「AIロボットに感情はあるのか?」アフター・ヤン ありのさんの映画レビュー(感想・評価)
AIロボットに感情はあるのか?
AIの進化が著しい昨今だからこそ、ここで描かれる物語を観ると色々と考えさせられるものがある。
ジェイクの家庭は少し複雑である。白人のジェイク、アフリカ系黒人のカイラ。そして娘のミカは中国人の養女である。人種はバラバラであるが、彼らは強い絆で結ばれている。そして、おそらくミカが寂しい思いをしないために、ジェイクは同じ中国人型のAIロボット、ヤンを購入したのだろう。ミカはヤンのことを本当の兄のように慕っている。
そのヤンが、ある日突然機能不全に陥ってしまう。様々な思い出が詰まったヤンと別れることなどできない…とジェイクは奔走することになる。
故S・キューブリックの原案をS・スピルバーグが監督した「A.I.」は、AIロボットに感情が芽生えるという物語だったが、それと今作のヤンはよく似ているという気がした。
機能を停止したヤンには記憶のメモリが残されており、映画の中盤以降はジェイクがその中身を紐解いていくミステリー仕立てとなっている。その中で、彼は自分の知らなかったヤンのもう一つの過去を知ることになる。他人には打ち明けることが出来なかった孤独、愛する人との思い出、何気ない日常の一コマ、美しい田園風景等。ヤンが何を思い、何を欲していたのか。それを想像すると実に切なくさせられるのだが、これは同時にAIにも感情があったことの証にも思えた。
AIの技術開発はまだ進化の途中である。しかし、本作を観ると、もしかしたらそう遠くない未来に本当にAIは感情を実装することになるかもしれない。そんなことを思ってしまった。
本作は、そんなヤンの死を通して、人とAIロボットの死生観についても言及されている。映画の後半、カイラの回想の中で、思想家・老子の言葉を引用してヤンと死について問答を交わすシーンが出てくる。死は新たな始まりなのか?それとも無なのか?という哲学的な問いなのだが、なるほどAIロボットのヤンにとって”死”とは知識としては理解していても実感の持てない未知なるものなのかもしれない。
このシーンは本作で非常に重要なポイントだと思った。というのも、残された家族がヤンの死をどう受け止めるかという、いわゆる”喪の作業”というテーマに深く結びついているからである。
もし死が新たな始まりだと考えれば、この映画のラストはかすかな希望を灯しているように受け止められるし、逆に死=無と捉えれば実に悲しい結末と言わざるを得ない。
個人的には前者と解釈した。劇中で「グライド」という楽曲が二つのシチュエーションで流れるのだが、その使用の仕方を見てそう確信した。
ちなみに、この楽曲は岩井俊二監督作「リリィ・シュシュのすべて」の中で使用された小林武史プロデュースの曲のカバーソングである。
監督、脚本はコゴナダ。前作「コロンバス」は未見だが、全編抑制されトーンが貫かれており、これがこの監督の特徴なのだと思った。
SFとは言っても、ビジュアル的な派手さはなく、現代とさほど変わらない日常が淡々と綴られるのみで、画面もジェイクの邸宅や自動車の中といった屋内シーンが多く、外の世界は極力映し出されない。インテリアなどの装飾品が一々アーティスティックで観てて飽きさせないのだが、メリハリという点では若干物足りなさを覚えた。確かに見ようによっては地味に思えるかもしれない。
ただ、そんな中、オープニングのアップテンポなダンスシーンはアイディアが斬新で一際印象に残ったし、ヤンのメモリにアクセスする映像演出はスピリチュアルなテイストも感じられ新鮮に見れた。真っ暗な空間にたくさんの光が星のように輝いており、その一つ一つからヤンの記憶を再生するという仕掛けが面白い。まるでアルバムのページをめくるような感覚を覚えた。そして、おそらくAIのメモリにも容量があるのだろう。それぞれ数秒程度の断片的な映像というところが何だか切なくさせる。