「「家族」とは何か?「環境が作る人間性」とは何か?」すべてが変わった日 バフィーさんの映画レビュー(感想・評価)
「家族」とは何か?「環境が作る人間性」とは何か?
ケヴィン・コスナーとダイアン・レインの『マン・オブ・スティール』におけるケント夫妻に続き、夫婦役を演じたことで話題になった作品ではあるが、今作で描かれるのは、「家族」っていったい何なのかいうこと。親ではなくて、子供を主体として考えるべきということ。
環境によって、子供が犯罪に手を染めたり、大きいや小さいに限らず精神疾患をもってしまうことが問題視される中で、環境によって作られた屈折した人間性を描いた『アニマル・キングダム』のような映画や、それをより極端なかたちで誇張した『悪魔のいけにえ』もあったりする。
今作では、2世帯家族のひとり息子が落馬事故で亡くなってしまい、義理の娘ローナと孫ジミーだけが残ってしまったパターン。共に生活をして、ある程度の年齢になっていれば、そのまま生活を定着させることは、普通なことではあるが、その義理の娘が若い場合は、外に出てしまう場合もあるし、残りの人生もあるわけで、それを止めることもできない。
今回は、孫という存在がギリギリのところで関係性を繋ぎとめてはいるものの、最近では『おかしな子』の中でも描かれていた、いつ出ていってしまうかわからない不安というのが、再婚したことで、現実のものとなってしまう。
その再婚相手のドニーがいい人であれば、まだ救いがあったのに、どうやらDV男だし、子供にも平気で手をあげそうだという問題ありな人間性、しかも遠くにあるドニーの実家に行ってしまったと気づいたとき、ローナとジミーを救うために飛び出せるかどうかという境界線を描くのと同時に「ならば、その2人のためにどこまでできるの?」ということが常に問いかけられるものとなっている。
ドニーの実家に行って、そこが遠い場所であっても、良い環境であるのであれば、身を引くことも考えていたはずが、その実家は、どうやら『アニマル・キングダム』的構造の家族。つまり母親が絶対的な権力をもち、それに従う子供たちは、ある種のマインド・コントロールのように従うしかない状況で、時には犯罪までも犯してしまうが、それが家族のため、母のためだと錯覚してしまっている支配構造。
今作でジェフリー・ドノヴァンが演じるビルも、実は社交的であって、ある程度の人間性がそなわっているが、いざ母に命令されると従ってしまう。
ある一部分のモラルが崩壊しているのだ。
ニュースなどでよく「こんなことをするような人じゃなかった」というコメントがあるが、外から見えるモラルに対しては問題がなくても、見えない部分で、実は崩壊しているからこそ、サイコパスが生まれてしまったりもする。
環境が人間の性格を形成するといわれる中で、極端な事例ではあるし、誇張はされているものの、現代社会、特に保守的な地域や貧困層、紛争地帯などでは、決してフィクションとして処理できない問題であったりもする。
暴力的なドニーのルーツもそこにあり、このままでは孫も同じ道を辿ってしまうと感じたことから、ローナとジミーを連れ帰ろうとすることで、予想もつかない血みどろバトルに発展していく。
「自分の子供を大切に想っていない親はいない」というのは、偽善でしかないし、今作のように母が子に対する屈折した愛情も大切に想っていることには違いなく、「大切には想っていたらいいのか?」という問題にも直面する。
国や州にもよるが、裁判において「血の繋がり」が重視されることが多く、子供が育つ環境よりも、単に親だから、血縁者だからといって、法のもとに過酷な環境に置かれることも多いわけだが、需要なのは血縁どうこうではない。
シンプルに互いを想う心さえあれば、血縁に関係なく、それが「家族」になり得るということ。「家族」とは何なのかを様々な角度から、改めて見つめ直す物語でもあるのだ。
セレーナ・ゴメス主演の『恋するモンテカルロ』や『幸せのポートレート』などのロマコメイメージの強いトーマス・ベズーチャが、このテイストの作品を撮ったことで、新たな才能を観ることができた発見もあるし、次回の監督作であるMCUの『シークレット・インベージョン』もどう描くかが、より楽しみになった。