MINAMATA ミナマタのレビュー・感想・評価
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気骨のフォトジャーナリスト
海外のメディアで大きく取り上げられたことでようやく司法がまともな判断を下す、って時折ありますね。一種の外圧ですが、国内のマスコミが情けないということでもあります。
美波きれいでした。
傑作。
自分にとって生涯Top5に入る名作となりました。去年公開されたColumbusと同様に、自分の人生に大きく影響を与えてくれれました。映画館から出た後、世界が変わって見えたのは久々でした。
世界に大きな影響を及ぼした公害、水俣が題材であり、あのユージンスミスをジョニーデップが演じ、日本の名優が囲み、音楽は六ヶ所村原発等、環境問題に取り込む坂本龍一が担当する。なんて凄いプロジェクト。
誰もが気軽に写真を撮り共有することで、皆がある種のジャーナリズムを獲得しているスマートフォン時代。さらにコロナという新しい災害に直面している点でも公開タイミングにも意義がある。
この映画が特殊な力をもってるとわかる、静かで鮮烈なオープニング。
落ちぶれていたユージンが写真家として再起していく過程で、水俣で出会う被害者たちとの関係性も、実際にあった深い絆を感じることができる。
歴史に残る入浴シーンの撮影の瞬間、あのカタルシス。何度でも観たい。
ユージンの作品内のセリフにある「アメリカ先住民は写真を撮られると魂を抜かれると思っていた、だが写真を撮る方も魂を削られている」、また、自分のカメラを渡して、「写真はJazzと似てる。即興が大事だ。お前の音楽を奏でてこい」というセリフ。これは太平洋戦争や街医者の撮影の経験や、セロニアスモンクらジャズアーティストとの交流を持つ彼のバックボーンを孕むセリフとなっていたことなど、作り手がちゃんとユージンのこれまでの人生があった上で今ここにいることを伝えてくれる。
現代ではネットで情報が氾濫してデマだ、陰謀だ、真実だ、ああだこうだ、錯綜する。冒頭、ユージンは自分のマンションから通りに出るときに周りの雑踏に舌打ちをする。これは、そういうことだと思うこともできるし、圧倒的現実に疲れているのかもしれない。
ユージンは常に圧倒的現実の中にいて、それをひたすら写真として世の中に自分の見た事実を拡散してきた。彼の拡散の意味と今の私たちの拡散の意味の振り幅に時代の移り変わりの断裂を見る。圧倒的現実というのは飛び込む勇気がいる。今は良くも悪くも飛び込まずして誰かのフィルターを通した無数の現実を見ることができる。本当に良くも悪くも。
ユージンはLIFE紙の依頼を受け仕事をする職業カメラマンだったが彼は常に自分の写真が芸術の域に達するように、LIFE紙からの依頼は挑戦として受けていたという。仕事人としての彼の姿勢にも、人によっては自分を重ね合わせて何か思うことができるのでないか。少なくとも同じカメラを生業とする自分は思うことがあった。
「-信念、トライ、カメラ、そしてフィルム、私の良心の壊れやすい武器たち。これらを武器に私は戦った」
このユージンの言葉は自分に置き換えたとして、自分の良心の武器とは何で、何と戦うことができるのだろうか。
映画MINAMATA。観れてよかった。
ジョニー・デップが、水俣病を世界に発信した写真家を熱演
2020年(アメリカ)。監督:アンドリュー・レヴィタス。
主役の写真家ユージン・スミス(1918年ー1978年)をジョニー・デップが
渾身の自然体で演じました。
水俣病とは、新日本窒素肥料(現・チッソ)という会社が、肥料を作る工程で使用した水銀の成分の
残量を工場廃液として熊本県の水俣湾に垂れ流していた。
