MINAMATA ミナマタのレビュー・感想・評価
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ジョニー・デップの名演に拍手
終始、気持ちをヒリヒリさせながらの鑑賞となった。被害者も日本人、加害者も日本人という図式は、同じ日本人として耐え難いものがある。先の大戦と同じ図式だからかもしれない。 命や健康は他に代えられない。金持ちは大金を払って自分の健康を買う。その大金は貧乏人が健康を損なってまで無理して働いた成果である。この搾取の構図だけでも納得出来ないのに、その上健康まで害されるのは許しがたい。 しかしチッソで働く人々は、そのようには感じていなかったらしい。かつてお国のために戦ったように、会社のために体を張る。ひとえに会社が給料を払ってくれるからであり、会社の敵は自分の敵でもあると思っていたようだ。小さなナショナリズムである。相手が外国人ならなおさら容赦しない。高名なカメラマンだろうが関係ない。殴って倒して踏みつけて唾を吐きかける。当時のチッソの社員たちはいまどうしているのだろうか。 テレビでタレントが急な崖を登ったり高い場所の狭い道を歩いたりするのを見るたびに、その映像を撮影しているカメラマンが凄いと思う。どうしてあんな状況で平気で撮影できるのか。聞くところによると、テレビのカメラマンはカメラを構えている限り、恐怖を感じないそうだ。もちろん誇張もあるとは思う。しかし真実でもあるに違いない。レンズとファインダーがひとつのベールのようになって、あたかもテレビを見ているみたいな感覚で撮影しているのだろう。 本作品の主人公ユージン・スミスもまた、ファインダーを覗いている間は恐怖を感じなかったのかもしれない。ジョニー・デップが演じたどのシーンにも、ユージンが怯えている姿はなかった。 カメラマンは瞬間を切り取るが、同時に時代を切り取っている。魂を傷つけながらシャッターを押すとユージンは言うが、その真意はよくわからない。ただ小説家も似たようなことを言う。魂を削りながら小説を書く。詩人もそうだろう。松尾芭蕉の俳句にも、俳聖の魂を感じる句がある。このサイトにレビューを書かれている諸氏も、本音を書きつけようとすれば多かれ少なかれ、魂を削っているのは間違いない。ユージンの言う意味がそういうことなら理解できる。 かつて原発を誘致した敦賀市長の高木孝一が「50年後、100年後に生まれた子供が片輪になるかもしれないが、原発は金になるんです」と言い放ったが、チッソの経営者も同じ考えだったのだろう。雇用が生まれて人が増え、商店も栄えるし地元が潤う、いいことばかりじゃないかという主張もそっくりだ。最初から原発もチッソの工場も作らなければ、住民は安全に暮らせていたということに思いが及ばないのだろう。原発もチッソの工場も分断を生み、対立を生んだ。沖縄の基地ともそっくりである。 映画は、同じ構図が世界各地で起きていることを紹介する。一部の人間が儲けるために危険な事業を始める。事故が起きて被害者が出る。利益を優先すれば安全管理が二の次になり、必然的に事故が起きる。郵政を民営化したら郵便物の遅配や誤配、果ては投棄さえ起きてしまった。かんぽ生命は営業成績を上げるために年寄りを騙して契約させている。ノルマを課された局員は、郵便局の制服で安心させて、ひとりから重複していくつも契約させる。テレビCMでは顧客優先だが、実態は利益最優先である。小泉改革の成果は年寄りのなけなしの財を奪うことだったのだ。 人間は結局、自分の利益だけを追求する原始的な生物なのだろう。どれだけ文明が発達して世の中が便利になっても、追い求めるのは自分の利益だ。その欲求が戦争をはじめ、公害を生み出す。そして有権者は自分と同じように利益を追求する同類の政治家に投票する。誰も反省などしないのだ。 2013年の五輪誘致演説で総理大臣のアベシンゾウは、福島のことを「アンダーコントロール」と得意げに言い、その翌月には水俣病について「日本は水銀による被害を克服した」と言った。被害者のことを微塵も考えない傲慢な発言である。しかしアベはその後の国政選挙で勝ち続けた。 