「サム・ライミ版との決定的な違い」スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム dmiさんの映画レビュー(感想・評価)
サム・ライミ版との決定的な違い
絶賛レビューが多い中、批判を投げかけるようなレビューになってしまいますが……。
気に入った点はもちろんたくさんあります。
ヴィラン含め過去作大集合、ピーターの最後の決断から分かる覚悟の重さ、それらはこれまでのファンにとっても、ヒーローベースの物語としては脚本・演出共に素晴らしいものでした。
ラストシーンで味わった切なさもしばらく拭えなかったのは間違いありません。
しかし、サム・ライミ版とどうしても比べてしまう要素があります。
それは「ヒーローベースで物語を作る割合」です。
サム・ライミ版では、1,2,3共に(特に1と3)ヴィラン達は社会に対するフラストレーション、理不尽な不遇を抱えていて、どこかその点もヒーローとヴィランとの間で和解させるような脚本で、上手に着地していたように思います。
「親愛なる隣人・スパイダーマン」は「(ヴィランをただこらしめるという)結果」だけでなくある種「(ヴィランの意を汲む)過程」も僕達に見せてくれていました。
3での娘を思うヴィランとピーターの演技は今でも忘れられません。
それが本作ではどうでしょう。
過去にピーターと和解したヴィランは再びピーターと対立し(この時点で過去作の和解が無かったことになってしまいます)、挙句の果てにオクタビアス以外のヴィランは、全員強制的に治療されただけでした。
そこに彼等のフラストレーションを自己解決する過程は一切ありません。サム・ライミ版で感じた「両者の和解」は全くありません。
ヴィラン(特にサム・ライミ版3)の本懐は何だったのか?
あの美しい脚本、仕方なくヴィランになったという自意識を抱えながら生きるヴィランは無かったことになってしまうのか?それでは彼等は唯の根っからの悪人ということになるのではないか?サム・ライミ版であんなに人の弱さも強さも教えてくれたのに、それらを無かったことにするのか?
ここで感じる違和感が、冒頭で言った「ヒーローベースで物語を作る割合」なのです。
サム・ライミ版は、ヴィランに陥る社会的な仕方なさ等を踏まえた上で物語が展開されており、人間くさく、「物語ありき」の映画でした。
しかし本作では尺の都合もあるのでしょうがそれら人間くささが徹底的に排除、過去に作り上げたものも否定するような形で物語展開されており「物語ありき」というより「MARVELありき」としてしか語られていなかったように感じました。
もちろんピーターのヒーローとして生きる覚悟、強さ、成長、そこにフォーカスしているのは分かりますし、素晴らしい作品なのは間違いありません。
しかし幼き頃の私が思い描いていた「"親愛なる"隣人」の親愛なる、の部分が感じられず、寂しい思いをしたのは確かです。
最近のMCUブームは止まりません。キャストや個々の作品が増えれば増える程、それらが複合的に出演する事もある為尺の都合上無駄な物語はなるべく排除しなければならない、その事も分かってはいます。確かにそれも面白いですし、ファンも喜びます。
しかし、演出や派手さばかりに気を取られ、当初のような泥臭さやキャストにフォーカスしたような脚本はあまり見なくなってしまいました。
ヴィランの更生と和解をスパイダーマン作品で教わった後、大人になってみたらその考え方を同シリーズの作品から否定されたような、どこか寂しい気持ちになる、そんな映画でした。
個人的な好みの問題なのでしょうが、ギレルモ・デル・トロがヴィランに肩入れする理由が分かったような気がしました。