やすらぎの森のレビュー・感想・評価
全28件中、1~20件目を表示
ケベックならではの、森と共にある死生観、人生観があふれる。
本作は、深い森に囲まれた湖の映像とともに始まる。そこに身を浸し、気持ちよさそうに泳ぐ年老いた男たち。彼らの誰もが現代社会に別れを告げつつ今を穏やかに生きていることを思うと、ここは実在する天国なのかもしれない。だが、現実のものである以上、平穏も長くは続かない。そのカウントダウンが、さながらこの世の終わりのように思えるのは何故だろうか。本作の最大の特質は、自然がもたらす静謐な日々と共に、数十年前に起こった悲劇的な森林火災の記憶が随所に挟み込まれるところ。焼けた鳥たちが空から無数に落ちてくる逸話も不気味だし、ずっと施設暮らしを余儀なくされた老婆の半生も影を落とす。そんな中で、ある者は死の香りに身を浸し、またある者は生への意欲を湧き上がらせーーーー。物語の展開はどこか漠然としているものの、ケベックが舞台なだけあり、既存の宗教や死生観をこえて目の前の大自然こそを畏怖し信仰するかのような境地が新鮮だ。
ひきこもり
人間が面倒になったら、町よりも森に引きこもった方が自由に暮らせますね。生き方や死に方を自分で選べるって羨ましいし素晴らしいこと。私も自己を持って生きることを幾つになっても諦めたくない。やっぱり自由はいい。
【”自分の人生の最期は、自分自身で決める。”高齢の男女の湖畔での共同生活を通して、人生の晩年を如何に生きるかというテーマを、決然と描き出した作品。愛と再生と、人間の誇りを描いた作品でもある。】
■人里離れた深い森で暮らす年老いた3人の男たち。
それぞれの理由で世捨て人となった彼らのもとに、80歳の女性・ジェルトルードが訪れる。
精神科療養所に入れられ、60年以上も外界と隔絶した生活を強いられてきた彼女は、この地で新たな人生を踏みだすが…。
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・今作の本当の価値は、ある一定以上の年齢にならないと分からないのかもしれない。
だが、私は身体中に管を通され、自らの意思も認められず、只、ベッドで死を待つ現代日本では普通になりつつある最期は遂げたくはない。
故に、隔絶した森に棲み、部屋にはいつでも死ねるように、青酸カリの瓶を置き暮らす、彼らの生き方、死に方を否定したくはない。
・長年、施設に閉じこめられてきたジェルトルード/マリー・デネージュ(アンドレ・ラシャペル)が彼らの元に、遣って来てチャーリー(ジルベール・シコット)と身体を重ねるシーンの美しさ。
アンドレ・ラシャペルという女優さんは資料によると、”ケベックのカトリーヌ・ドヌーブ)と言われていた女優さんだそうだが、実に稚気ある美しさを発揮している。
彼女は、この森に来たことで、愛を得て、再生したのである。
・一方、テッド・ボイチョク(ケネス・ウェルシュ)は、前半で亡くなってしまうが、素晴らしい絵を遺したし、トム(レミー・ジラール)も自分の死期を悟り、自分自身で穴を掘り、愛犬と青酸カリを仰ぎ、最期を遂げる。
ー このシーンは衝撃的ではあるが、上記に記した通り、トムの行為を私は支持する。ー
<日本でも、近年高年齢化が進む中、”老いと死”をテーマにした映画が、毎週の様に上映されるが、今作はカナダの”世捨て人”の男女の生き方、死に方は観る側に深い余韻とともに、人として死ぬとはいかなることかを、語りかけてくる作品であると思う。>
人間の欲はなくならない、エゴも。
シネスイッチ銀座さんでロングランしているので気になって鑑賞です。
前情報ゼロで観ました。まさか、こんな話だったとは。森の中で、老人達が余生を過ごすハートウォーミングストーリーかと思ってたら。大違いでした。死生観を描く作品、最近多いですねー。価値観が変わりつつあるのかな?
価値観、考え方、選択肢の多様化がどんどん進んでいきますね。それは文明が進み、いろんなことが実現できるようになるからかもしれません。人間は生きている限り、さまざまな欲望を満たそうとしますよね。(欲から脱却されている方もいらっしゃるでしょうが)そして、最後のの欲望とは人生の終わらせ方なのかな?
