すべてが変わった日のレビュー・感想・評価
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ケビン・コスナーさん、ダイアン・レインさん
さすがの演技でした。 息子の死の理由が分かりづらかったです。 孫を助ける執念は、素晴らしかったです。 でもなぜ、あの家族は狂っているのでしょう?
名優が出てるけどまあ普通作
名優二人がいい夫婦の味を出してはいるが、後半30分やっと活劇になるもベタな展開で、まあ普通作。『脱出』(72年)に出てきたような、アメリカの片田舎の頭のいかれた白人プアー層は見ていて腹立たしくなる。
夫婦の勇気は肯定されるべきだ
英語で「Let me go」というと「私を行かせて」と直訳するよりも「離して!」としたほうがいい場合がある。本作品の原題「Let him go」はどうだろうか。「その子を離しなさい」または「その子を離せ!」くらいでいいのではなかろうか。 しかし邦題は「すべてが変わった日」である。その意味は映画の序盤で解るが、本当の意味ですべてが変わった日はその3年後だ。前半はある意味で静かに時が過ぎていくが、後半には怒涛の展開が待っている。この邦題は悪くない。 今日では社会が毒親から子供を守るのがひとつの方向性として主流になっていて、十分とは言えないけれども行政がその任を担っている。しかし本作品の舞台となった1963年は、児童虐待という概念さえ、社会が共有していなかった。それは日本も同じで、本来の意味での児童虐待防止法が交付されたのは2000年になってからである。 本作品は毒親の親も毒親だったという絶望的な状況で、ダイアン・レインが演じた主人公マーガレットは、ケヴィン・コスナーの演じる夫ジョージとともに途方に暮れる。警察は助けてくれるどころか他所者として排除しようとする。先住民の血を引くピーターは本作品の象徴的な存在だ。この時代で児童虐待とたたかうには、本作品のような展開しかなかったのだろう。その意味での説得力はある。 ダイアン・レインとケヴィン・コスナーの芝居が本当に上手で、もはや長年連れ添ってきた夫婦にしか見えない。そして長い年月を経てもなお、お互いを知ろうとする。人には配偶者にも言わない秘密があるのだ。 この穏やかな夫婦のどこにあれほどの勇敢さが宿っていたのか。夫ジョージには結末が見えていたように思える。しかし突き進んでいくマーガレットをどこまでもサポートする。マーガレットは常識人としての自分に自信を持ち、王道を進めば道は開けると楽観しているが、ジョージは30年間の保安官としての経験から、人は善人ばかりではないことを知っている。 ネタバレになるのでこれ以上書けないが、本作品は扱っている問題の深刻さもさることながら、ストーリー展開が波乱万丈で、平凡な夫婦が強力な相手に立ち向かっていく。その勇気は肯定されるべきだ。 東京では3館しか上映しておらず、上映期間も長くないと思われるが、そういう作品に限って屡々名作がある。本作品もそのひとつだと思う。
【アメリカの苦悩】
この作品は、現代のアメリカの置かれた状況を、60年代に置き換え、もしかしたら、取り返しのつかないところまで行き着かないとダメなのかもしれないという苦悩を表現したスリラーなのだと思う。 公民権運動の広がっていた60年代のアメリカは、白人の既得権を守ろうとする勢力が非常に強く、多様性が当たり前になろうとしている現代において、白人至上主義者が強く抵抗している様と非常に酷似しているのかもしれない。 家父長制の色濃く残るウィーボーイ家。 父親が亡くなり、母親が家父長の代わりだ。 安倍晋太郎が亡くなり、未亡人で安倍晋三の母親、そして、岸信介の娘が、安倍家を影で仕切り、岸家の復活を目指しているのを考えると、日本でも似たようなことはあからさまに行われている気がする。 この作品に戻って考えてみると、このウィーボーイ家と対峙しようとするブラックリッジ家も、家族のヒエラルキーを重要視していたという側面もあり、昔からリベラルというわけではなかった。 しかし、時代の変化とともに、変わっていく価値観も受け入れなくてはならないのだ。 インディアンの土地を収奪したことも振り返るべきだ。 しかし、トランプにリードされて抵抗を強めている伝統的な家父長制に基づいた価値観がモチベーションの白人至上主義者たち。 連邦議事堂に侵入して破壊行為を行ったトランプ支持者は、ジョージに手斧を振り下ろしたウィーボーイ家の連中のようだ。 これを止める為には、眼には眼を、歯には歯をのような行動しかないのだろうか。 取り返しのつかないところまで行き着かないと、争いは止まらないのだろうか。 幸いなことに、まだ、血で血を洗うような状況にはなっていない。 だが、緊張は続いていて、万が一の事態を否定出来ない苦悩をアメリカは抱えたままなのだ。 前に上映されていた「クローブ・ヒッチキラー」も、アメリカの、こうした家父長制が色濃く残る白人社会の歪んだ側面を見せた映画だったと思う。 娯楽スリラーとして云々するのも良いけれど、もう少し視点を変えて、考えてみるのも良いのではないかと思う作品だ。 ところで、ケビン・コスナーは、やっぱり横顔がカッコいい。
両方の視点で考察すると…
どっちもどっちじゃん?!って気もする。 ケビンコスナーも社交的ではない故の誤解(式に招待しないとか)あったし、あっち一家はやりすぎだし。 舞台は昔にしてるけど何十年経っても全く現代のアメリカに当てはまっているのが最大のサイコスリラー。プラス人種間、宗教の問題も絡んでより複&雑に… ノースダコタの広大な自然は美しい。アメリカ版「北の国から」。 唯一、先住民の青年の幸せを祈る気持ちで劇場を出た。 ダイアンレインはその後幸せになれたのか?
