「笑いと紙一重の狂気」アネット sankouさんの映画レビュー(感想・評価)
笑いと紙一重の狂気
レオス・カラックス監督の暴走的な愛の描写はミュージカルでこそ活きるのだと実感した。
ここから物語が始まるのだというワクワクするような冒頭のナンバーからは考えられない、あまりに挑発的で攻撃的な内容に度肝を抜かれる。
毒のある際どいネタで客を笑い死にさせるコメディアンのヘンリーと、彼曰く神聖なオペラの舞台で何度も死を迎えながら観客を魅了する歌姫アン。
これは二人の愛が燃え上がり、やがて壊れていく物語でもある。
「深く愛する二人」とあまりにもストレート過ぎる愛の表現を伝え合う二人。
悪く言えば中身のない愛情表現にも見えるが、それが後の二人の運命を暗示しているようでもある。
シンプルにお互いを尊重し合う仲だった二人だが、結婚生活が始まりアンが妊娠すると徐々に二人の関係に翳りが見えてくる。
夜遊びに興じるヘンリーへの不信感からか、アンは夢で彼が6人の女性から虐待を受けていたと告発される場面を見る。
一方ヘンリーも元々際どいネタで笑いを取るスタイルではあったが、妻を殺してしまったという笑えないジョークのせいで反感を買ってしまう。
この場面は圧巻だった。これは演じるアダム・ドライヴァーの上手さもあるが、観ている方もこれは事実なのではないかと勘ぐってしまう。
どんどん落ち目になっていく自分に対して、妻のアンは人気者であり続ける。それがヘンリーには堪らない。
やがて二人の間にアネットという女の子が誕生するが、どう見ても赤ん坊の姿は人形なのに妙な生々しさがあり、それが不気味であると共に神々しさを感じさせる。
そう、この映画は狂気と紙一重だが、とても荘厳な印象も与えるのだ。
ヘンリーはアンと産まれたばかりのアネットを連れて休暇に出るが、嵐の海でアンは帰らぬ人となってしまう。
酔った勢いで暴風吹き荒れる船上でヘンリーがアンと共にワルツを踊る場面は見所のひとつだが、アンは確かに事故で海に沈んでしまったものの、それはヘンリーに殺意がなかったという証明にはならない。
アンは亡霊となってヘンリーへの復讐を誓う。
アンが亡くなったその直後から、アネットは光に照らされると歌を歌うようになる。
ヘンリーはかつてアンの伴奏者で、彼女に恋い焦がれていた指揮者の男に声をかけ、アネットを歌う赤ん坊として売り出せないかと提案する。
結果的にアネットは見世物として大衆の人気を集めていく。
不思議とアネットの人気に比例してヘンリーも女性たちにモテるようになる。
この辺りに移ろいやすい人間の心が皮肉られているように感じた。
アメリカ人は特にスターと認めた者に対して熱狂的な歓声を送るが、一度期待を裏切ると手の平を返したように罵声を浴びせる。
それは赤ん坊のアネットに対してもだ。
アネットは観客の前で歌えなくなる。彼女は父親が人殺しであることを知っているからだ。
ヘンリーはアンだけでなく、指揮者の男も殺してしまう。彼が自分がアネットの父親だと名乗り出たからだ。
嫉妬心からヘンリーは自滅することになる。
アネットは大勢の観客の前でヘンリーの罪を暴く。
収監されたヘンリーの面会に訪れたアネットが、人形の姿から人間に変わる場面はとても印象的だった。
ヘンリーのアネットに対する愛情は本物だったのだろう。
しかしアネットはヘンリーに愛する者はいないと無情にも言い放つ。
どこでヘンリーは進む道を間違えてしまったのだろうか。
決して万人受けする内容ではないが、個人的にはこの映画の世界観はドンピシャに嵌まった。
しかしレオス・カラックスはどこまでも人を食ったような映画を作る。
冒頭ではこの映画の最中には呼吸することすら禁じるような文句を垂れる。
しかしエンドロールでは観客に向かって、感謝の言葉を役者たちに喋らせる。
見知らぬ人には近付かないように注意しながら、でも友達がいないなら見知らぬ人に声をかけてこの映画を宣伝するようにお願いする。
『ホーリーモーターズ』のラストも特徴的だったが、この映画のラストもそれに負けず劣らず個性的だ。