水俣湾で獲れた魚介類を食べた人や猫に、激しい中枢神経疾患を引き起こした。
それが水俣病である。
1971年。有名だが落ちぶれてた写真家ユージン・スミスは、
日系の若い女性アイリーンから、
水俣病の取材と撮影を頼めないかとの依頼を受ける。
スミスは「ライフ誌」の編集長ロバート(ビル・ナイ)に掛け合い、
写真を掲載することを約束させる。
実際にスミスとアイリーンは来日して3年間の月日を水俣で過ごして、
住民とコミニュケーションをとり、
地域に溶け込んでいきます。
激しい麻痺症状の患者を撮影することは家族の同意が得られず難航します。
しかしユージン・スミスには水俣病患者への深い同情と共感があり、
家族を晒し者にしたがらない人々の、頑なな心を解きほぐして行きます。
彼は被写体の同意を得ずに撮影することは決してありませんでした。
思いやりと敬意を持って、シャターを押す人でした。
しかしながら、ユージン・スミスは欠点の多い人です。
アルコール依存症だし、妻子は捨てるし、借金まみれだし、どうしょうもないけれど、
「写真家は被写体を写すことで、自分の魂の一部を失う」
その魂の欠落が彼を苦しめていたのかも知れません。
「1000の言葉より、一枚の写真」
ユージンの「入浴する智子と母」の写真。
この一枚は水俣病の現実と恐怖そして摘発・抗議・・・
全てを網羅してあまりある一枚です。
ジョニー・デップがこの役を演じたことと、監督・日本人俳優・スタッフ一同に、
敬意と感謝を捧げます。
【過去鑑賞】2022/01/31
忘れないために
ジョニーデップのような素晴らしい役者が
この映画を作ってくれて本当によかったと思う。
経済成長の名の下に
犠牲になった人々のことを
風化させないために、
現在も起きている理不尽な出来事と闘うために、
この映画は意義深いものだと思いました。
スミスの写真を改めて見てみたいと思う。
そして、多くの人にこの映画を見てほしいと思う。
キスと同じで聞くのは野暮だ。今だと思ったら撮る
映画「MINAMATA ミナマタ」(アンドリュー・レビタス監督)から。
冒頭の「史実に基づいた作品」の表記に、
覚悟をもって鑑賞しなければ、と妙に緊張したのを覚えている。
その緊張を解いたのは、導入部のワンシーン、
アメリカを代表する写真家と称えられたユージンに、
アイリーンと名乗る女性が、写真撮影を依頼する場面だ」
確か「フジカラーのCM」に一言添えるだけの依頼。
彼が訊く。「台詞は?」彼女が答える。
「フジのカラーフィルムはどこの製品より色鮮やか、
僕のお墨付きだ」と説明。その台詞に、彼が突っ込む。
「カラー写真は撮ったことがない。ただの1度も。
俺の仕事を知る者なら当然気付くはずだ」と。
このファーストコンタクトが、彼をその気にさせた気がする。
わざと、白黒(モノクロ)写真しか撮らない写真家に、
「カラー写真のCM出演」を依頼する、そのテクニック、
お見事・・と拍手を送った。
あとは、絵画的な美しい映像を観ながら、期待どおりの展開に、
胸が熱くなって観終わった。
「写真は撮る者の魂の一部も奪い取る。
つまり写真家は無傷ではいられない」と言う写真家の覚悟と、
「撮っていいか聞かないの?」
「キスと同じで聞くのは野暮だ。今だと思ったら撮る」
「こんなふうに?」「そういうことだ」と言う、
少しだけホッとするシーンが私にはウケた。
「撮っていいですか?」と訊いてからシャッターを押すのでは、
本当の写真が撮れない・・という意味だろう。
水俣病の若者に、カメラを渡してアドバイスする。
「見ろ、誰でもできる。訓練は必要ない。
狙いをつけたら焦点を合わせ、パシャリ」
どちらも、同じことを言っているんだよなぁ。
社会で習う四大公害病の一つ。 概要は知っていたが、具体的な歴史や民...
