「脚本の技巧に唸る」ONODA 一万夜を越えて しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
脚本の技巧に唸る
観ながら「戦場のメリークリスマス(戦メリ)
」を思い出していた。
この映画は、出ている俳優こそ日本人だが、監督はフランス人であり、製作にはフランスほかドイツ、ベルギーなどの国名が並ぶ。
本作は「外国から見た視点」で描いている。その点が「戦メリ」に重なるのだ。
「戦メリ」もまた、カンヌを獲るために作られたし(実際に獲ったのは「楢山節考」だったが)、やはり外国資本で製作された。
この映画の主人公は小野田寛郎。太平洋戦争終結から29年間もフィリピンのジャングルに潜み、1人、戦争を続けていたことで知られる人物だ。
小野田は陸軍中野学校二俣分校(旧日本陸軍のゲリラ戦や破壊活動などをおこなう軍人を養成する学校)出身の情報将校だった。
当時、日本軍では「捕虜になるぐらいなら玉砕しろ」と教えていたが、その学校では「何があっても生き延びろ」と指導。彼の教官・谷口(イッセー尾形)は生徒たちに「お前たちに自決する権利はない」とまで言った。
そして谷口は生徒たちに、「自分の指揮官は自分だ」「常に自分で判断して行動しろ」と教え込んだ。
中野学校を出た小野田は、大戦末期のフィリピンに赴任した。米軍の上陸が目前に迫っていた。日本本土攻撃の足がかりとするためである。
小野田に課せられた任務は、遊撃戦をおこなって敵を撹乱し、やがて味方が合流するのを待つ、というものだった。
やがて米軍の上陸部隊が押し寄せ、日本軍は壊滅する。そして小野田は島の内陸部のジャングルに身を隠した。
それから29年。
なぜ小野田は、こんなにも長いあいだジャングルの中で生き延びたのか?生き延びられたのか?
それは、彼が中野学校で「生き延びろ」という教えを叩き込まれたからであろう。
そう、あの学校で教え込まれたことは、彼が生き延びる力となったのである。
だが、29年目に、ついに小野田は日本に帰ることになる。
日本から来た若い旅行者の鈴木(仲野太賀)がジャングルに潜む小野田を探し出し、「日本に帰りましょう」と説得を試みた。
鈴木は戦争がとっくに終わったことを、そして日本は平和になったことを、もちろん小野田に伝えた。
しかし、小野田は納得しない。命令が必要だと言うのだ。
鈴木は帰国して谷口を探し出し、再び彼とともにフィリピンに赴く。
そして谷口から武装解除の命令を聞いて、小野田はようやく銃を下ろすのだった。
谷口は中野学校で、小野田に「自分で判断しろ」と教えた。
小野田は、その教え通りにジャングルの中で工夫を重ね、サバイバルした。
だが、それは小野田にとっては、あくまでも「命令」だった。つまり、「自分で判断しろという命令」に従っていたに過ぎないのだ。
もし、彼が本当に「自分で判断」することができるのなら、最初の鈴木との対面で帰国を決断したはずだ。
「自分の指揮官は自分」のはずではなかったか?
だが小野田は、「戦争をやめる」という、さらに上位の命令を必要とした。
谷口の「必ず生き延びろ」、そして「自分で判断しろ」という教えがあったからこそ、小野田はジャングルの中で生き延びてこられたのだろう。
だが、一方で、小野田は命令に従い続けて、戦争を止めなかった。
これはどういうことか?
この点こそが、本作が作られた動機ではないか。
もちろん、1人の兵がジャングルの中で29年間も残って戦争を続けたという事実だけで、一本の映画を作れるほど特異なことである。
だが、小野田のケースを外国人の目で見たとき、さらに特異に写ったのは、生き延びたのは「生き延びろ」という命令があったからで、そして、「自分で判断しろ」と命令されて「自分で判断した」という点なのだ。
外国の目から見て、日本人における個人(小野田)と組織(軍の命令)という問題を、小野田寛郎という特殊なケースの上に描き出す、これが本作のテーマなのである。
このような本作のテーマ上、極めて重要なのは教官の谷口である。
小野田をジャングルの中で29年間ものあいだ戦争を続けさせ、そして、最後に戦争を止めさせた存在。つまり、この物語の起点でもあり、終点でもある。
そして後述するが、この映画は、小野田と対になる存在として谷口を置いている。
その役に本作はイッセー尾形を配した。このキャストは絶妙だ。
中野学校の教官として、穏やかに話しながらも小野田に絡み、追い詰める酒席のシーンの凄みは出色である。イッセー尾形の登場するシークエンスは限られるが、彼の演技は観る者に強烈な印象を残す。
戦争中の谷口は、当時の国家の価値観を体現するような存在である。特に、教官という立場ゆえ、彼が教える中野学校の生徒たちにとっては、とりわけそうだったろう。
一方、戦後の谷口は、自分を探し当てて訪ねてきた鈴木を相手に、過去の身分を隠そうとしていた。田舎町の古本屋という、どう見ても世間とは距離を置いた小人を演じようとしていた。
そう、小野田に流れた29年間という歳月は、谷口にも流れたのである。
そして、その29年間で谷口は変わったが、小野田は変わらなかった。
だが谷口の変化は望んだものだったのだろうか?こうまで変わった彼の、ほんとうの姿はどちらなのか?
一方の小野田は「命令」があったから変わらなかった。
この対比が示す残酷さが、深く考えさせられる。
ラスト近くになると、長回しで小野田の顔を捉えるクローズアップが多用される。
この映画は長い。長いが、その長尺で積み重ねてきたものが、このクローズアップで生きる。
小野田の顔には、29年間という年月が確かに刻まれている。そのことを表すために、小野田を演じる俳優は交代している(青年期の遠藤雄弥から壮年期の津田寛治)。
一方、「変わった」谷口演じるイッセー尾形は変わらない。これは逆に谷口の変化を際立たせていて、この辺りも実に巧い。
小野田がフィリピンのジャングルの中をさまよっているあいだも、谷口は、小野田の中にずっといた。
つまり、谷口はスクリーンに姿が見えなくても、本作の全編を通じて存在していたのだ。
そして、小野田=個人、変わらないもので、これに対して谷口=組織(国家)、変わるもの、と、この2人を対置させて描いている。
この脚本の技巧に唸る。
谷口の変化とは、日本の変化だ。
小野田の帰国は1974年。日本は戦後の高度成長期による繁栄を謳歌していた時代である。
日本は変わった。その国家の命令に、小野田は29年間も変わらず従い続けたのだ。
その過ごした時間はまったく異なるが、小野田も谷口も、国によって人生を歪められた点では変わりはない。
本作の、「個人と組織」というテーマがずしりと響く。