「「家族」とは何か」アフター・ヤン のむさんさんの映画レビュー(感想・評価)
「家族」とは何か
これといったクライマックスもなく、もちろんスペクタクルもない。96分という昨今の映画の中では比較的短い作品ではあるが、それにもまして「え!?これで終わり!?」といった感想だった。鑑賞直後は、正直評価が難しい作品といった印象であった。描かれているエピソードがそれほど多くないので、余白の多いストーリーをかみ砕きながら、反芻するように繰り返し鑑賞すべき作品なのだろう。「ジェイク(夫)とヤン」「カイラ(妻)とヤン」「ミカ(娘)とヤン」という3つのエピソードを通じて、家族がつながっていく物語なのではないかと思う。
この作品で私は「家族とは何か」を考え直すことができた。家族とはかけがえのないものである。実父、実母以外の両親は考えられないし、妻以外の女性と暮らすことも考えられない。長男と次男が入れ替わることもイメージできないし、亡くなった祖父、祖母も私だけのおじいちゃん、おばあちゃんである。自分にとって家族は「ありのままを受け入れ、愛する存在」である。しかし、家族はもちろん「役割」としての側面も持つ。私は今の家族の中では「父」であり「夫」であり、時には「息子」である。その役割を果たすことが求められている。父親としての私は、ありのままの私そのものではない。ジェイクはどこか、父親としての役割に縛られている印象を受ける。ジェイクがヤンを購入したのも、父親としてミカに「中華系」というルーツを伝えることができない負い目からだったのではないかと思えてくる。生業である茶葉店の経営も芳しくなく、家族を経済的に支えているのは妻であるような描写からも、ジェイクの父親としてのアイデンティティの揺らぎが見える。それに対してヤンは、「役割」と「自己」が限りなくイコールに近い。彼は自分の与えられた役割そのものが生きる意味であり、そのことを考えない。AIロボってあるヤンに、人間としてこうありたいという一種の憧れを抱いてしまうのが皮肉である。
そしてこのストーリーを通じて、ジェイクがヤンをありのままの存在として、家族として受け入れていく過程が丁寧に描かれていく。まずジェイクが、初めヤンをあくまでも「モノ」として扱っているのが興味深い。動かなくなったヤンを担ぐ(あ、ヤンって軽いんだ、というのが面白い)、テーブルの上に上半身を無造作に置き、下半身はだらしなくテーブルからはみ出て垂れ下がっているといった描写が、そのことを物語っている。ヤンを修理しようと奔走するのも、ヤンが動かなくなってしまったことでふさぎこんでしまった娘のためであり、ヤンのためではない。ヤンを家族の一員として接しているように見えるが、ジェイクにとってヤンの存在意義はあくまでも娘を育てる上でのサポートツールとしての存在であり、「役割」を果たすことを無意識的に求めている。そのような存在を家族とは言い難い。そんなジェイクが、ヤンの記憶に触れることで彼の「役割」以外の側面に気づいていく。それは、一人の人間が成長の中で自己と家族の関係を構築することと何ら変わりないのではない。赤ん坊にとって、家族は役割でしかない。父は父であり、母は母である。しかしある時、父でしかなかった人間の違った側面を見つける。家族を役割としてではなく、一人の人間として愛することができるようになる。ジェイクがコーヒーショップのオーナーに対して、ヤンを「息子」と呼ぶシーンは彼の大きな変化を表している。
家族を、一人の人間として見るということが、どれだけできているだろう。知らず知らずのうちに、役割として見てしまっているのではないか。そんなことを思い起こさせてくれる素晴らしい作品であった。