社会で習う四大公害病の一つ。
概要は知っていたが、具体的な歴史や民の感情を知らなかった。
カメラマンを通して描く手法が新しい。
最後は他国の公害にまで目を向けさせており、話が異なってきた。
進行形
劇場で観たいと思いながら叶わず、配信で観ました。
学校で習った公害が進行形であるという事実。
鑑賞後、朝日デジタルなどで資料を見ました。
昨今、汚染水の海洋放出の話題で物議を醸しています。
何を考えどう動くのか。突きつけられました。
魂の一枚
プライベート問題や出演作の不振でキャリア最大の危機が続くジョニー・デップ。
だが、いい仕事をする時はする。
『ブラック・スキャンダル』での恐演はインパクトあったし、『ファンタスティック・ビースト』での“黒い魔法使い”グリンデルバルド役は悪のカリスマ魅力がたっぷりだった。(事情はどうあれ降板が残念)
本作は近年の中でも出色の作品と演技ではなかろうか。
実在のアメリカ人写真家、ユージン・スミス。
“フォトジャーナリスト”として、その道では伝説的な人物。スタイルも作品群も後世に多大な影響を与えたとか。
恥ずかしながら、知ったのは初めて。
戦争写真家として沖縄へも。日本と関係薄くは無く。
そんな彼の“代表作”となったのも、奇しくも日本。と同時に、“遺作”。
それが、“水俣病”。
日本人なら知らないでは済まされない“水俣病”。
私もそれこそ小学校の時に授業で習い、全くの無知ではない。
今回見た事もあって、改めて調べてみた。
日本の公害病で最も有名。新潟の第二水俣病、三重の四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病…日本の“四大公害病”の一つ。
1950年代後半から1970年代にかけて、熊本県水俣市で発生。水俣湾周辺の化学工場から排出された有機水銀を含んだ汚染物を摂り続けた事による中毒性中枢神経系疾患。
地元住民の多くに、口元のしびれや手足の震え、言語障害、歩行障害、多器官障害、錯乱状態、意識不明、死…奇病、苦病、最悪の事態を招いた。
1952年に初の患者。1956年に水俣病と公表。地元住民と被害者、遺族らと企業側の闘い続き(時にはデモで多数の負傷者も)、1968年に原因は水俣病であると認定。1971年に遂にやっと勝訴。足掛け約20年という長い歳月…。
しかし、被害者や遺族の苦しみは一生消える事は無い。
日本国内の公害病問題なのに、何故そこにアメリカ人写真家が…?
今や水俣病は世界的にも知られる大公害病。
水俣病の実態を世界に知らせたのが、ユージン・スミス。
地元住民たちと彼の闘いの実話。
かつては名カメラマンとして名を馳せるも、過去の栄光に溺れ、アルコールとニコチン漬けの堕落した日々を送るユージン。世捨て人状態。
実話ながら、よくあるキャラ設定。ジョニデのやさぐれ感は見事だが、見始めは平凡な印象を受けた。
ユージンの落ちぶれの原因は実は日本にあり。沖縄戦で受けた負傷が祟り…。
そんな彼が再び日本と関わる事になるとは数奇だ。
多くの写真を提供した“ライフ”からも問題児扱い。
にしても、開幕のユージンとライフ編集長の言い合いには参った。
だって、ジョニデとビル・ナイ。某作品が頭に浮かび、ちと話が入って来なかった。(別に作品が悪いんじゃなく、気が散った私が悪いだけ)
そんな彼の元を訪ねて来たのは、日本人とアメリカ人のハーフの日本語通訳の女性アイリーンと日本人カメラマンのキヨシ。
ユージンを尊敬するキヨシたっての頼み。熊本県水俣市で起きている公害病の実態をカメラに収めて欲しい。それを世に拡げて欲しい。
依頼に応じ、日本は熊本県水俣市へ赴くが…。
惨状を目の当たりにし、真実を知らせる為、再びカメラへの情熱を取り戻す…という主人公の再起物語でもあながち間違ってはないが、最初は彼に迷いが見られた。
失いかけていたカメラへの情熱。
真実を伝えるには地元住民の協力が必要だが、皆怪訝。
無理もない。公害病の苦しみに加え、外国人が自分たちを撮っている。まるで、見世物晒し者のように。
ユージンも少なからずそれを感じ取っていたのでは…?
最初は相容れない異国と異国の者。
水俣病の原因、日本窒素肥料化学工場=現チッソ社。
同社社長はユージンの生活苦や金銭難を調べ、買収を持ち掛ける。
一度は受け取ってしまうユージンであったが…
葛藤。良心の呵責。
フォトジャーナリストとしてこのまま屈してもいいのか…?