生きがいを見出す=継続した欲望の連鎖・・・だと思います。欲望、希望があるから生きる。それがなくなったら最後の欲望として人生の幕をおろしたくなるのかな?辛さからの脱却っていう理由もあるのかもしれません。
本作は、何種類かの余生を描きます。まさに生き甲斐をどこにおくか?生き切るとはなんだ?を突きつけるような作品です。貴方はどれ?どれになりそう?って。
世を捨てようにも近寄る現実からは逃げられないのでしょう。いつか判断しないと。ある事象でうまく例えてる気がしました。人間は十人十色。それぞれにドラマが物語があるとおもいます。ですから正解はないのでしょう。
ただ、ケベックのおおらかで豊かな光景を見てると小さな人間のあーしたいこーしたいなんて、荒らされた畑なんて自然の中では大した話じゃないのかも?
なんか、精一杯生きるかな!なんて思ったり。
あー、なんか考えちゃうなー、観たら。
あ、どんな事情があっても道連れはダメ!反対!人形にしなさい。その描写は最大のエゴの象徴。大減点。あの感覚だけは全く理解できない。
二元論を超えて
この映画は人を選ぶ。今回、私の評価は比較的高いものだが、たとえ同じ「私」であっても、明日の私が同じように評価するかはわからない。この作品には、恐らく個々人にベストなタイミングというものがあって、それは孤独や死、愛の路頭に迷っている時なのかもしれない。少なくとも私はベストなタイミングで鑑賞したようだ。
それぞれが孤独にどう向き合い、何を克服し、何を克服しなかったか。これが映画のテーマだろう。登場人物たちは様々な形で森と関わるわけだが、誰もが皆、あの森に何かを変える力を信じている。もちろん変わるものもあるが、万能薬などないように、変わらないものもある。登場人物たちはそれぞれのやり方で、その変わらないもの、克服できないものと向き合いながら、自分なりの答えを出していく。絵や自死やギターは彼らなりの答えである。
施設で人生のほとんどを暮らしてきたマリーと、ケベックの深い森で自由気ままに暮らすチャーリーは一見全く違うように見えて、ふとした瞬間に同じ種類の孤独を共有していたりする。マリーが森に入ったことで克服したものがあれば、森で長く暮らすチャーリーにも克服出来ない孤独がある。複数人の孤独とそれへの答えが複雑に交差しながら、物語として一つの大きな孤独の様相が見えてくる。
また、山火事という事象の用いられ方が大変良かった。数十キロ先の山火事が徐々に自分たちの生活を侵食していく様子は、彼ら自身が内側に抱える孤独に徐々に蝕まれていくことを想起させる。それが果たして良いことなのか悪いことなのか、受け手である私たちにはわからない。山火事という事象が個人を深い人間に仕立てた(例えば、テッド・ボイチョクに類稀な絵を描かせた)ことは良いことかもしれないし、一方でそれに殺された(文字通り山火事は多くの死者が出るし、生存者の心に傷跡を残す)ことは悪いことかもしれない。つまり、客観的に山火事=孤独に善悪、良い悪いの判断を下すことは出来ないのである。
山火事が到達したのかわからないまま物語は終わる。恐らく多くの人は、それまでの示唆から「焼けた」という結論を出すだろうが、むしろ多くの人がそのように予想するならば、焼けたシーンを描かないということの意味はない。つまり、皆が描かれなかったシーンを同じように解釈するなら、そのシーンは描かれたも同然であって、そのような選択をする監督は無能である。ところが私には監督が無能とは思えないし、むしろ、ここで焼けたシーンを挿入しなかったのは、焼けた焼けなかったに価値を置いていないからではないかと思えてくる。山火事=孤独が善悪の二元論ではないことを表したいがために、焼けた焼けなかったの二元論を避けた結果が、「描かない」だったのではないか。そのように考えると、この映画の深みが滲み出てくる。
ここでもアメイジング・グレイス
1週間前、亡父の忘れ形見でもある愛犬(16歳)が天寿を全うした。ペットロスにならないかと思っていたけど、どうしても喪失感だけはやや残る。ご主人様と一緒に旅立つのが犬にとっても幸せなのか?などと思い巡らせ、あのシーンでは恥ずかしながら号泣してしまった。一見残酷なように思えるけど、両者とも幸せだったに違いない・・・と思う。
カナダでも山火事が多いのか、山と緑に囲まれたのどかな湖では考えられないような内容だった。ボイチョクが遺した絵画の数々はその悲惨な光景を抽象的に描いていた。日本人の感覚からすれば、空襲にあった都市のようにも思えるし、災害から生き延びた人の心の苦しみをも訴えてきてるかのよう。
