「有事二備ヘ「ゆであずき」ヲ備蓄シテヲリマス」ONODA 一万夜を越えて カールⅢ世さんの映画レビュー(感想・評価)
有事二備ヘ「ゆであずき」ヲ備蓄シテヲリマス
最後の皇国の兵士、小野田寛郎少尉のルバング島のジャングルでの30年間を中心に描いた映画。
ウキペディアの記述と映画の内容で異なると思われたのは、①島田伍長が眉間を撃ち抜かれた場面での相手は民間人ではなく、フィリピン警察隊。②小塚金七一等兵が川で殺害された場面も相手は民間人ではなく、フィリピン警察隊の銃撃。映画の太いロープに繋がれたボーガンのようなごつい弓矢で2度串刺しにされるシーンはかなりむごかった。これに対し、小野田が小塚のライフルとピストルで対抗し、逃れたというのはウキペディアどおりだった。
30年間に30人の民間人や軍人、警察官を殺したとある。しかし、ほとんどは民間人であり、略奪の際に反撃されたために殺害したものと思われる。小野田自身、民間人の恨みを買っていることには非常に敏感になり、報復を畏れていた。日本政府はフィリピン政府に対して、当時のお金で三億円の賠償金を払っている。
フランス人の監督は島田、小塚の死の場面を描くに当たって、敢えて民間人に対する略奪の報いとして描きたかったのかもしれない。
小野田が1974年に日本に帰ってこられたのは鈴木紀夫(役:仲野太賀)の行動の賜物。
赤津二等兵が投降した1950年に残り3人の生存を知った日本政府。
その後、何回かは帰還捜索隊を派遣している。しかし、1954年に島田、1972年に小塚がフィリピン警察官に射殺される。
鈴木紀夫は国とは関係なく自らの意思で行動する冒険家だった。
ゆであずき。
小さい頃、かき氷に乗せて食べさせて貰った。我が家では贅沢品だったなぁ。
小塚金七一等兵の遺族を思うと胸が痛む。グァム島の横井さんも帰って来たのに。
あと、3年早かったらと悔やんでも悔やみ切れない。
海岸での小野田と小塚のフンドシ姿。小野田が幻を見る海岸のシーン。20年近く、二人きりで過ごしてきたわけだ。ラジオの競馬放送を聞きながら、二人で賭けもして暇潰しをしていた。
皇国の兵士が任務中に賭博行為をするのはセーフ?
何度も捜索隊が赴いており、父親や兄や家族の姿も見たにもかかわらず、アメリカによる傀儡政権の罠だとして、投降しなかった二人。二人とも、自分から投降したいとは言い出せなかったのではないかと思う。それだけ、バティの仲になっていたんだと思った。戦争はとっくに終わっていることを知っていながら・・・・
寛郎の兄二人は東大の陸軍医学校と陸軍経理学校に進み、卒業時点ですでにそれぞれ中佐、大尉となっている。弟は陸軍士官学校航空部隊将校で少尉になっていた。寛郎だけが中学(現高校)卒業後、貿易会社に就職している。県会議員の父親とは昔から不仲であったのは、兄弟となにかと比べられて、嫌な思い出しかなかったからではないだろうか。昭和42年12月に二十歳で徴収され、二等兵から始めることになる。幹部候補試験、士官学校(軍曹)を経て、中野学校二俣分校(ゲリラ戦に特化した秘密戦専門学校)で2ヶ月間の訓練をうけて、少尉としてフィリピンに派遣されている。他の兄弟が軍医や職業軍人を志願したのに比べ、寛郎は元々、そんなに気の強い性格ではなかったのではないかと思った。しかし、兄弟と違い、二等兵から昇級していった寛郎は負けず嫌いで、頑固者。なんとか武功をあげたかったのかもしれない。引くに引けなくなって、29年。
日本とフィリピン政府の間での調整。 なんとか小野田の格好(体裁)がつく形で旧日本兵の救出を行うための一連の儀式はどうしても必要だったと思う。
ひとりだけでジャングルに入って来た民間人の青年に元上官の命令があればそれに応じるとした交換条件を出す対応もなかなかしたたかだ。
小野田寛郎が墓場まで持っていった事実は沢山あると思う。それが小野田の美学であり、生き方だから。上官の命令だけでは説明できないものがたくさんあるはずである。
キャスト。
字幕の最後には故吉武美知子氏に捧ぐと。日本人プロデューサーがフランス人監督にキャストを推薦した。完成、公開を待たないで2019年に亡くなっている。残念。
小野田寛郎(遠藤雄弥、津田寛治)
小塚金七(松浦祐也、千葉哲也)
島田庄一(カトウシンスケ)
赤津勇一(井之脇海)
谷口義美(イッセー尾形)
他
いずれも素晴らしいキャストだった。