春原さんのうたのレビュー・感想・評価
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文字と文字の間を想像することの豊かさ。
もう放埒なくらい説明がない。最初は戸惑うのだが、決して描写に不足があるわけではないことがわかってくる。映画やフィクションでは、しばしばキャラクターが秘めていた心情を激情とともに吐き出したりするものだが、果たして現実にそんな場面に遭遇したとして、その言葉を額面通りに受け取れるだろうか? 発せられた言葉が気持ちのすべてとは限らないし、また気持ちのすべてを言語化することなど不可能だし、他人を理解することにも限界がある。だからこそ、なのかは知らないが、この映画では「大事な人を亡くした喪失感と再生」を、ドラマチックな展開などどこにもない、寄り道だらけの日常を通して描いているのだと思う。この言葉では説明しきれないものをビジュアル化した映画が、行間、というより、文字の隙間を想像するような短歌から生まれたという経緯にはなるほどと頷くばかりだし、映画が人の心の真実に触れるためのひとつのアプローチとして秀逸だと感じた。
とはいえ、見方によっては退屈だったり入り込みづらく感じることがあるのも想像できる。自分の場合は、劇中に登場する聖蹟桜ヶ丘のキノコヤや、主人公が住むという設定の小竹向原の駅前をたまたま知っていたことで、いきなりこの世界や人物や知性的な距離感が具体化して、突然集中力が増した。見る人によってそれぞれだろうが、どこかにひとつでもとっかかりが見つかれば、突然、自分と地続きに感じられる映画なんじゃないだろうか。
“令和の普段の多摩”を舞台にした映画としても
「濱口竜介と杉田協士:2021年の国際映画祭を賑わせたふたりに共通するもの」(あしたメディア by BIGLOBE)という記事を読んだ。指摘されているように、外国の映画人に高評価される共通項は確かにあるのだろう。とはいえ個人的には、演劇要素を多用しフィクションをフィクションとして提示することを追求している(それゆえ別世界の話として空虚に感じられる)濱口作品より、日常のささやかな出来事や心の動きを、まるでスナップ写真か短歌のように切り取って紡いでいく杉田作品のほうが、現実と地続きの話として身近に感じられるので好みだ(ちなみに杉田監督の長編で好きな順は「ひとつの歌」>「春原さんのうた」>「ひかりの歌」)。
東直子の歌集「春原さんのリコーダー」に収められた短歌「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」を“原作”としているが、それ以外にも郵便ポストのくだりなど、他の短歌に着想を得たと思われるエピソードも組み合わせている。カフェでバイトを始めた沙知(荒木知佳)が、引っ越しもして新生活をスタートさせる。彼女が抱えるある喪失感は、たとえば視線の先に映る人物の姿でさらりと示唆される。
説明過多な邦画に慣れた観客なら、あるいは情報不足のように感じるかも。ただし注意深く観ると、かすかではあるが確かにある感情の揺らぎや、巡らせる想い、再生への希望といったものが伝わってくる。一瞬の情景を切り取った写真や短歌のように、受け取る側が想像力をはたらかせて味わうタイプの作品と言えるかもしれない。
なお、沙知のバイト先のカフェは、多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅から少し歩いた大栗川沿いに実在する「キノコヤ」という店。映画の上映会やトークイベントなども不定期で開催していて、多摩市出身の杉田監督がらみの企画も何度かあった。市内では広いレンガ敷の遊歩道が伸びる(冬はイルミネーション会場にもなる)多摩センター駅南口がロケ地になることが多い気がするが、「春原さんのうた」で映し出される駅から店までの街並みや、店の2階の窓から眺める川沿いの桜などは、地元で見慣れた普段の多摩そのもの。ジブリのアニメ映画「耳をすませば」で知られる「いろは坂」もすぐ近くにあるので、よかったらキノコヤにも寄ってみて(お酒も飲めます)。
ちば映画祭定期上映会vol.01にて