他人の痛みを共有する想像力、自分の利益が削られても受け入れる寛容、そういったものが世界から失われているのだ。ジョン・レノンがどれだけイマジン!と歌っても、想像力のない人に他人の痛みは想像できない。 アル中のろくでなしだったと思われるユージンだが、チッソの社員に背骨を折られ、片目を失明させられても、訴えることはしなかった。自分に残された時間があまりないことを知っていたに違いない。裁判に費やす時間などないのだ。彼は写真に残りの人生のすべてを賭ける。想像力と寛容を兼ね備えた、尊敬すべき素晴らしいカメラマンだったのだ。ジョニー・デップの名演に拍手。
水俣病患者の姿をリアルに描写
水俣病は学校の授業で習った程度のことしか知らないので、アメリカ人写真家が撮影に来ていたなんてことはしらなかったし、写真集を出していたことも知らなかった。 ジーンが米軍兵士として沖縄に来ていたことも設定としては重要だった。トラウマに残る戦闘を経験し二度と行きたくないと思っていた日本を訪れる決意。そして地元の人達と交流することで警戒心がなくなっていく過程がいい。水俣病患者の姿もとてもリアル。今でも苦しんでいる人がいる事実に衝撃を受ける。ジーンが突き動かされたことに共感してしまう。 重要なあの写真の撮影シーンはとても強烈なのに、それでもなお美しいと感じた。名シーンだ。ジョニー・デップはこういうやさぐれてて渋い役が似合うようになった。 水俣病のドキュメンタリーではないから、経緯や裁判なんかの描写が多くはないとは思っていたが、それでも後半駆け足だった印象は拭えない。でもそれをやってしまうとかなりの上映時間になるしバランス難しいね。 アイリーン役の美波がとてもよかった。これから他の映画からオファーが来るんだろう。他の映画での演技も楽しみだ。
撮る側の覚悟。
まず、この作品をプロデュースし、主演した ジョニー・デップに敬意を表します。 テーマが重い作品だから観るかどうか、 とても悩みました、 でも作品を観てみて、とてもいい映画で観て良かったと 心から思える作品でした。 ジョニー・デップが素晴らしい演技で、今までの彼の 作品を超えるものでした。 日本人キャストも重厚な演技で皆さん、とても良かった。 その中でも、とても気になったのはユージーンに カメラを渡された青年です、すごくいいアクセントに なっていて、とても惹かれました。 タイトルが「水俣」ではなく「MINAMATA」である意味。 そして作品の最後で撮られた写真の残酷さと美しさに震える。
事実を見ないふりしてはいけない。目を逸らしちゃいけない。
久々に魂が震える映画に出会えた。 . 自分は水俣病の被害があった新潟県の出身なので、小学生のころから水俣病については学ぶ機会が多かったし、身近でおきた公害として知っているつもりだった。 しかしこの映画をみて、水俣病について何も知らなかったんだなと思い知らされた。 . ユージンというカメラマンが実在したこと、世界に大きな衝撃を与えた一枚の写真があったこと、 これらについて何も知らなかった。 . 勉強する機会はいくらでもあったのに、なんでもっと知ろうとしなかったのだろう。いや真実に目を向けるのが怖かったのかもしれない。 劇中で、ユージンが、「写真は撮られる者だけでなく、撮る者の魂すら奪う。」と言う。 これは写真に限らないのではないかと個人的には思う。 一度、目を背けたくなるような事実を知ってしまったら、その事実が頭から離れなくなってしまう、事実を知った人の思考を支配してしまう。 これは写真が魂を奪うことと似ているのではないか。 . 新たな災害、コロナなど、新たな問題が積み上がっていく日々だから、どうしても水俣病のことは人々の記憶から薄れていってしまうこともあるだろう。 そんな時、ふと見た映画が、過去にあった忘れてはいけないことを思い出させてくれる。 これが映画のもつ役割なんじゃないかと思う。
「やりやがった」
最後の写真が凄まじくて。
ビル・ナイが「あいつ、やりやがった」って、
確かになぜだか涙が溢れてしまって。
良い映画でした。
良い時間を過ごせました。
そして、
坂本龍一の音楽もとても良かったです!