うーん、惜しい!雰囲気は◎。コスナーもカッコいい!
タダごとじゃない、突き抜けた不穏な事件が起こりそうな予告編から、期待値上がってましたー! 土臭くてドロドロしてそうなのに、ケビン・コスナーとダイアン・レインが出演するという、そのギャップがどう生かされてるのか凄く楽しみにしてました。 ○まず、コスナー。年取ってもかっこ良さは変わらず。体の線もそんなに崩れていなくて、ガッチリ頼れる男という感じ!→でも行動が(^◇^;) 奥さんの尻に引かれて言われるままに残念な結果に…。元保安官であれば、もう少しやりようがあったのでは?あれじゃ撃沈するのは当たり前かと。 ○ダイアンレインも美しさと上品さはそのまま。→暴れ馬を調教する仕事をしているというだけあって、ジャジャ馬感を押し出している。が、上品さが邪魔してる。コスナーを振り回して、最後は悲しい結末にしてしまう行動に共感できないのと、その後のいまいち反省していない感じに違和感。 ○謎の一族の圧が凄い。ある意味、善悪対照的なおばあちゃん対決とも言える本作。特に一族牛耳る怖〜いおばあちゃんの存在感が半端ない。→意図的なのか、一族の背景が全く説明されておらず、何故ここまで警察にも顔が効いてるのかわからずモヤモヤ。 ○原住民の青年、DV夫婦の描き方が薄く勿体ない。特に義嫁と孫が夫からの暴力を受けて、それを救出するのが目的なのに、その場面は一度だけ。 とはいえ、もし自分の孫が同じような状況下に置かれていたら、どんな行動が取れるのか? このテーマを考えたことが無かったし、他の作品でも観たことがありませんでした。この春、初孫誕生したばかりで、身につまされました。
立ちはだかる鬼女
ダイアン・レインの手綱さばきに惚れ惚れしてしまった。まさにカッコいい歳の取り方。 マーガレットは、何も言わずに引っ越してしまった義理の娘夫婦と孫を探す事を決意し、ケビン・コスナー演じる夫を暴走気味に引っ張っていく。だが、その先にはカルト教祖的に一族を支配する鬼女ブランシュが立ちはだかる。 マーガレットとブランシュの最初の鍔迫り合いは、見ているこっちがいたたまれなくなるくらい迫力満点。切れ味抜群の言葉の応酬だから、下手に近づくと火傷しちゃいそう。 最初の山場とクライマックスは、息を飲むくらい空気が張りつめるんだけど、それ以外のシーンがゆったりとした音楽も相まって眠気を誘う。 ケビン・コスナーとダイアン・レインを観たい僕にとっては、それなりに満足。そうじゃない人はどうなんだろう。
悪人たちとの対決が鈍い余韻を残す逸品
夫婦役がお似合いのダイアン・レインとケビン・コスナーが再共演。夫婦愛に溢れてはいるものの、今作の二人の運命は厳しかった。 息子を落馬事故で亡くし、息子の嫁さんは危険な家族の息子と知らずに再婚した。 元嫁と孫を理屈が通じない暴力的な家族から救おうとする老夫婦にエールを送った。 う〜ん、これは好きだった。元保安官のコスナーが悪人たちと対決するクラシックスタイル。決してハッピーとは言えないエンディングが鈍い余韻を残した。
もしも
132本目。 自問自答。 決断に迷いはないのだろうけど、もしもあの時とは思ってしまう。 パラレルワールドが存在するのならなぁ。 でもあそこに残して来て欲しくはなかった。 あー、でもこれも、もしもになるのか。
王様のブランチ
落馬して死んだ息子の嫁がDV男と再婚し、突然DV男の実家へ引っ越してしまったことから、孫息子を案じて取り戻す為に出かける老夫婦の話。 子供が生まれ幸せ絶頂の息子が亡くなった3年後、元保安官と元荒馬の調教師の嫁という老夫婦が訪れたノースダコタの田舎町で巻き起こっていくドロっとしたストーリー。 一応姑の反省を孕つつ、ヤバいヤツらに挑んで行く葛藤みたいなものが堪りません! 元保安官にしてはぬるいかなとも感じたり、お歳の割ににとんがり過ぎるなとも感じたりするところもあったけれど、個人的にはケビン・コスナーの役どころのある意味中途半端さが好み。 もっとこうしたらとか、何でこうしない?とかも沢山あったし、事件の大きさとか、保安官の設定とか、流し過ぎのお残しが最後に多くてキレの悪さも感じたけれど、なかなか面白かった。