トークイベント付きの上映会鑑賞。鑑賞中は勘違いで胸糞悪い気分になったり、「え?」「何で?」が頭の中でいっぱいになったりしてたのだけれど、トークでの「作品の作り方」を伺って何となく腑に落ちましたね。まぁ、映画は作品で伝えてナンボだから難しい所ではあるのだが、「(現実で)人は人の事を全然知らない」という一点でスッキリとしましたん。そういや、大人になってから仲良くなった人の事って生い立ちや日々の事なんて知らないもんね。
結構後付けされた部分もあって冗長に感じる所はあるのだけれども、時間が経つとともに味わい深くなる作品ではありました。
原作が短歌での長編映画。出来事や風景を必要最低限に収める世界から、120分の映像世界へと変換させるのは、楽しくもあり難しくもあったんだろうなぁと思います。
良い時間でした。
私には合わなかった
監督すらどこに行き着くのか分かってないような映画。
独りよがりだし嘘くさい。
だいたい、執拗なまでに手洗いうがいの描写入れてるくせに、ひとんちにあるリコーダー寄ってたかってプープー吹くかよ。一時が万事こんな調子。
空気感は唯一無二だがいかんせん尺が長い
和製ノマドランドという点についてはドライブマイカーにも共通しています。と言うか、ほぼ同じ時期に公開されたこの二つの映画。こんなことを言えば、多分監督さんは(またかよ)と思うことでしょう。
確かに空気感は似ていますが、私はこちらの方が好きです。田舎の夏の夜みたいな虫の穏やかな鳴き声と、風鈴の音。それらがBGMとして映画のほぼ全編を包み込む。
ある女性とその女性に関わる人々との日常生活を切り取りながら、緩やかに過ぎゆくこの映画について、まさにこのBGMが欠かせない空気感を醸し出しています。
いや素晴らしい。リピーターが多い理由もよくわかる。
ただし、です。
解説がないゆえに、起承転結がわかりにくい。
この映画の主題はこの主人公の女性の喪失感と、彼女に寄り添う様々な人達との関わり。その関わりから、徐々に癒えていく主人公の心の傷に焦点を当てた物語、のようです。
ただし、ほとんど主人公について詳細が語られることはない。
主人公の心の動きについては、彼女のふとした行動(シンクに立ってボーっとしていたり、物凄い勢いで書を仕上げたり)で表面化していますが、基本的に主体的な人ではないので、活動的な観客だと観ててしんどいかもです。
なお、私はそこそこしんどかったです。あと15分尺が少なかったら頑張れたかもしれん(ラストでちょっと寝落ちしてしまった)。
でも、空気感は良いです。
あと30回は頑張って観たい。また寝落ちするかもしれませんが。
【”もう大丈夫だから・・”とさっちゃんは微笑んで言った。静謐で、空白の余韻に浸れ、観る側に様々な類推を自然にさせてくれる映画。さっちゃんの日々を淡々と映し出す中で、人間の善性を描いた作品でもある。】
ー 東直子さんの詩「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」にインスピレーションを与えられた杉田監督が奏でた、静謐で哀しみを湛えた若き女性の生きる日々を綴った映画。-
◆感想 <Caution! 内容に触れています。>
■さっちゃん(荒木知佳)は、いつも口角を上げて、微笑んでいるように見える。
・さっちゃんに宮崎に帰る事になった日高さんが、自分の住んでいたアパートを”住みやすいし、安いから・・”と家具と共に引き渡すシーンから物語は始まる。
・そして、様々な人がさっちゃんの周りに集まってくる。
それは、さっちゃんが働く喫茶店で、賄いのスパゲティを食べている所を撮影しても良いですか、とお願いする大学生の男性であったり、
葬式帰りの夫婦に大きな筆で、風林火山と書いてあげたり・・。
きっと、さっちゃんの人柄であろう。
彼女はそんな無理なお願いにキチンと応えてあげる。
・伯父さんは、さっちゃんの様子をアパートまで見に来る。
- 突然、泣き出す伯父さんの姿・・。
観る側は、さっちゃんの過去に何かあったのだろうと推測する。-
・叔母さんも、さっちゃんのアパートにやって来て、伯父さんと鉢合わせるが、咄嗟に押し入れに隠れ、リコーダーを吹き始める。
- クスクス笑えるシーンであり、伯父さんと伯母さんがさっちゃんをさり気なく、心配している様も垣間見える。-
・日高さんの知り合いの女性が、さっちゃんのアパートに来た際に突然、涙を流すさっちゃん。
・夜、独り静かに筆を持ち、何かを書いているさっちゃんの姿。
- そして、その後一瞬映し出される”転居先不明の判”が押された葉書。宛先人は春原雪と記載されている・・。-