個性的なじじいたち。閉ざした心は互いに開こうとしない。プライベートなルールを守って、犬たちと余生を楽しんでいる。犬の名前を呼べば湖に飛び込んできて、一緒に泳ぐ。釣りをして、ギターで弾き語りして、ハッパを育ててエンジョイする世捨て人たち。3人のうち、テッドが心臓発作で亡くなり、そこへ思いがけない来訪者が現れるといったストーリー。
閑散としたホテルの支配人スティーブ、美術館からやってきた写真家のラファエル、そしてスティーブの叔母でもあるジェルトルードが彼らの生活に絡んできて、それぞれの死生観も浮き彫りになってくる。「自分の死ぬ日は自分で決める」。彼らはそれぞれ青酸カリも持っているのだ・・・驚き。
ジェルトルートのつらい日々を感じるより、むしろチャーリーやトムの生き方に共感を覚え、老人になったらこうありたい!としみじみ思う。
そして、鳥が降って来た
原題は、" Il pleuvait des oiseaux "
フランス語、全然わかんねー!って事で機械翻訳してみたら、あの絵画のタイトルだった。全てを失ったことを告げる風景は、絶望の記憶なんですね。
癒えない痛みを抱えながら、森の中で死を待つ生活を送る男たち。
愛によって、生きる事を選択をし直した者たち。
自分の死の時は、自分で決めると決めている男たち。
Tom Waitsの"Time"は1983年作のバラード。抽象的な歌詞は、ササくれた私たちの心に、寒暖が入り混じった過去を想起させてくれる子守唄。
包帯がとれるまでそばにいてあげると彼女は言った
でも そんなママっ子は引き際を知らないものさ
マチルダが船乗りに尋ねる
それは夢?それとも祈り?
目を閉じろ 息子よ
少しも痛くないから
時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時が来たのさ
時よ 時よ
アカーン。これは、これは染みるーーーー。
もう何も残っていない、死を待つだけになった時。自分は何をするのだろうか。なんてことを、真剣に考えこんでしまう映画でした。死の時を思うより、まだ今は、今日を生きよう、と、考え直した次第です。
その場で司法取引らしき事を持ち出す保安官を、おそらく拒否したスティーブ。彼が最初から最後までイケメンで良かったw
良かった。
地味に深く染みてしまった。
アンドレ・ラシャペルの色気
カナダ・ケベック州、人里離れた深い森の湖のほとりの小屋で、年老いた3人の男性が愛犬たちと一緒に暮らしていた。そんな彼らの所に、ジェルトルードという老女が現れた。彼女は、少女時代に不当な扱いを受け、精神科療養所に入れられたまま、60年以上も外界と隔絶した生活を強いられていた。甥の助けで療養所から逃げ出した彼女は名前をマリー・デネージュと変え、第二の人生を踏み出した。日に日に元気になっていく彼女と彼らの穏やかな生活だったが、森に山火事が迫り、住んでいた森の小屋を離れるかここで死ぬか、という決断に迫られる、という話。
カナダの自然の美しさに感動し、死をどう迎えるか、と言う大きなテーマに、こんな最期も有りだよな、って思った。
ひとつ気になったのは、病気になった時に保険証もなくどうしてるんだろうと言う事。医者はなんとか健康で過ごす事が出来ても歯は難しいのでは、と歯科医通院してる今日この頃の自分の状況から気になった。
アンドレ・ラシャペルが80近いのに胸を出してのセックスシーンを演じてる事に驚き、それが張りのある胸で驚き、色気が有って可愛かった。
嫌悪しか残らなかった
テーマや背景に興味があり、正直かなり期待して観ました。こうした人生のなりゆきには共感しましたし、俳優さんたちの演技にも引き込まれるものがありました。
…が、冒頭で「あれ?これって…?」と思った一言、それは曖昧にぼかされてはいたものの劇中ずっと引っ掛かっていたのですが、この言葉の意味がラスト付近で確信になった時、ここで席を立ちたいくらいの嫌悪感を覚えました。
クレジットのあと、登場人物の歌も、全く入ってこなくなりました。あの行為さえなければ、とてもいい映画と感じたことでしょう。すべてを台無しにするシーンでした。
ラストに「撮影にあたり動物に危害は加えていない」旨がクレジットされますが、それだけでは到底ぬぐえない不快感でした。
実生活で犬と絆を結んだことがある人は見るべきではないとまで思いました。
この登場人物たちの人生にはいろいろ共感できるところや、物語のきっかけも興味深いものでしたが…彼らは美しい森の暮らしの中に一体何をみていたのでしょう?