金を突き返し、地元住民たちと闘う事を決意する。
後に妻となるアイリーンの証言によれば、この買収シーンは史実と違う脚色だとか。買収に屈するような人間ではなかったとか。
史実脚色で賛否分かれ、“作った感”も否めないが、作中に於けるキャラ設定のターニング・ポイントにはなった。
ユージンが闘うきっかけになったのは、言うまでもなく地元住民たちとの交流。
最初は相容れなかったが、徐々に徐々に。
私をあなたたち家族の中に迎え入れて欲しい。
ユージンがカメラに収めたのは、被害者の苦しみではなく、彼らのありのままの姿。
営み、家族愛…。
普遍的だが、彼らにとってはそれらを維持するのも一苦労。水俣病のせいで…。
その姿を通じて、訴える。
印象に残った台詞。
写真は撮る側の魂の一部も奪い去る。
これは映画にも通じる。映画監督も魂を削って作品を創る。(部活みたいに気心知れた仲間内だけでワイワイガヤガヤやってクオリティーなんかどーでもいい、などと愚言した日本の某監督に突き付けてやりたい)
そりゃ当然だ。そこまで思いを込めなければ、“名作”は撮れない。見る側に魂は伝わらない。伝えたい事を。
プロデューサーも兼任したジョニデの“魂演”も素晴らしいが、日本人俳優らが名演魅せる。
チッソと闘う地元住民のリーダー役の真田広之はさすがの熱演。
水俣病の軽症状を持つカメラマンの加瀬亮も巧演。
ユージンに自宅の宿泊を提供した夫妻の浅野忠信と岩瀬晶子。温もり溢れつつ、水俣病の重症状の娘を持つ良心の悲しみと慈愛を体現。
出色だったのは…
アイリーン役の美波。凛とした美しさと、時にユージンを嗜め奮わせる強さ、育む愛…。
水俣病の重症患者で、カメラに興味を持ち、ユージンと心を通わす少年役の青木柚。ユージンとハグするシーンはまるでユージンの心を癒すかのようで印象的だ。
実質の主役は彼らだ。水俣病に苦しめられながらも、チッソと闘い続ける。
ユージンもカメラを通じて彼なりの闘いを示すが、あくまで“記録者”。
闘い続け、遂に勝利をその手に掴んだのは、諦めなかった名も無き地元住民(ヒーロー)たち。
それにメリハリを付けたチッソ社長役の國村隼の憎々しさも重要な存在感。人間のエゴ、企業の隠蔽、勝手な言い分…いつの世も原因や責任や過ちを作る側の考えは変わらない。
某国の大統領のような横暴。
アンドリュー・レヴィタス監督の真摯で誠実な演出に称賛を贈りたい。よくぞ撮ってくれた!
こういう作品を見た時、いつも思う。本来なら、日本が作るべきだ。国内で作るには難しい事情もあるのだろうが、及び腰になってはダメだ。今それに屈しないのはドキュメンタリーの原一男ぐらいか。
残念だったのは、日本が舞台でありながら撮影のほとんどがセルビアやモンテネグロで行われた事。今の水俣市に当時の面影がほとんど残ってないらしい。
なので所々日本の空気を感じない点もあるが、陰影印象的な映像美はそれこそカメラに収めたくなるほど目を見張る。
坂本龍一による音楽も情緒を醸し出す。
写真を撮り続けていた時、デモで暴行を受け、重傷を追う。
沖縄戦での負傷に加え、またしても。
しかしそれでも、日本や日本人を恨む事は無かったという。
真実を伝えるフォトジャーナリストとしての覚悟さえ感じた。
それどころか、地元住民たちと触れ合い、半分日本人の血を引く女性と結婚し、長きに渡って日本に留まり真実をカメラに焼き付けた。
本作を見て、ユージン・スミスを知れた事は尊い。
混沌とした世に、こういう人がいてこそ。敬服する。
決して真実は過去や忘却に埋もれないと信じている。語り継がれていく。
その象徴、彼の代表作であり、写真集“MINAMATA”の傑作“入浴する智子と母”。
たった一枚の写真から、様々な思い、感情、魂が伝わる。
悲しみ、苦しみ。
無償の愛。
至高の美しさ。
一人の勇気、一人の決意、一人の行動、一枚の写真。
水俣病は今も完治していない。
日本そして世界へ伝え続ける。
EDクレジットで紹介される世界中の公害病の多さに衝撃…。
でも一番衝撃的だったのは、同じくEDクレジットの2013年の当時の首相の“水俣病は終わった”発言。
一度被った悲劇や被害は一生終わる事は無い。
撮るということ
こんなセリフがありました
「アメリカ先住民は写真が被写体の魂を奪うと信じてた
写真は、撮る者の魂の一部も奪い去る」
私はよく写真を撮ります
空、雲、山、花、風
目についた自然を手当たり次第に
その時々で心がおもむくままにシャッターを切るのです
被写体が人ではなくても心が動くのです