<一片の詩から、紡ぎ出された静謐な作品。
さっちゃんの身に起きた哀しき出来事をさりげなく暗示しつつも、詳細には触れず、さっちゃんの生活する日々を淡々と映し出す中で、人間の善性を描いた作品である。>
<2022年2月20日 刈谷日劇にて鑑賞>
喪失とどう向き合うか。
全編に渡り喪失感と少しずつ向き合う様子を描く。歌人の東直子による第一歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌をもとに映画化した本作は、主人公が置かれた状況や悲しみの対象が明確に描かれることはない。空いたままの玄関や窓とは裏腹に、主人公の心はどこか閉ざされている。そんな中、部屋を通り抜ける風のように、気にかけて部屋に入ってくる人たちの姿が印象的。主人公と彼らの姿が、どら焼きの餡と包む皮の関係性に重なる。誰かに見守られ、誰かを見守る。そんな普遍的な人間関係の様子が、主人公が道案内するシーンに表れている。「もう大丈夫だよ」の言葉が聞けてどこか心がスーッと浄化されていくようだった。大切な何かを失ったことがある人にとって優しく寄り添ってくれる作品。
どう表現したらいいか分からないです。
観ている最中は「今起承転結のどこにいるんだろう?」と思ったり、抑揚のなさに若干退屈してしまったんですが、終わった後もなんだか余韻が抜けない。
カフェでアルバイトをする主人公沙知。
常連の日高が街を離れることになり、彼の荷物がそのまま残る部屋に引っ越しをします。
風通しの良いそのアパートには沙知の事を気にかけて人が訪ねてきます。カフェにいても、休みの日も、沙知が一人になるシーンはほとんど見られず、しかも沙知の方から誘った様子はない。なぜ皆が彼女を心配するのか、徐々に悲しみを消化していく日常を切り取った作品です。
小さな日常の積み重ねなので、劇的な展開はないです。何度も何度も同じようなシーンが出てくる。だからかえって些細な言葉や、音や、風景が
印象に残って、そこに小さな心の動きを見つけられるのだと思います。
明日になったら評価を上げる気がします笑
女性の心の変化を描いた
カフェでアルバイトを始めた沙知は、常連客から勧められた安いアパートで新しい生活をスタートさせた。そのあと、バイト先での様子、知人が家を訪ねてきたり、前の住人の彼女?らしき人が来たり、故郷へ帰ったりする様子がぶつ切りで映されている。
ほとんど会話も無いのでよくわからなかったが、主人公が元気になっていく様子を描いたのかなぁ?
ほんわかして感じは良いんだけど、難しくてよくわからなかった。
日常のなかの静かな静かなドラマ
好き嫌いが分かれる映画だと思います。
好きな人にはとても魅かれる内容です。何も起きていないようでいて、とてもたくさんのことが起きています。
わからないこともたくさんあります。
別に珍しくもない話と言えばそのとおり。
人はこうして生きて回復していくのだろうと思います。
傷を忘れないまま回復する。私にとってはそういう映画でした。
ただ、日常を描写する。
24歳の女性、沙知の日常を、固定カメラで映し続ける。
美術館を辞めたりなど、物語の設定はあるようだが、劇中に特別な説明はなく、作品紹介やホームページなどを先に見ておかないと、そのあたりはまったくわからない。
いろいろな人達が、お菓子を持って部屋に訪ねてくる。その関係性もよくはわからない。
固定カメラの前を、登場人物が歩き、フレームをはずれると足音が響く。
誰もいない室内の玄関が映し出され、階段をのぼる音が響く。やがて足音に変わり、鍵を差し込む音がして、ドアが開き、沙知が入ってくる。
固定カメラは小津安二郎の撮影手法だ。そういう表現を使いたかったのだろう。
「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」という短歌を元にしたイメージ映像的作品。
レズビアンのパートナーを失った喪失感をテーマにしているということのようだ。
表現方法はワンパターンとも言え、固定カメラという手法を繰り返す。
情緒的ともいえるが、突然泣き出したりするなど、意味のわからないシーンも多い。
途中で、沙知の髪が赤茶色に変わる。実際には、脈略のない作品とも言えるが、こういった作品に芸術性を感じる人も、一定数いるのかもしれない。
はるはらさん