まだ食べるために兎を狩るのは理解できますが、命とはそんな理由で奪ってしまっていいものなの?自分が死にゆく事だけが最重要なの?と、それまでの登場人物の行いをすべて否定するような展開に心底がっかりしました。
自分も観なかったことにしたいくらいで…今年一年、いえ、過去観てきた中で最悪の印象で終わりました。
点数もつけたくありませんが、0.5点は可愛く演技をしてくれた犬たちに、満点の意味で。
とにかくこう感じた人もいるということを書いておくべきかと思いましたので…。
癌で余命1年と宣告されたら 自分勝手だと思われても 残された時間は...
癌で余命1年と宣告されたら
自分勝手だと思われても
残された時間は
自由に使いたい
手術であちこち切られたり
薬漬けにされるなんて
まっぴらごめんだ
自然の中で自由気ままに
自給自足に近い生活をして
人生の終わる時間と場所を
自分で選択する
湖の見える場所で土に還る
理想的な幕引きの仕方
現実には難しいけれど
想像するだけで
心が落ち着いてくる
自由のない世界に
閉じ込められていたマリーが
人生の最後に
幸せな時間を過ごせて良かった
じんわりと重い
ケベック州の大自然が見たくて観に行きました。
自然の中で世捨て人的な生活をしている高齢者たちのノビノビと楽しそうな様子から始まりましたが・・・
物語は「死」の雰囲気をまとって静かに着実に進行します。
自分らしく最期まで生きるってどういうことなのだろう、と考えさせられました。
愛は信念をも変える力があるのでしょうか。
物語に高齢者の恋愛が出てくるたびに想像できない自分がいるけど、現実はよくある事なのでしょうか、西洋も日本も。
心の傷が愛で治れば、それは良薬でしょうけど。
劇中の歌に意味があるのだろうけど、字幕から意味を想像するしかなく、一寸歯がゆかった。
死そのものは悲劇ではない
老いと死は永遠のテーマである。人は歳を経れば必ず老いるし、必ず死ぬ。中には老いる前に死ぬ人もいる。若者の死因の第一位はこのところずっと自殺だ。老いを経験しなくても、人生を終わりにするのは常に死である。ファラオの昔から、人は不老不死を願ってきた。しかし一方で多くの人々が自殺している。人は必ずしも人生を望んでいないのだ。
本作品のテーマも老いと死である。人々の近づかない湖のそばの森の中に掘っ立て小屋を建てて住んでいる。毎朝湖で泳ぐのは淡水浴に排便も兼ねているのだろう。湖の生物の餌になるだろうし、そこで釣った魚を食べる。ミニ食物循環だ。
穏やかで永遠にも思える森の暮らしだが、森林火災の恐怖は常に存在する。永遠の安住の地は地球上に存在しないのだ。大規模な森林火災は町を焼き尽くし、家族や友人を奪う。子供の頃に焼け出されたテッドは、森林火災の絵を画く。あの恐怖は、どれだけ年月を経ても少しも衰えることはない。
人間は社会的な動物だから、社会との関係を完全に遮断して生きるのは難しい。自給自足の生活でも、金融資本主義の社会では金が必要だ。酒好きのトムには特に必要だろう。
男たちに受け入れられたジェルトルードは、病院の薬を飲むのをやめ、甥のスティーヴが作った薬草茶を飲んで、日に日に元気になっていく。この描写は特に頷ける。人体は自浄作用があり、自ら治癒する力もある。薬はそれらをすべて奪い去る。芝を緑化しようとして緑色のペンキを吹き付けるようなものだ。芝は枯れてしまう。水を与え、自然の肥料を少しだけ撒けば、芝は自分で緑色に輝く。
まとまりのない作品だが、テッド、トム、チャーリーの3人の男たちと老女ジェルトルードのそれぞれの人生が、肯定されるべきものとして描かれているように感じた。名もなき人生、たかが人生、されど人生である。別れは悲しいが、死そのものは悲劇ではないのだ。
じぶんだったら、と森の暮らしを想像しっぱなし
自然豊かな描写が多い映画は劇場鑑賞したい。
湖で泳ぎ、緑豊かな環境で衣食住をできるだけ自分たちで賄う。
自由だけれど厳しさもあり、
社会からドロップアウトしているための不自由さや恐れもある。
しかし自分で決めて操られない人生は後悔はないのかも。
ちょっと違和感があったのは、
スティーブはなぜ初対面の女性写真家にやすやすと森の住人たちのことを話したのか?