外国人の目を通して見た水俣
2021年6月、水俣市が先行上映会の後援を拒否したというニュースを見て、なんとも言い難い出来になっているのだろうなと勘ぐっていましたが、水俣市が後援できなかったのも致し方ないのかなと思います。 ユージン・スミスさんは現在YouTubeにもあがっているANNのテレメンタリーでも紹介されていますが、ジョニーが演じた彼と少し異なっていて違和感を感じました。写真に写るユージンさんはもっと笑顔で、チャーミングであり、終始ニヒルで不機嫌なジョニーとの差が気になりました。 公害病によって意思表示すらできなくなった少女と、その少女の若さゆえの複雑な感情をカメラによって切り出そうとしたユージン。でもそれができず苦悩し涙ながらに語るユージンのテープがとても印象に残っていました。本作に出てくる「カメラは撮る者の魂を奪う」というセリフとまさにリンクして、彼の人物像をより深めることができたことが最大の収穫でした。 監督も含め、外国人から見た「MINAMATA」が描かれているという印象でした。個人的には、真田広之や浅野忠信が演じたキャラクターをもっと掘り下げて描いてほしかったですが、この映画を入口にして世界中の人々が公害について意識をむけることになってほしい、それができる映画であると感じました。エンドロールで出てきた様々な公害問題を、私も調べてみようと思います。
水俣病を題材にした作品というよりユージン・スミスの自伝映画
実際の映像や写真を交えたドキュメンタリー風(ドキュメンタリーではなく脚色した部分が多い)で水俣病の酷さや今も残る問題点がリアルに表現されていて心に響く良作だが、あくまでもユージン・スミスの自伝映画って感じであまり水俣病の部分は掘り下げて描かれていなかった印象。音楽が坂本龍一っぽいと思ったらエンドロールに坂本龍一の名前が。サントラもチェックしてみよう。しかしジョニー・デップもあんな渋い役どころを演じれるようになったんか。と思ったらもう60歳近いから、渋い役を演じれる年齢になったってことか
美しい映画
どう考えても重い内容だと思ったので観るのに勇気がいった。こういう社会派の映画は、なぜ娯楽で深刻な気持ちにならなければならないのか…、とひとしきり葛藤してから観ることになる。しかしこの映画は大変な名作である。観て良かった。
学校の社会の教科書の「公害病」のページは開くのも嫌だった。白黒の写真が悲惨さをより際立たせており、とにかく怖いイメージで…。しかしそれらの写真が有名な写真家である外国人の手によるものだとははじめて知った。
この映画は単なるノンフィクションではなく、ストーリーもドラマチックで面白い。主人公の外国人カメラマン(ユージン・スミス)は、かつては名声をはせていたが、今は借金まみれのドランカーにおちぶれている。ありがちな設定(パッと思いつくのだと「バードマン」に似てる…)なので少し事実を誇張しているところもあるのかな。天才肌だけど家庭を顧みず、常識や人の気持ちを無視する、でも実は人情味に厚い…、というのもステレオタイプではあるけども、演技がばつぐんに良いので気にならない。
映像も美しい。悲惨な映像が多かったらしんどいだろうな、と思ったが、高度経済成長期のころのひなびた寒村(といったら失礼なのか?)の雰囲気、光や水面、空気感が非常に美しいと思った。写真をテーマにした映画だけに、映像美にはこだわったのだろうか。
美しい、といえば、今まで水俣病の写真は怖い、悲惨、というイメージが強かったが、「撮る」視点からとらえてみると、「美しい」という気持ちで撮ったのだと気づいた。
あの有名な写真、「入浴する智子と母」を撮るシーンがこの映画のクライマックスだが、今更ながら、「あっ」と気づいた。この構図は、ミケランジェロの「ピエタ」そっくりだ。母親の聖母のような表情で気づいた。妊娠中に摂取した有機水銀は胎児が吸収することで、母体を守る。水俣病の娘はまるで人類の罪を代わりに引き受けて死んだキリストにも重なって見える。