小竹向原って実在するんだ、と思ってしまった。よく使う駅のホームで、行先表示やアナウンスでおなじみの駅名ではあるんだけど、実際に行ったことはないので。
映画にしかできない語り方で彼女たちの物語が、ゆっくり贅沢なテンポで語られていって、映画館に優しい時間が流れていた。沙知が夜、帰ってきて、暑いので下着姿になって、部屋の電気もつけずに、開いた窓から外を見ているシーンが好き。一日の終わりって、少し死に近づくひとときなのかもしれない。
開場前、誰かが「かはらさんのうたのパンフレットください」と言っていた。予告編やCMがガンガン流れるのを見た覚えはないから、そんなこともあるなあ、それでも辿り着けましたね私たち、という気持ち。
知恵熱出そう…
大阪での封切りの日、杉田協士監督を始め主演の荒木知佳さんなど4名の舞台挨拶とともに鑑賞。
「面白かったの?」と聞かれれば「ううん、全然」と返すし、「じゃあ、つまんなかったの?」と聞かれれば「いや、そんなこともなかったよ…」それ以外の言葉が見つからない…
面白いとか良かった悪かったとか、そういう尺度で語るような作品ではないのかも知れない…苦笑
歌人の東直子さんの歌集を基にしているとのことで、ある女性の何ということはない4〜5分程の短い日常エピソードが、延々と続いていく。
短編同士は特に何の脈略もないように見え、それが2時間ただ繰り返される…
短歌の集まり、つまり歌集のように…
何か心に傷を抱えた女性を、周囲の沢山の人が心配していて、その人たちは特別に何かをしてあげることもないのだけれど、彼女の心の傷が少しづつ着実に癒えていくのが伝わってくる。
そこにエンタメなど皆無で、芸術だとかアカデミックな欲求は満たせるのかも知れない。
レビューを書きながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなってきた…苦笑
どこかに置き忘れてしまった感性と気遣い
何かと刺激的な作品が多い中、非常に静かに進行する映画です。そうすると何か物足りなく感じで、どーんと入ってこないのかという思いに駆られてしまいます。しかし、そこは抑えて画面との格闘です。
まず音。生活音が細やかに拾われて(挿入されて)います。沈黙の場面が多く、無音の効果を出しています。次に光です。少し暗めでしょうか。それから、ちょっとした動きを捉える。カーテンの揺れなど。繰り返しですが、騒がしい世の中では埋もれてしまうような要素を取り出してあえて観客に示しているように感じました。
それから、主人公に対する周囲の人々の気遣いも現実にはあまり見られないように思いました。そういう大事なものを押しつぶしてしまう現代社会を暗に批判しているとは捉えられないでしょうか。ケン・ローチ監督のように直接的ではないにしろです。
杉田監督作品の底流にある、人間観を感じます。
前作より良い
前作は短編集の為、短歌の筋に沿うようなストーリーだったが今回の方がより、映像だけで語る意気込みを感じた。前作の時のアフタートークで「別に映画を撮りたいという意気込みはないんです」と語っていて、そのスッキリして態度に拍子抜けしたのは印象に残っている。
変にストーリーを進めようという焦りが無いためか、映画全体がリラックスしている。主演の荒木知佳さんの空気感とあっている。途中で髪が変わるのは、意外なギミックで驚いた。尺も2時間で短くないのだが、それでももっと観ていたいと思ったのは珍しい。
長回しや女性を描くところは中川龍太郎と比較したくなる。
次回作も是非観てみたい。
温かい空気に包まれた何とも愛おしい作品
杉田協士監督‼︎
前作「ひかりの歌」 は4首の短歌をベースにした4章構成の153分。4人の女性たちの人生を切り取った、その一瞬一瞬が愛おしかった。淡々とした静かな語り口ながら、温かい空気に包まれた珠玉の作品だった。
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今作のベースとなった短歌は『転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー』
カフェでアルバイトを始めた沙知。常連さんから引き継いだアパートで新しい生活をスタートさせた。
淡々とつづられる彼女の生活。過去が語られることはないが大切な人を失ったことが見え隠れする。