いくら遠回りさせてもたどり着けちゃうんだし、
想像力使えば自分も窮地にたたされるとか、森の住人たちとの信頼関係だって崩れかねない…
ただ、人生は年齢関係なく幸せになれるという希望を森で愛を深めたふたりの時間は現していた
そして彼女が心身ともデトックスされていくのは清々しいように感じた
鳥が雨のように降ってきた
それまでの人生を捨てて、森の中に隠れる生を選んだ爺さんたち。彼等は自分と飼い犬の死も森の中に埋める。
其処に精神病棟で損なわれてきた老女がやってくる。自然の中で彼女は人生を取り戻していくが・・それにしても写真家の自信に満ちた図々しさは不快。
原題は火に焼かれ堕ちていく自由な存在のことか。
動物は最後まで責任を持って飼いましょう
ヒロインの女優さんは、ケベックのカトリーヌ・ドヌーブとチラシに書かれていたが、なるほど上品で華があり、ありし日の美貌が伺えた。やっぱ美人は、おばあちゃんでも美人さね。
女性写真家ラファエルが美術館の企画で、山火事から生き延びた人を取材し、写真を撮る。そこで複数の人からテッドなる人物の名前が挙がる。ラファエルはテッドを探し始める。どうやら人里離れた森の中で生活してるらしい。訪ねてみたが、彼はすでに亡くなっていた。
このテッドが残したものと、テッドと暮らしていた仲間チャーリー、トムと、この森に物資を運んでいた若者スティーブと、彼の伯母ジェルトルードが絡んでくる。ジェルトルードは、60年も精神障害施設にいたが、知的障害はない。父親の思い込みで施設に入れられ、家族は彼女の存在をひた隠しにしていた。偶然手紙が出てきて、初めて彼女が施設にいることがわかり、兄弟の葬式のため、一時的に施設から外出した。ジェルトルードは施設に戻ることを拒否したので、スティーブが気の毒に思い、森にかくまった。
ジェルトルードは徐々に明るくなるが、ポツリポツリと壮絶な過去が語られる。よく正気を保っていたと思う。失われた時は戻らないけど、人間らしい暮らしができることを祈る。
ちょっと気になったのは、山火事がキーになる割に、その事の重大さが伝わってこないこと。美術館が山火事を展覧会の企画にする、その意味がわからないし、たびたび挿入されるモノクロの火の映像も、何を示しているかピンと来ない。カナダに住んでればわかるの? あと、ラファエルの写真の撮り方がなんかやだ。あれだけの写真で展覧会になるのも、ええーと思った。
自然の中で暮らすには、犬が大切なパートナーになるのは当然だけど、死ぬ時に道連れにするのはどうなのかな。最後まで責任持つのがあるべき姿だけど、あまりにも人の付属品のようで、見ててモヤモヤした。「動物に傷つけず撮影しました」と出たけど、価値観の違いに少し戸惑った。
予告では桟橋が壊れてずっこけ湖に飛び込むシーンがあったけど意外とシリアスだった
旅行行けない症候群の地球の裏側の私たちには、ケベックの奥地の森と湖のカットを拝めるだけでもまあお得。途中、「地球の裏側の中国人や日本人は落っこちないように磁石の付いた靴履いてるんだと思ってた」という何気ない会話が出てくる。その通り。
訳あり老人4人の長い半生と再生・昇天をこの尺で描ききるにはちょっと自分的には無理があると思った。(景色に見とれて、ちょっとうつらうつらしてしまった負い目があるので、あくまでも個人の感想。)
青酸カリを「死ぬ時を自分で選べる自由のためのお守り」として持っておくのは共感できた。だけどまさかほんとに使ってしまうとは、、、。あんなに歌上手いのに!!やっぱり何歳になっても愛する人が側にいるって幸せなことだし、逆もまた然りなんですね。
【向き合う】
この物語は、
命と向き合い、
人生と向き合い、
そして、
自分自身と向き合う作品なのではないか。
ケベックの森は、それを考えるための舞台であり、ボイチョクの残した絵とマリーは、そのヒントなのだ。
燃え尽きたような森に落下してくる鳥。
焼け焦げた森に灯るように描かれた小さな炎。