ところで、テレビや新聞がやたら政府を批判ばかりしていることに辟易とすることが多いのだが、過去にこうした公害事件があったことを考えれば、今のメディアが基本姿勢として政府を批判したがるのは無理からぬことなのかな…、などとも思った(もちろん批判にも質があり、批判のための批判であってはならないが)。逆に今の若年層は政府を信頼しすぎなような気もする。
チッソ社長の「ppm」の論理は面白かった。
ppmとは百万分の一の濃度のことで、これくらい薄い濃度だったらその辺のもの(コーラの中)にも含まれているだろうし、それはゼロとみなしていいのだ。また、ごく一部の人間に水俣病が発症していても、それは少ないがゆえにppm、つまりゼロとみなしていいのだ。チッソは肥料をはじめ多くの人間に役立つ化学製品を作り出しており、この地域の雇用も生み出している。わずかな病人のために工場を止めれば、それらを失うことになる。
そのような話だった。もちろんこれは欺瞞である。ユージンが来日したころのチッソは浄化装置を導入した後だから、そのときの廃液には確かに有機水銀は含まれていなかったかもしれないが、それ以前に垂れ流した分がチャラになることはないし、仮に百万人に1人というわずかな割合で水俣病が発症したとしても、「因果関係がはっきりしている」のであれば、それは確実にチッソの過失であり、ゼロということにはならないはずだ。後半の話はいわゆる「トロッコ問題」に見せかけているが、これも欺瞞だ。
「ppm」の論理が面白い、と感じたのは、この話は最近の環境汚染問題を想起させるからだ。この映画がそこまで狙ったのか、単なる偶然かは分からない。
まず1つ目は、福島の原発処理水(トリチウム水)問題である。トリチウム水は安全なレベルまで十分薄めれば問題ない、ということになっていて(そもそもトリチウムは体内に入ってもすみやかに排出される、とされている)、実際に世界中の原発ではそのようにしている。しかし、どこまで薄めても放射性物質である、という理由でそれを危険視する見方がある。
2つ目は、子宮頸がんワクチンによる重篤な副作用の可能性についてである。重篤な副作用とは、手足のしびれ、記憶障害などで、これが発生する確率は一万分のいくつか(あるいはそれ以下)という程度で、今のところ因果関係ははっきりしていない。統計的にはそういったまれに発生する重篤な副作用は、ワクチンのせいとはいえない、つまりゼロとみなせる、ということになる。それよりはワクチンによって助かる命の方がはるかに多いので、ワクチンは打つべきだ、というのが今の流れである。
こういった科学的な判断が必要なことについては、感情論や印象で結論を出すのではなく、科学的な根拠に基づいて議論をすべきだと考えているが、この映画から、客観的には無理筋なような話でも、当事者や被害者の視点に立ってみなければ分からないことがあるのでは、ということを考えさせられた。
君が神様に愛されて、早く願いが叶えられますように。
三年現地に住んで、被害者を撮り続けたユージン・スミス。ユージンから見たミナマタの現実。 明らかに日本じゃないロケ地(セルビアとモンテネグロらしい)や漁師たちの振舞いに抱く違和感は、日本人として当然あるのだが、待てよ、これを日本のどこかで撮影しようとしても横槍が入ったか?と勘ぐってしまう。 定期出演しているラジオ番組での町山智浩氏の解説(YouTubeにもあがってます)によると、現実はこの映画よりもすごかったそうだ。ストーリーとしてよくできているし、見せ場(当人にとったら災難だが)もある。それらは、脚色かと思ったら結構現実に起きたものらしい。ユージン自身も、実際の人物のほうが破天荒だったみたい(ユージンとアイリーンの関係もちょっと美化されているようだがそれはいいでしょう)。そして、チッソ社長の「彼らはppmに過ぎない。社会にとっては無に等しい」という本音が漏れた暴言には、さすがの飲んだくれも怒りが湧いたのだろう。そのパッションが被害者たちにも届いた。彼らの協力なしに、当時の水俣で写真を撮ることなんてできないだろうなあ。そして、「ピエタ」に擬された母子の入浴写真が訴えるものが、キリスト教圏の人々には強烈だったことと思う。 僕自身幼いとき、TVで水俣関連の報道はあった。それは大人の世界の話で、子供には知らないほうがいい話題に感じていた。今では、こんな企業活動はあり得ない、と、思うかもしれないが、なんのことはない、フクシマだって似た体質が生んだ人災だ。それを、他人事と思わずに、自分は何もしていないと悩む前に、ただ知る行為としてこういう映画を観る意義は大きい。たとえ虚実混同されてると言え、それを咀嚼して身に蓄えるのは自分自身だ。