本当の男らしさとは?アメリカの良心ケヴィン・コスナーが教えてくれる
本当の男らしさとは?あるいは性別問わず大黒柱の役割とは --- 自身が業を背負ってでも大切な人を守り生かし続けること。歳を重ねた今回もアメリカの良心を体現するように格好良いケヴィン・コスナーのそれと、自身の手を汚さないヤバすぎブランチ(レスリー・マンヴィル)が対比されているようで、印象的だった。一流のキャストが描く一級のサスペンス/スリラーそしてドラマ。見応え十分で手に汗握るし考えさせられる。 孫を想うダイアン・レイン & 妻を想う元保安官ケヴィン・コスナー = ブラックリッジ家 vs 支配的絶対権力女家長レスリー・マンヴィル & 『ボーダーライン Sicario』シリーズでは頼れるメガネだったジェフリー・ドノヴァン筆頭に忠実かつ邪悪な息子軍団 = ウィボーイ(Weboy→示唆的)家。こいつ等の前では常識や綺麗事、人間らしさや同情を買うなど通用しない!西部劇やアメリカの広大な大地を舞台にした映画を彷彿とさせるような音楽が、保安官も手を出せない田舎のその狂った家族と同じ場所に根付いた価値観や文化、表裏一体的象徴のようだった。 勝手に関連作『トム・アット・ザ・ファーム』
嫁からしたら、どっちのお義母さんでも地獄だと思う
老夫婦が孫を探して旅するロードムービー…と思って雄大な自然にウットリしてたら、あっという間に血で血を洗うバトル映画に急展開…。 ま、退屈はしないけど…。 巻き込まれたネイティブアメリカンの青年に同情…。 その青年以外、誰にも感情移入できない、全員ケンカ腰。笑 相手の立場を慮る事を誰もしないで「孫返せー!」「返さん!」一家総出で大戦争。 似たもの同士の喧嘩に見えた。 そもそも嫁ローナの本当の気持ちは? どっちの義母も嫌いなんじゃないのかな? そもそも大好きなら、再婚して出てかないだろう。 勤め先に出向いて来た事もベラベラしゃべらないだろう。 孫のジミーにとって、おばあちゃんに溺愛され甘やかされて暮らす事と、厳しく育てられる事と、どちらが幸せなのだろう…??? 孫の事を思っての行動というよりは、自身の意地をかけたババアの戦いなので、感情移入が難しいのかな。 どっちのおばあちゃんでも、のんびりは暮らせないことは確か。 ローナにとっては、これからが本当の地獄の始まりな気がする。
家族は多種多様
ダイアン・レインとケビン・コスナーが祖父母を演じることで この作品の格が一段上がったような気がします。 きれいな祖母とかっこいい祖父は観ていて羨ましいです。 作品は全く羨ましくない、重々しく胸が苦しくなる内容です。 明るいシーンがほとんどなく、全編が重苦しい雰囲気。 家族がテーマとなるストーリーですが、その家族は多種多様で、 何を信頼するか、何を共感するかで、家族そのものが変わってきます。 他の家族と違うかどうかは、自分ではわからないものですから。
重苦しい感が続く。西部劇調の復讐劇
元保安官が孫を取り戻す為に悪党一家を退治すると言うストーリーだが、全く爽快感はない。 最初からラストまで重苦しい空気が続く。 飽きる事はないが娯楽作かと言われるとかなり微妙。 亡き息子の妻、義理の娘が新しい旦那を見る目が無かった。と言う結論。 ケビンコスナーは若い時から損な役が多い。
「家族」とは何か?「環境が作る人間性」とは何か?
