだけでも期待値が高まる作品ではあったのだが、主演の広瀬すずと松坂桃李の演技には信頼度が高かったので特に不安要素もなく上映時刻を迎えた。
どこから語ればいいのだろう。松坂桃李は正気のない役を演じるのが恐怖を感じるほど本当に上手いと思ったし、嗚咽混じりに鼻血で顔を汚したままマンションの階段を駆け下りて街を彷徨う広瀬すずの演技は良い意味でゾッとした。横浜流星は目も当てられないほどクズなDV彼氏を演じ切っていたし、出演シーンは全体の1/10ぐらいだったけど彼女以外ありえないと思わせた多部未華子の演技も印象的だった。脇はというと趣里や三浦貴大をはじめ、柄本明や内田也哉子らで固められていて配役は非常に満足度が高かった。エンドロールを見ながら「豪華すぎる」と思ったほど。当然かもしれないが、各々が自身の役割に完璧に徹していた、そんな印象。
ストーリーは色々思うところがあった。先日拝読した朝井リョウ氏の『正欲』とも通底する要素があったように思う。「いてはいけない人なんていない」という、誰しもが生まれながらにして平等に与えられた権利の所在が曖昧になっている社会が、この映画でも舞台になっていた。
松坂桃李演じる佐伯文と、広瀬すず演じる家内更紗のそれぞれが、秘めたる特性や現実を抱えながら偶然出会っただけなのに、社会は法を盾にしてそれに対して「誘拐事件」とレッテルを貼り、偏った報道を加速させる。今の日本のメディアを通して事件や事故を語る浅はかさや恐怖が手にとるように伝わってきた。不純な動機など一切なかったとはいえ、法の下では佐伯文のしたことは決して正当化されるべきではないだろう。しかしながら、彼らの「真実」を語る権利を蔑ろにしてほしくないし、耳を傾けてあげてほしいと思うのは些か稚拙な考えだろうか。法に触れた途端、土足で踏み荒らされる人権という領域の、釈然としない曖昧さ。佐伯文の働く喫茶店へ警察が押し入る場面がある。窓から光が差し込んでいても、希望の光は一切感じられなくて、月並みな表現ではあるがなんだか遣る瀬無い気持ちになってしまった。この社会では真実を知った上で善悪を見極めることは難しいことなのかもしれない。佐伯文の瞳は、周囲の人間へ真実を説明することへの諦念を宿しているかのように黒々としていたが、彼は決して“ハズレ”なんかじゃない。「いてはいけない人なんていない」のだから。
佐伯文と家内更紗は、端的に言って「複雑な利害が一致した」関係であり、決して被害者と加害者ではないのだ。たとえそれが鬱屈とした色味が多い映像の中で、歪な出会い方によって導かれたものとして描かれていたとしても、ふと画面全体が光の放つ眩い白で満たされる時、そこには二人の笑顔が在り、それが自由であり希望であったのだ。それはまさに、時を超えて〈許されざる二人〉が闇夜で落ち合うとき、互いを照らす美しい「流浪の月」であるかのように────。
余談。この映画を見る前の晩、今更King Gnuの『白日』を初めてちゃんと聴いて、いい曲だなぁと思っていたら、エンドロールに劇中使用曲として『白日』がクレジットされていて怖かった。多分カラオケのシーンなんだけど、どこで使われていたのかは謎。だけど歌詞の内容と本作を重ねてみると意図的に選曲されたようにしか思えなくて、余韻に浸るべく劇場を出てすぐに『白日』を再生した。