あまり水俣について知らなかったので…涙が止まらなかった
写真を見たことはあったが、実際に苦しんでいた人たちの映像を見るとかわいそうで、子供がいる身としては涙が止まらなくなってしまう。 いい話だった。 ジョニーデップもこれで復活か?って思ったら、DV裁判で負けて、興行的に成功しないと踏んだ配給元が劇場公開を渋っているとか。もったいない。 水俣については、公害病の一つとして学校で軽く習っただけだが、学校の授業でこの映画を見せれば子供たちの心に響くのではないかと思った。
フォトジャーナリズムと公害環境問題
1971年の熊本、まだSNSなどがない時代のフォトジャーナリズムの様子を知ることができ、真のジャーナリズムの意義、「一枚の写真で1000の言葉を伝えられる」というフォトジーナリストという職業の尊さも感じ取ることができた。 エンドクレジットではまだ賠償を果たしていないチッソ株式会社と日本政府を批判し、 エンドロールでは資本主義がもたらした弊害、世界中の公害・環境問題が写真とともに映し出される。 企業や組織が豊かさや便利さを追求すると同時に生み出した公害病や環境問題について、私たちは今以上に意識し行動を変えていく必要がある。 発展や利益を優先し個を抑制する社会や企業の隠蔽はコロナ禍によって色濃く炙り出された。劇中のチッソ(株)の社長とユージンの取引は今もそこらじゅうで行われていて金に目が眩み真実を伝えない人たちも一定数いるのだろう。 真実を伝えようとする者が消され、強いものが弱いものを虐める社会が今もなお続いていてまさにタイムリーな作品である。 鉄壁の日本の俳優陣はさすが、ユージンと日本人達との架け橋となったアイリーン役MINAMIも重要な役どころで印象に残った。
美しさとは、あるがまま
構図、光、色合、同じ日本の風土も外国人が撮るとこうも違うものかと思う。(実はロケ地はセルビアとモンテネグロらしく妙に納得) 後半はとてもシンプルで単調な音楽が人々の感情のせめぎあいを沸騰させて心にこの世のリアルを突きつけてくる。
國村隼で満点
日本人ならみんな知っている水俣病ですが、水銀と生体濃縮というキーワード以外は知らないのではないでしょうか。作品はユージン・スミス自体が中心なので『事件』自体を詳しく描いているわけではありませんが、外国のカメラマンがからんでいるとは知りませんでした。これだけでも、十分見る価値があります。 日本で撮影されておらず、水俣市での上映会に水俣市が協賛していないなど、政治的な臭いがしなくもありませんが、全く『反日的』ではありません。最後まで見ればわかります。念のため。 良く言われている通り、住宅の外見が日本らしくない点と子役がおそらく日系ハーフのようで芋臭くない(マジ泣きして可愛いです。)点以外は、昭和の日本の再現度は高いです。謎な日本語や、不自然なお辞儀や、中華風の無いそうはありません。衣装も知っている範囲では昭和らしく、色調もあっていると思われます。実際に撮影された写真に合わせて映画を撮っているからだと思います。これだけでも、結構大変だったのではないでしょうか。 ジョニーデップが普通に演技がうまくてびっくりです。変な人をより変に演じることが多いですが、普通の人に見えます。当のスミスはとっても変人のジャンキーらしいのと反対です。 最初の方で、壁にセロニアス・モンクの写真が貼ってあり、モンクのピアノソロが流れます。どうやら、スミスは1950年代はジャズメンの写真を撮っていたようです。黒人を撮るのと同様にコントラストの強い白黒写真で、水俣の人を撮影しているので、非常に印象深い写真になっています。