ケヴィン・コスナーとダイアン・レインの『マン・オブ・スティール』におけるケント夫妻に続き、夫婦役を演じたことで話題になった作品ではあるが、今作で描かれるのは、「家族」っていったい何なのかいうこと。親ではなくて、子供を主体として考えるべきということ。 環境によって、子供が犯罪に手を染めたり、大きいや小さいに限らず精神疾患をもってしまうことが問題視される中で、環境によって作られた屈折した人間性を描いた『アニマル・キングダム』のような映画や、それをより極端なかたちで誇張した『悪魔のいけにえ』もあったりする。 今作では、2世帯家族のひとり息子が落馬事故で亡くなってしまい、義理の娘ローナと孫ジミーだけが残ってしまったパターン。共に生活をして、ある程度の年齢になっていれば、そのまま生活を定着させることは、普通なことではあるが、その義理の娘が若い場合は、外に出てしまう場合もあるし、残りの人生もあるわけで、それを止めることもできない。 今回は、孫という存在がギリギリのところで関係性を繋ぎとめてはいるものの、最近では『おかしな子』の中でも描かれていた、いつ出ていってしまうかわからない不安というのが、再婚したことで、現実のものとなってしまう。 その再婚相手のドニーがいい人であれば、まだ救いがあったのに、どうやらDV男だし、子供にも平気で手をあげそうだという問題ありな人間性、しかも遠くにあるドニーの実家に行ってしまったと気づいたとき、ローナとジミーを救うために飛び出せるかどうかという境界線を描くのと同時に「ならば、その2人のためにどこまでできるの?」ということが常に問いかけられるものとなっている。 ドニーの実家に行って、そこが遠い場所であっても、良い環境であるのであれば、身を引くことも考えていたはずが、その実家は、どうやら『アニマル・キングダム』的構造の家族。つまり母親が絶対的な権力をもち、それに従う子供たちは、ある種のマインド・コントロールのように従うしかない状況で、時には犯罪までも犯してしまうが、それが家族のため、母のためだと錯覚してしまっている支配構造。 今作でジェフリー・ドノヴァンが演じるビルも、実は社交的であって、ある程度の人間性がそなわっているが、いざ母に命令されると従ってしまう。 ある一部分のモラルが崩壊しているのだ。 ニュースなどでよく「こんなことをするような人じゃなかった」というコメントがあるが、外から見えるモラルに対しては問題がなくても、見えない部分で、実は崩壊しているからこそ、サイコパスが生まれてしまったりもする。 環境が人間の性格を形成するといわれる中で、極端な事例ではあるし、誇張はされているものの、現代社会、特に保守的な地域や貧困層、紛争地帯などでは、決してフィクションとして処理できない問題であったりもする。 暴力的なドニーのルーツもそこにあり、このままでは孫も同じ道を辿ってしまうと感じたことから、ローナとジミーを連れ帰ろうとすることで、予想もつかない血みどろバトルに発展していく。 「自分の子供を大切に想っていない親はいない」というのは、偽善でしかないし、今作のように母が子に対する屈折した愛情も大切に想っていることには違いなく、「大切には想っていたらいいのか?」という問題にも直面する。 国や州にもよるが、裁判において「血の繋がり」が重視されることが多く、子供が育つ環境よりも、単に親だから、血縁者だからといって、法のもとに過酷な環境に置かれることも多いわけだが、需要なのは血縁どうこうではない。 シンプルに互いを想う心さえあれば、血縁に関係なく、それが「家族」になり得るということ。「家族」とは何なのかを様々な角度から、改めて見つめ直す物語でもあるのだ。 セレーナ・ゴメス主演の『恋するモンテカルロ』や『幸せのポートレート』などのロマコメイメージの強いトーマス・ベズーチャが、このテイストの作品を撮ったことで、新たな才能を観ることができた発見もあるし、次回の監督作であるMCUの『シークレット・インベージョン』もどう描くかが、より楽しみになった。
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