絶望の中にあっても見出すことが出来る希望はあるのではないのか。
黄色い髪の女性の肖像。
愛した人がいたのだ。
長いこと精神病院に閉じ込められていたマリーが、森で生きる希望を見出したことは、チャーリーの生きるヒントになったのではないのか。
孤独を求めても、人は孤独で生きていくことは難しいのだ。
ボイチョクは、それを絵にして伝えたかったのではないのか。
トムの選択は悲しい。
孤独を求めても、生きる希望は必要なのではないのか。
あの森は、考える場所や時間を与えているのだ。
※ この作品も一部の作品同様、特定の低評価とサブ垢の大量共感で、低評価になってしまっている気がする。
これって、ある意味、前に問題になったどこぞのグルメサイトの状況と似てないだろうか。
営業妨害って疑われても仕方ないよね。
配給会社も抗議すれば良いのに。
ちゃんと管理しなよ。
本当にあるんだろうか、こんな話…。
カナダの大自然の中で、世捨て人となった老人が、ひっそりと暮らす。
そこに、その静寂をかき乱す人達が現れる。
心がすさんでしまった人達はいるとしても、本当にあるのかな、こんな話と思わせてしまうところが、このストーリーにはある。
もう少し、世捨て人の幸福感を描いても、良かったんじゃないでしょうか。
大自然の中で生かされている、そんな神を敬うような、崇高なものを描いても良かったんじゃないでしょうか。
ただ、機械が壊れていくように死んでいく姿を描いても、何か殺伐なものを感じてしまいます。
森林火災を経験した人や、その森林火災を絵に描いた人、それを取材した女性を登場させ、ラストシーンに写真展…、心に残るものが、ちょっとないかなぁ。
やはり、「やすらぎの森」を見せてほしかったですね。
世捨て人の老人達が捨てた過去がずっしりと重くのしかかる、カナダ版『ノマドランド』
ケベック州の山間にある深い森の湖のほとりで人目を忍んで暮らすテッド、チャーリー、トム。彼らはそれぞれ事情を抱えて世捨て人となった老人で、彼らに時折生活物資を持参してくれるホテルの支配人スティーブの支援を受けて愛犬達と共に静かに暮らしていたが、テッドはある朝自分の小屋で息を引き取っていた。そんな折スティーブは父の葬儀に際して叔母ジェルトルードの存在を知る。幼い頃から精神を病んで療養所に送られて親族にも半ば見放されていたジェルトルードは60年以上に渡って世間から隔離されていたが、葬儀に参列した後療養所に戻ることを拒絶する。心中を察したスティーブは彼女を森に連れて行き、チャーリー達に紹介、空き家となったテッドの小屋で暮らすことになる。そんな静かな森にラファエルという写真家が現れる。彼女は昔その森を襲った山火事の生存者を取材している中でテッドの存在を知りスティーブのホテルを訪ねてきたのだった。彼女もまたチャーリー達の生活に興味を示すがその静かな森には大きな脅威が迫っていた。
柔らかい印象のある邦題とポスターイメージですが、内容はむしろ真逆のもの。本作の原題は“Il pleuvait des oiseaux”、“鳥が雨のように降ってきた“という意味。これは山火事の様子を生存者が語る際に森の上を飛んでいた鳥達が炎と煙に煽られて飛べなくなって落ちてきた様を表現したもので、テッドが遺した自作の絵画群の中にも描かれているもの。実はチャーリー達が密かに栽培したマリファナをスティーブが売り捌くことで成立している理想郷に暮らす人達が一体どんな目に遭ってきたかが静かに語られるずっしりと重いドラマ。特にマリー・デネージュと新しい名前を名乗ることにしたジェルドルードが徐々に明るさを取り戻す中であっけらかんと語る過去の悲惨さには言葉を失います。老人達が少年少女のように楽しげに暮らす毎日は眩しいものですが、それゆえにそんな生活が少しずつ色褪せていく様はとても切なくて、静かに訪れる結末を受け止めるのはなかなか辛い体験でした。
全28件中、1~20件目を表示