確かに写真の力で世界の関心を集めることが出来たのだと思います。 日本側は、浅野忠信・真田広之・國村隼(熊本県人!)とよく外国映画に出ている人たちです。完全に日本映画での日本人役と遜色ありません。とくに、國村隼の表情での演技が素晴らしかったです。これで満点をあげたいです。真田広之と國村が直接対決するのですが、血みどろの戦いはありませんでした。 音楽は坂本龍一ですが、彼の映画音楽のなかで一番好きかも知れません。印象的でちょっと謎なテーマフレーズとかはなく、それがむしろ印象的です。 日本映画だと『感動の』『涙が止まりません』とかになるところを、おさえて、しっかりした作品で僕は好きです。激しい展開や強いカタルシスはないので、万人向けではありませんが。日本の映画会社が、日本で撮影し、このクオリティーで作れなかったのが残念でなりません。もちろん、お金があっても作れないと思いますが。
もう一度“公害”という人害を考える
観る前は「何故今、水俣映画なんだ?」という気持ちが強かったし、更にアメリカ製作の映画なので、ひょっとするとトンデモ映画なのかも知れないという危惧もありましたが、観て様々な事を考えさせられました。 まず、私が“今更公害映画か…”と頭に過った事への自問自答が自分の中で湧きあがりました。 自分の中で何も解決していない問題なのに、勝手に自分の中で風化していたことに対する驚きと、私は昭和30年生まれで、更に公害の街尼崎に50年以上住んでいて、生まれてから中学生位まではずっと公害がテレビニュースや新聞のトップ記事であり、今のコロナなどより遥かに長期間社会の最大の問題であった筈なのに、いつの間にやら関心が薄れたことへの後ろめたさが呼び起された様な気がしました。 という事で本作を観ながら、もう一度“公害”とは?を考え直さないと行けないという強迫観念の様なものを感じさせてくれました。 で、まずいつもの様にウィキペディアでの意味を調べると、 「経済合理性の追求を目的とした社会・経済活動によって、環境が破壊されることにより生じる社会的災害である」とあります。 文字通り公(おおやけ)の災害なのです。なので、この映画を観ている観客の大半は、映画の被害者側よりも加害者側に近い存在であることを自認する必要にがあるのです。 それは、現在社会に生きている限り(生まれた限り)それからは逃れらないのですよ。生まれた時から背負わせられた十字架と言っても良いでしょう。 何故なら、どんなに悪いことだと分かっていても、被害者以外の普通に今の社会生活の恩恵を受けている限りはあのチッソ会社の社長と同じ側にいるという事になってしまいます。そういう罪の潜在意識が働くからこその防衛手段として風化させてしまっているのだと思います。 チッソ会社の社長のいう“ppm”こそが、国民の潜在意識なのだと思います。未来の環境破壊や自分の知らないところでの百万分の一の被害など知らぬふりをしておけば、今の便利で快適な生活が享受出来るのですからね。 でも、そんなに未来でなく本気で考えなければならない時期が迫っているからこそ、今映画にしておきたかったのかも知れません。 それともう一つ、恥ずかしながら私はユージン・スミスという写真家の存在を知らなかったのですが、上記した唯一被害者側に寄り添う事が出来る存在として、報道機関というかメディアがあり、本作のユージン・スミスの役割は見ていて感動させられました。 そして、その精神は今のメディアから完全に失われたものであることを再認識させられました。 彼の報道写真が多くの人の心を打つのは、そこに芸術以上の真実が写し出されるからであり、だからこそたった1枚の写真で社会を変えられる力があった訳で、逆に真実から目を逸らした今のメディアに一体何の力があると言うのか…、メディア自体が一つの公害になり下がってしまった現状を見るに、我々(人類)も公害の一要因でしかないのかも知れないという厳しくも情けない結論しか出せなくなってしまう。 正直、明るい未来を感じさせてくれる作品ではないが、一部の(優秀な)人間に少しでも危機感を持たせることが出来たらと願っている。 