私には彼ほどの心の強さはありません、自然を撮っていたって魂はるれるのだから当然人を撮る者の魂の一部も持っていかれるのだとこのセリフに納得がいったのです
そしてその写真は魂を乗せて世界へ広がり私たちのもとへ届くのです
地震、津波、台風、それから戦争も
地獄のような世界があることを写真から伝わってくるのです
写真家はその場に行き直に自分の目で見てそして撮ってくるのです、目の前にある地獄を世界に伝えるために
いくつかの心に刻まれた写真が私の中にあります
幼子の亡きがらを火葬にする順番を待つ少年
泣きながら走ってくるナパーム弾の少女
そして今回目にもの見せられたがあのお風呂の写真です
日々の生活の苦悩と子供への深い愛情
生きている、諦めずに生きている様をまざまざと見せつけられました
MINAMATAであって水俣ではなかった
この作品は、写真集「MINAMATA」をめぐる物語だ。確かに水俣病の被害に苦しむ人々を描いてはいるが、日本で撮影されていないせいか、臨場感、迫力が感じられない。丁度同時期に原一男監督の「水俣曼荼羅」が公開されている。恐らく、原監督のことだから、鬼気迫るドキュメンタリーになっているのではないだろうか。いかんせん6時間の超大作で、まだ観ていない。
ジョニー・デップは、酒に飲まれる男が板についている。「ラム・ダイアリー」の時も、四六時中酔っていた。その酒飲みが、どうにもカメラマンらしくない。一枚一枚適当に撮っているようにしか見えないのだ。その嘘っぽさのようなものも、この作品が、あまり琴線に触れなかった理由かもしれない。
主役の牽引力
予想を裏切り、面白かった。 メッセージ色の強いだけの社会派映画ではなく、非常によくできた映画だった。 一番良かったのは、この映画の売りでもある、主役のジョニーデップ。 彼の、柔らかいが独特で強烈な存在感が、ユージンスミスの役の中に見事に溶け込んでいた。 出演者も観客も、ジョニーデップに乗り移ったユージンスミスに牽引され、最後までもっていかれるという感じだ。
私はこの映画で知ったのだが、ユージンスミスというのは、 いやはや驚くほど骨のある男だ。 自分の仕事に命を懸けられるほど没頭できるなんて、男として、いや、人間としてこれ以上幸せなことはないだろう。 羨ましい。
それと、見終わった後で坂本龍一が音楽担当だと知ったが、これが抜群だった。 久しぶりに、エンドロールを見ながら美しい音楽で余韻に浸った。
我が国が現在に至るまで引きずっている水俣水銀汚染の問題は、人間の過分な欲望の集合体である大企業から、我々人間がいかに奴隷化されてしまうのかという事実を眼前に突き付けてくる。 実は、誰にとっても身近なことであり、決して目を離してはいけない大問題だ。 そういう意味でも、この映画の意義は大きい。
不条理と存在意義は対なのかもしれない。
これが社会問題を映画にするということだと思う。
社会派などという耳障りの良い言葉ではなく。感動お涙や共感できるか出来ないでもなく、ただただ訴えてくる真実を物語にすることで伝わる強さ。
音楽と映像が非常に良く、言葉にならないところを上手く伝え、映画というその役割を遺憾なく果たしている。あそこで「Forever Young」を流すのは、本当に坂本龍一さんは天才的な人だね。泣かずにいれるわけがない。
演者さんもとても良く、本気で50年以上年取り組んだ内容だと、もはや誰が出ている、上手く演じてるかではなく、演者が演者に見えない時が一番素晴らしいんだと。
企業が地域や人を助ける。それは事実。だから、少しの有害は黙認しろ!ではなく、問題があるなら、開示してそれらも共に解決する道を探ることがなぜこの現代でも尚、出来ないのか、助けるのも助けられるのも人なのに。いつどこで逆転してもおかしくないということが理解できないのが、不思議でならない。資本主義は人を人で無くしてしまう。
人は自分以外の人の苦しみを何度も何度も聞かされないと理解できない。その他人ごとだと思ってるその人が企業の下支えになってるとわかってるはずなのに。
この映画は何度も何度も取り上げてほしい。
不条理な美しさでさえも、生命には感動する。
映画『MINAMATA』に違法作品の疑い
患者の苦しみを伝えるにも、美しい自然に恵まれた水俣の光と風を描写するにも、公害企業を糾弾するにも、もっと「芸術的」かつ「合法的」な方法があったのではないかと思われます。水俣市の固有名詞とチッソ株式会社の法人名やロゴをあげたうえで、故意にかつ執拗に「ねつ造シーン」(全く根拠のないつくり話し)と「やらせシーン」(何かをヒントにしたと思われるつくり話し)を連発するこの作品は、歴史を改ざんするものです。この映画には違法作品の疑いがあります。後世に残すことも許されないでしょう。