彼女に接する人たちは皆優しかった。
「もう大丈夫だから」と言う沙知。
新たな人生が始まろうとしていた。
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う〜ん、これは何とも愛おしい作品だった。
温かい空気に包まれた珠玉の作品だった。
って、「ひかりの歌」の感想とまったく同じ🥺
俳句のような映画でした。僕は好き。
素敵な作品でした。
この監督の作品は初めて。なんとまぁ、説明がない作品。いえ、言葉じゃなく人々の日常を切り取った映像で豊かに豊かに説明しております。そのモザイク具合が絶妙なんでしょうね。冗長だと思わないし。感じないし。不思議だなぁ。
具体的なエピソードを描くわけではないのです。「?」なカットは多数だし、はて?はて?と置いてけぼりにならないよう映像とセリフ、人物の表情のピースを寄せ集めながら鑑賞です。でも、それが心地良いのです。
いつのまにか集中してし(笑)めちゃくちゃ。あれ?僕、作品にドップリハマってる。
不思議なんだよなー、なんだろ?この感覚。ほんとに。最初は物悲しいんです。で、さっちゃんの髪の色みたいに次第に明るい感じになっていくんだよなー。
かなり計算された演出ではないでしょうか?素人ながら思います。唐突に登場する人物達がいい塩梅の伏線になってたり、人物浮き彫りにしたり。すごいなー。
それと演者さん達含めですが、演じてる感じしないんです。ドキュメントっぽい。見事なんだよな。だからこそ、その辺にある日常感あるし、故に淡々と積み重なる
ことで妙に現実的な、説得力が生まれてくるし。
原作が、短歌って、、、すごいな。この映像のリズム、無駄がない感じ俳句いや、短歌き?、、、みたいな映画だったかも?無駄を削ぎ落として情景や心情そのものを描く、、、みたいな。
とにかく説明がない作品ですから、考えながら思い巡らしながら鑑賞するのが苦手な方にはオススメできないかなー。娯楽作品って感じじゃないです。
短歌や俳句を読んで情景や心情に想いを馳せ、想像ことがお好きな方にはオススメかな?
僕は考察好きで妄想好きですから、どストライクでした。でも、もうちょい説明欲しかったかな?けど、優しくて温かい映画でした。
ばらまかれた他人の写真を見ているよう
平日の13時からの上映だというのに、ポレポレ東中野はかなり混んでいる。舞台挨拶が好きではない当方としては、まさか舞台挨拶付きの上映かと危惧したが、そうではなかった。ということは、作品自体に人気があるのだろうか。
それにしては解りづらい作品だ。恐らく書を嗜むヒロイン?が大きな書を書く場面以外は、極めて日常的なシーンが断片的に並べられる。距離感も時系列も凡そ不明だ。妙に間延びしたシーンの連続も気になる。不要なシーンをカットすれば、上映時間が半分になる映画だ。
全体的な印象で言えば、誰かの思い出の写真をばらまいてコラージュにしたようだ。理解できるのは写真の持ち主だけである。これを観客の前に投げ出されても、持ち主の思うようには理解されない。当方もよく解らなかったし、登場人物のうちで感情移入できる人はひとりもいなかった。
登場人物が芝居をしているように見えないほど日常的な表情や仕種をして台詞を話しているところはそれなりに評価できるが、考えてみればそんなことは役者なら当然のことである。肝腎なのはその表情や仕種や台詞が観客の心を揺さぶるかどうかだが、少なくとも当方は本作品に心を揺さぶられることはなかった。断っておくが、これは個人的な感想なので、当方の感受性を責めるのはお門違いである。
ぼんやりした喪失感があり、個人的な哀愁がある。思い出は残るが、思い出の持ち主が死んでしまえば、もう何も残らない。生きることは即ち失うことだ。人生のなんと虚しく、悲しいことだろう。
シェイクスピアではないが、そんなふうな人生観が薄っすらと感じられる映画ではある。文学作品だから、観た人それぞれの解釈があっていいとは思うが、せめて同じ向きの解釈がされるように作ってほしい。
あらゆる表現は他人に伝えるためにある。伝えるからには理解してもらえるように努力するのは当然のことである。映画監督は同時に映画の観客でなければならないのだ。ばらまかれた他人の写真を見ても、そこに感動はない。
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