我々庶民が出来る事は、絶えず関心を持つ事のみなのですが… 余談 最近ユーチューブばかり見ていて、その中でもピンクヘアーのJK(らしき)へライザー総統という、悪態と煽りまくりで最後の締めだけは至極真っ当な常識論という、口悪女子の短時間物申す系動画をよく見るのだが、そのへライザー口調でこの映画を紹介すると、 「おい、この映画を観て泣いたり感動したりしているそこのお前、勘違いするなよ!!、お前は絶対に被害者側の人間などではないのだからな。高度経済成長期に生きたお前の親父世代がいるからお前の今の生活があるんだよ。だからお前が涙を流してやらないといけないのは、あの公害会社の社長の立場の方なんだからな。それで今の豊かさがあるのであって、この映画1本観て被害者に同情したってなぁ~~んにもならないのだよ。私を含めて訳も分からないユーチューバーで大儲けしている人間は、自分が何をして社会に役立っているかなんて考えたことないだろ。薄っぺらい同情している暇があったら、これからどんな社会になったら良いのかもっと考えろ。ってことぉ~~~」 ってなことを言うのかな(爆)へライザーちゃんにもこの映画、観て欲しいよ。
家族で見れて良かった
日米限らず合作映画になると大体でてくるお決まりの俳優人に、ちょっと飽き飽きしつつ演じ分けはさすがとしかいえない。加瀬亮さんが特に童顔にも年相応にも見える変幻自在がすごい。今回は病と戦いながらも怒りと悲しみを抱えた表情が素晴らしく引き込まれました。 ユージンを通して見えてくる町村の閉塞感、重苦しい現状の中にも垣間見える水俣に暮らす家族の絆が優しく日常の断片がカメラを通して伝わってきました。だからこそなのか彼は現実逃避をしながら自分の不甲斐なさを抱えてあてどなくウロウロして写真を撮る。導かれた滞在と仕事だったけど、それが信念に変わるときの目つきと周りに及ぼされた影響が秩序に表現されていて自然と涙が流れてきました。 忘れてはいけない過去と現実を目に焼き付けられました。音楽の演出がもたらす相乗効果が良くてもう一度聞きたいなぁと思っていたら、坂本龍一さんだったんですね。その音楽、脚本、演者が素晴らしく久しぶりにいい映画を見たという感想です。それとは別に主人公のラブ要素はどうしてもいれなければいけないんですかなね?
理不尽には闘うべき
私が水俣病を深く知ったのは中一の時、友人が夏休みの自由研究に取り上げていた痛ましい公害病…
50年以上前の高度成長期の日本において、熊本と鹿児島の県境にある不知火海に起こった公害病…当時の映像も組み込まれておりリアルに怒りと哀しみが胸を打ちます。
真実を収めるphotoには偽りは全くない
被写体の瞳が全てを物語る
撮る側も精神を持っていかれる
現像時にさえもphotoに自身の想いを注入する
ラストの母娘の生命力のあるphotoに、水俣病の現実と人間の愚かさと親の愛情が溢れていた…
ライフ誌に掲載された命を懸けた一枚のphotoは水俣病訴訟を動かす…
ユージン スミスさんに(外国の世論に弱い日本において)どれだけの勇気を貰った事でしょう…
「勇気を貰う」
理不尽な思いをしたら声に出し相談し仲間を作り勇気を貰って立ち向かう私でありたい。
写真は言葉より多くを語る、新たな戦争映画の形
学校の教材上で軽く知識を入れたほどの私自身が改めて、過去の話ではなく今も水俣病患者・親族とチッソや政府相手に戦争し続けている事実が衝撃的でした。 ホラーより史実の事件の方がやはり何倍も恐ろしい。だからこそ観て知って良かった。 ジョニーデップが製作に携わり、紛い物ではない日本人で固めたキャスト、坂本龍一さんの音楽の旋律は情緒的で染み入った。 特にチッソ社長役の國村隼さんの奥深き目の演技は素晴らしかったです。 しかし様々な公害問題を映し出すエンドロールに、中国だけ除外しているのは納得できない。 それに日本人キャストは見慣れた顔ばかりで、鑑賞中は他の洋画が頭にチラつき集中出来なかった。もっと真新しい俳優を採用してもそろそろ良いのでは?
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