「つくり話」(ねつ造シーン・やらせシーン)は少なくとも次の六か所に出て来ます。それらは物語の核心をなしています。
(1)ユージンとアイリーン・スミスが水俣に来た 1971年9月には、チッソが廃液をどこにも流さなくなって、3年以上経っていましたから、映画で廃液を太いパイプからどぼどぼと流すシーンは「やらせ」です。事実と大きく異なっています。
チッソ株式会社水俣工場がパイプを使って廃液を流したのはそれより 10年以上前の 1958~1959年でした。1958年に筆者(当時は水俣第一小学校六年)は、そのパイプ(排水管)を近くから何度か見ました。1959年に水俣工場は排水管を撤去し、アセトアルデヒドの製造を 1968年5月18日(土)に停止するまで、メチル水銀排水を工場の側溝を通して(パイプを使わないで)水俣湾に流しました。ユージンとアイリーン・スミスが水俣に来た 1971年9月には、チッソ水俣工場がメチル水銀排水をどこにも流さなくなってすでに 3年以上が経っていました。
(2) 劇中、チッソ水俣工場の構内でチッソの社長がチッソのロゴのついたヘルメットを被り、 5万ドル入りの封筒を、同じくチッソのロゴのついたヘルメットを被るユージン・スミスに手渡し、すべてのネガを渡して「帰れ」と言って帰国するよう持ちかけます。ユージンが「くそくらえ」と断る。そのようなシーンが出て来ます。それも観客に感情を移入させるようにするための根拠のない「ねつ造」です。多くの観客は騙(だま)されるでしょう。
チッソ水俣工場は、ユージンを構内に入れていません。工場の来場者記録にも「ユージン・スミス」の名はないでしょう。そもそも、当時の社長(嶋田賢一)も会長(江頭豊)も、水俣にはいませんでした。水俣に東京から来るときは地方紙に「〇〇社長、来水!」と載りました。
(3) 劇中、ユージンの仕事場が放火されるシーンが出て来ます。これも観客に感情を移入させるための根拠のない「ねつ造」です。多くの観客は騙されるでしょう。
当時水俣でどのような小さな火事があろうと、それは町中に知れ渡り、地方紙にも載りました。ユージンの仕事場が放火されたシーンも根拠のない「ねつ造」です。水俣の消防署にも警察署にもそのような出動記録はありません。
(4) 劇中、チッソの附属病院でセキュリティ・チェックが行われ、ユージンらが警備員の目を盗んでコンクリートの階段を駆け降りる。下の部屋で機密資料を発見するというシーンが出て来ます。それも観客に感情を移入させるようにするための「やらせ」です。ほとんどの観客は騙されるでしょう。
ユージンとアイリーン・スミスが水俣に来た 1971年9月には、附属病院(木造平屋でコンクリートの階段などもない)は廃院となっていてすでに存在していませんでした。
(5) 1972年1月7日(金)、ユージンが千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場に行ったとき、川本輝夫率いる水俣からの患者を含む交渉団約 20名がチッソ五井工場の事務所から退去を拒みました。ユージンも当時の妻アイリーン・スミスもその中にいました。チッソ本社は五井工場に指示して、これを「住居侵入罪」の現行犯の疑いで場外へ排除するように従業員数十名を動員させました。激しいもみあいの中でそれを撮影しようとしたユージンは倒れ込んで怪我を負いました。
現場の音声記録や写真が残されていますが、それらは「住居侵入事件」の瞬間をとらえた直接証拠(5W1H)とはなり得ても「傷害事件」の瞬間をとらえた直接証拠(5W1H)とまではなりにくく、仮にユージンらが「傷害罪」でチッソを告訴すると、チッソは「住居侵入罪」でユージンらを告訴したでしょう。千葉地検の判断としては、「住居侵入事件」も「傷害事件」も、嫌疑不十分の不起訴となりました。双方(交渉団と従業員)から千円の科料に処された人さえ一人も出なかったのですから、あったのは「自損的な怪我」だけとなりました。
ユージンは沖縄戦で負った傷の後遺症のため、痛み止めとしてウィスキーが欠かせませんでした(朝日 2021年10月7日)。サントリーレッド(39度 640ml)を毎日半分空けていて、絶えず酒気を帯びていたようです。口の中には日本軍による砲弾の破片があったようですから、五井工場で倒れ込んで口から出血したことはあり得たと思われます。
