「もう一度“公害”という人害を考える」MINAMATA ミナマタ シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)
もう一度“公害”という人害を考える
観る前は「何故今、水俣映画なんだ?」という気持ちが強かったし、更にアメリカ製作の映画なので、ひょっとするとトンデモ映画なのかも知れないという危惧もありましたが、観て様々な事を考えさせられました。
まず、私が“今更公害映画か…”と頭に過った事への自問自答が自分の中で湧きあがりました。
自分の中で何も解決していない問題なのに、勝手に自分の中で風化していたことに対する驚きと、私は昭和30年生まれで、更に公害の街尼崎に50年以上住んでいて、生まれてから中学生位まではずっと公害がテレビニュースや新聞のトップ記事であり、今のコロナなどより遥かに長期間社会の最大の問題であった筈なのに、いつの間にやら関心が薄れたことへの後ろめたさが呼び起された様な気がしました。
という事で本作を観ながら、もう一度“公害”とは?を考え直さないと行けないという強迫観念の様なものを感じさせてくれました。
で、まずいつもの様にウィキペディアでの意味を調べると、
「経済合理性の追求を目的とした社会・経済活動によって、環境が破壊されることにより生じる社会的災害である」とあります。
文字通り公(おおやけ)の災害なのです。なので、この映画を観ている観客の大半は、映画の被害者側よりも加害者側に近い存在であることを自認する必要にがあるのです。
それは、現在社会に生きている限り(生まれた限り)それからは逃れらないのですよ。生まれた時から背負わせられた十字架と言っても良いでしょう。
何故なら、どんなに悪いことだと分かっていても、被害者以外の普通に今の社会生活の恩恵を受けている限りはあのチッソ会社の社長と同じ側にいるという事になってしまいます。そういう罪の潜在意識が働くからこその防衛手段として風化させてしまっているのだと思います。
チッソ会社の社長のいう“ppm”こそが、国民の潜在意識なのだと思います。未来の環境破壊や自分の知らないところでの百万分の一の被害など知らぬふりをしておけば、今の便利で快適な生活が享受出来るのですからね。
でも、そんなに未来でなく本気で考えなければならない時期が迫っているからこそ、今映画にしておきたかったのかも知れません。
それともう一つ、恥ずかしながら私はユージン・スミスという写真家の存在を知らなかったのですが、上記した唯一被害者側に寄り添う事が出来る存在として、報道機関というかメディアがあり、本作のユージン・スミスの役割は見ていて感動させられました。
そして、その精神は今のメディアから完全に失われたものであることを再認識させられました。
彼の報道写真が多くの人の心を打つのは、そこに芸術以上の真実が写し出されるからであり、だからこそたった1枚の写真で社会を変えられる力があった訳で、逆に真実から目を逸らした今のメディアに一体何の力があると言うのか…、メディア自体が一つの公害になり下がってしまった現状を見るに、我々(人類)も公害の一要因でしかないのかも知れないという厳しくも情けない結論しか出せなくなってしまう。
正直、明るい未来を感じさせてくれる作品ではないが、一部の(優秀な)人間に少しでも危機感を持たせることが出来たらと願っている。
我々庶民が出来る事は、絶えず関心を持つ事のみなのですが…
余談
最近ユーチューブばかり見ていて、その中でもピンクヘアーのJK(らしき)へライザー総統という、悪態と煽りまくりで最後の締めだけは至極真っ当な常識論という、口悪女子の短時間物申す系動画をよく見るのだが、そのへライザー口調でこの映画を紹介すると、
「おい、この映画を観て泣いたり感動したりしているそこのお前、勘違いするなよ!!、お前は絶対に被害者側の人間などではないのだからな。高度経済成長期に生きたお前の親父世代がいるからお前の今の生活があるんだよ。だからお前が涙を流してやらないといけないのは、あの公害会社の社長の立場の方なんだからな。それで今の豊かさがあるのであって、この映画1本観て被害者に同情したってなぁ~~んにもならないのだよ。私を含めて訳も分からないユーチューバーで大儲けしている人間は、自分が何をして社会に役立っているかなんて考えたことないだろ。薄っぺらい同情している暇があったら、これからどんな社会になったら良いのかもっと考えろ。ってことぉ~~~」
ってなことを言うのかな(爆)へライザーちゃんにもこの映画、観て欲しいよ。