現在でも、新聞などで一方的に「暴行事件」などとする記述を見かけますが、チッソの従業員の中にも交渉団の中にも「罪人」はいないとして確定したことを、どちらかの一方に肩入れして、「住居侵入事件」や「暴行事件」であったとして報道することは許されないでしょう。また、アイリーン・スミスは 2020年に熊本学園大学に提出した『 W.ユージン・スミスとの日々:回想』と題する一文(同大学が公開)の中で「チッソの暴力団から傷害を受けた」などと述べていますが、当時のチッソの従業員は単に自らと家族の生活のために就労していただけでしょう。その中に暴力団のような反社会的勢力はいませんでした。
映画のシーンは、さながら暴力団による傷害事件であったかのように描かれていました。ほとんどの観客は騙されたでしょう。
劇中、写真家としては重要な手のひらを靴でぎりぎりとつぶされて怪我をするシーンが出て来ますが、ユージンは手のひらを怪我していません(ユージンの診断書)。
(6) 劇中、ユージンの最高傑作の一つとなった「患者の少女と彼女を入浴させる母親の写真」を撮るとき、怪我で手には包帯が巻かれており、シャッターを直接切ることができなかったというシーンが出て来ます。それも観客に感情を移入させるようにするための「やらせ」です。ほとんどの観客は騙されたでしょう。
怪我は 1972年1月7日であり、その写真は前年の 1971年12月24日に撮影されました。
この映画『MINAMATA』は、次のように社会を深刻に分断させたのではないかと筆者は感じております。
1. 政府と熊本県
水俣でメチル水銀公害が発生した当時「無作為」によって被害を拡大させた「加害者」のほうである。現在も裁判で被害者と争う被告。自らの責任をなるべく小さく見せるために、「あれは水俣の水俣病」として封殺したい。『MINAMATA』はあってよい映画である。熊本県は、水俣市で行われた先行上映会(2021年9月18日 観衆約 1,000人)を後援した。
2. 水俣市
映画『MINAMATA』は制作の意図が不明である。そもそも「MINAMATA」は公法人・水俣市の「固有名詞」である。そのタイトルを聞いただけでも水俣を負のイメージで貶(おとし)めかねない。『MINAMATA』はあってはならない映画である。水俣市で行われた前記先行上映会の後援を拒否した。
3. 入浴した娘と母
証明写真や風景写真とは異なって、人を被写体とする芸術写真においては、撮影者であったユージン(故人)とアイリーン・スミスだけでなく、被写体(娘と母)にもその思想・感情の「表現者」として「著作権」(「著作者人格権」と「著作財産権」)が生じる。
当時、両親は娘の日々の成長の記念として撮ってもらっただけである。ユージンとアイリーン・スミスの英語版の写真集『MINAMATA』(1975年)がアメリカで刊行されたとき、両親は、写真集は水俣で起きたことを世界に伝える「公益」のためであると知らされ、その刊行を事後に許諾して感謝の意を表明した。ユージンとアイリーン・スミスはその出版の直後に離婚した(1975年)。
入浴シーンの娘は 1977年に逝去した。ユージンは 1978年にアメリカで逝去した。その後三一書房から日本語版の写真集『MINAMATA』が二度刊行されたが(1980年、1991年)、親であれば、亡くなった娘をもう「さらし者」にしたくない。これは通常の日本人の「死者に対する畏敬の思い」である。映画『MINAMATA』にも登場させてもらいたくなかった(朝日2021年10月16日)。
娘がもつ書籍等の「頒布権」や映画等の「上映権」などの「著作財産権」は死後七十年間 2047年12月31日まで私権として現在も存続している。(著作財産権は私権であるが、侵害すると最高で懲役十年と一千万円の罰金が併科され、法人にあっては最高で三億円の罰金が科される。)その権利は存命する父親などの近親者に相続されている。存命する母親にはその「著作財産権」だけでなく、「著作者人格権」も存続している。著作権は「ベルヌ条約」等によって世界のほとんどの国で有効である。アイリーン・スミスは「私は封印を解いた」などと言っているが(朝日ディジタル2021年10月16日)、私権は誰にも勝手に侵害できないので、アイリーン・スミスは封印を解いてなどいない。
4. チッソ株式会社
チッソとしては、患者に補償しながら事業を継続して来た。その子会社である JNC株式会社水俣事業所も世代はすっかり替わっていて、地域の高等学校などを卒業した若い人たちが希望をもって働く重要な職場となっている。映画『MINAMATA』は、社長がユージン・スミスに大金を渡してネガを取り戻そうとするシーンや放火のシーンなど、「ねつ造シーン」や「やらせシーン」が出て来るから許されない。『MINAMATA』は法律上も倫理上もあってはならない映画である。
5. 原告(被害者)の代理人・弁護士
原告(被害者)は、これまで真摯に生きてきた。被害者の中に法廷でどんなに小さなことでも「偽証」をした人はいない。高齢化した水俣の語り部も若いころからこれまで少しでも「つくり話」をした人はいない。それは、過去五十年以上これまで一貫していた。被害者の弁護士としては、これまで被害者から「情緒的な逸話」をよく聞き取り、その中から「事実」を抽出して真摯に裁判に臨んできた。裁判所も(最高裁まで)そのような被害者を何とか救済しようとしてきた。
しかし、水俣で開催された映画『MINAMATA』の先行上映会(2021年9月18日)では、多くの原告(被害者)が、「大金入りの封筒」や「放火」や「手の怪我」などの「ねつ造シーン」や「やらせシーン」でジョニー・デップが被告(チッソ)を打ち負かす映画を観て、一般大衆と一緒に手放しで喜んでそれに「加担」した。それをメディアも報道した。
しかし、原告(被害者)は、今後法廷では「あの映画は、ホントはウソ混じり」で、あの時は、それはそれとして喜んだが、これからこの法廷で証言する「コレは、ホントはウソ混じりでないホント」だと主張するしかない。その行為全体が信義誠実を貫くための「禁反言の原則」(Estoppel)に反する。
原告(被害者)の代理人・弁護士としては、途方もない窮地に立たされてしまった。これでは被告(チッソ)に謝るしかないではないか。『MINAMATA』はあってはならない映画である。
ジョニーディップの力で世界に広めて欲しい
楽しむ映画ではないので観るか迷ったが、ジョニーディップの視点が気になり鑑賞しました。
カメラマンを通して見た水俣、美しい風景と公害に苦しむ人々。誰のために、何の為に障害を持ち生きていかなけれはならないのか、写真でしか見ていなかったので、映画で見て悲しくなります。
映画に出演されたのは、本当に障害を持った方々だと思いますが、本人も家族も勇気が必要だったでしょうし、当時はもっと大変だったでしょう。
私は農家をしているためチッソ(株)の製品は使用せざるを得なく、毎年複雑な気持ちで使っています。未だに解決されていない事実、早く解決して欲しいものです。
華氏119の中でも紹介されていたアメリカの水道施設問題、政権が変わったから良い方向に変わっていて欲しい。
エドワードに会いたくなる映画
上映最終週と聞いて、仕事帰りに飛び込んだ。
ジョニデのいつもの物憂げな表情は健在でした。(しかしアメリカの方のアルコール依存は、ストレス社会の反映でしょうか?半端なく飲まれてますねー)
この映画では真っ直ぐな不器用な性格が、ストレートに伝わるキャラクターをよく演じてました。
ユージンさんというカメラマンさんのことはあまり知らなかったけれど、日本の恥部とも言える公害をありのままに世界に発信した功績は素晴らしいと思います。
多分外国で撮ったとおもわれますが、異国風の水俣湾も素晴らしかった。
高度経済成長期の日本。公をまだまだ信頼し、無邪気に仕事中毒でいられた時代のノスタルジアはさておいて、ここらで立ち止まり環境汚染について、考えてみるのも今の時代が要請していることではないかなと思いませんか?
ジョニデの出世作「シザー・ハンズ」のエドワードは愛らしく、素直に人間を受け入れて毎クリスマスに雪をふらしています。貴方の愛する人を、こんな人間が生み出した汚染された環境のもとに、置いておきたくはないはず。そっとエドワードも祈ってると思いますよ
日本の映画制作者では描けなかった作品
映画タイトルと同じ水俣病は、自分の住む新潟県でも、ほぼ同時期に発生し、新潟水俣病として、日本の四大公害被害の一つに数えられている。
中学時代、社会科の担当教師が新潟水俣病の住民訴訟に携わった時の経験を話してくれたが、映画を見ながら、それを思い出し、よりリアリティが感じられた。
実際にユージン・スミスという、日本人とは違う視点が存在していたが、この作品も海外制作と言う事で、事実を何の忖度も無く客観的な視点で、そして映画としてのエンターテインメント性も失わずに描かれている。
多分、日本では描けなかったであろう、過去の過ちを知るためにも、絶対、見るべき映画。
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