秘密の森の、その向こうのレビュー・感想・評価
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少女の後ろ姿を淡々と撮る。さすが女性監督。
『異人たちとの夏』とか『さびしんぼ』とか、大林宣彦監督作品をリスペクトしているなぁ♥
少女の成人女性に変わる前のズドーンとした幼児体が、かよわく無骨に何かを探し回る。その後ろ姿をこの演出家は、淡々と追いかける。鑑賞者として色々な思いが揺さぶられる。
最後はちゃんと『さよなら』って言えたね。
詩的で美しい情景。可愛らしい2人の少女。
心が癒されます。
祖母から母そして孫。3代の女たち。
「祖母の死」
後悔と喪失感。
8歳の孫のネリーはおばあちゃんが大好きだった。
祖母の家を後片付けに行く。
その森で秘密基地を作っているマリオンに出会う。
(2人の少女は双子らしい、そっくり!!)
そしてマリオンの家に招かれたネリーは、杖をつくマリオンの母親。
おばあちゃんの家と間取りの全く同じマリオンの家。
ネリーはマリオンに告げる。
「私はあなたの子供なの」
ありそうでなかった設定です。
セリーヌ・シアマ監督はインタビューでこう言っています。
アイデアに詰まったとき、
「宮崎駿ならどうする?」
だから宮崎駿の世界観の影響を受けて作られているとの事です。
祖母の死を乗り越える母と娘の物語。
喪失から再生のファンタジー!!
タイトルなし(ネタバレ)
8歳の少女ネリー(ジョセフィーヌ・サンス)。
祖母が亡くなり、両親とともに祖母が暮らした森の中に建つ祖母の家を訪れる。
遺品整理、実家整理のためだが、何をみても祖母を思い出し、心がつらくなるネリーの母マリオン(ニナ・ミュリス)は、突然、出て行って帰ってこなくなってしまう。
残されたネリーは、森を探検、奥にかつて母親がつくった粗末な小屋を発見し、マリオンと名乗る自分そっくりの少女(ガブリエル・サンス)と出会う・・・
といった物語で、喪失と癒しがテーマ。で珍しいのは、幼い娘が母親を癒すところ。
幼いネリーが幼いマリオンと出逢い、親密になっていく中で、マリオンの母親(つまりネリーの祖母)がいつ死んでしまうかを告げ、不安にならないようにとあらかじめ癒しを施す。
ひとはいつかは死ぬのだけれど、いつ死ぬかはわからない。
わかっていても受け容れられない。
受け容れるには長い時間がかかるかもしれない。
ネリーの母マリオンには、それはそれは長い時間が必要だったのだ。
不思議な魅力のある小品といったところですね。
監督は『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ。
タイムスリップ
亡くなったおばあちゃんの家の片付けにきたネリーの家族。ネリーはママから聞いた森の中での話を探りに森へ1人で遊びに行く。
そこで出会った女の子と友達になるが、その子の名前はマリオン。え?雨が降ってきてそのマリオンの家に行くと、なんとおばあちゃんの家。え?マリオンはネリーのママ。
不思議な出来事をネリーなりに理解して幼いマママリオンとの遊びを数日楽しむ。
現実に戻り、おばあちゃんの家に帰ったネリーはパパにはそのことを話さない。理解してもらえないと思っているのか?最後の日に出かけていたママが戻っていた時、ネリーはママに話したんだろうか?ママは記憶の中に、幼い頃、森でネリーという女の子と遊んだ事を覚えているのかなあ。
心温まるメルヘン。自分の母、もしくは自分の娘とこんな経験ができたらなんか嬉しいなあ。してみたいよ。
ごっことささやき
オタキング氏の発言だが「映画は面白いかどうかを見るものであって、これをわかるかどうかって言い出すとアート系になっちゃうんですね。で、わかるかどうかで言い出すとすっごい作り手は楽なんですよ。」というのがある。
これは園子温を語る回から出てきたもので、それはわたしのような園子温大嫌い包囲網にいる人間にとっては頷き筋肉痛が発生するほど禿同な神回になっているのでぜひご覧いただきたいがアート系でも優れたアート系には面白いという見地がある。だから氏は園映画を“頭の悪い人が好きなアート系”と定義したわけなのだった。
──
映画を見て「わかる」から評価を高くする──ことはしたくない。
「わかる」から高評価すると、つまんなくても支持することになり、じぶんの気持ちにあざむくことになってしまいかねない。から。
とはいえPros側に「面白い」と「わかる」しかないのは不便だ。
アート映画には「興味深い」という見地があると思う。
園子温とセリーヌ・シアマを比べたとき、その引き出しのちがいは、中学生が見てもわかる。
情報量や含蓄や着眼点や隠喩や多様性、バランスと達識と経験値と、それら無形のものが画に込められて「興味深い」という捉え方ができると思う。
その点セリーヌ・シアマ監督の映画は興味深い。なんとなくベルイマンぽい感じもある。イルディコー・エニェディというハンガリーの監督の心と体とという映画があったけれど空気感が似ていると思う。前作燃ゆる女の肖像を興味深く見たが、それは面白く見たと同義だと思う。退屈しなかったんだから。・・・。
このアート系を巡る考えの緩衝地帯にいるのが、例えばウェス・アンダーソンだ。
フレンチ・ディスパッチどうでしたか?俺は面白くはなかったぞ。だけど興味深かったかな。でもあざとかったな。だけど頭の良さはわかりすぎるほどわかった。アンダーソンがやった散文と園子温がプリズナーズ・オブ・ゴーストランドでやった散文なんて比べようがない。だけど業界のウェス・アンダーソンわかってますオーラは好きじゃないな。ムーンライズ・キングダムが一番いいな。・・・。
映画を「興味深い」と、捉えたとき好き(好ましい)という立脚点が加わらなければならない。と思う。
「興味深い」だけだと弱いからだ。例えるならカンヌの「ある視点」。あるいはリューベン・オストルンドやミシェル・フランコみたいな。「興味深い」だけの映画はアート映画というより実験映画に区分される。ような気がする
ウェスアンダーソンはまちがいなく興味深い。だが好きかどうかは人それぞれ。だけどムーンライズは好きだった。──という考察において、ウェスアンダーソン評価がアート系映画を巡る各人の考察のバロメータになろうかと思う。
セリーヌシアマには明らかな好ましさがある。燃ゆる女の肖像はいうに及ばずこれも少女時代の多感をファンタジー風につづっている。なんらかの「ごっこ」によって形成期の心象が語られる。抽象的だが興味深く、好ましかった。
ビクトルエリセのミツバチのささやき(1973)という名画をご存知だろうか。すこし大げさに言うとあれを彷彿とさせた。
母娘の関係はまた独特なのか。
母親と娘との関係は、父親と息子との関係とは、また違う人間関係なのかとも思います。そう思ったのは、実は、家内と(まだ子供だった)娘との口論を聞いたときでした。
息子が小学生でも高学年か、中学生くらいになると、さすがに一端の理屈を構えてくることもあるので、評論子と口論のような状況にもなったりもすることがあります。
それでも評論子には「相手はまだ子供」ということが意識の何処かにはあるのですが…。
しかし、同じ年頃の娘と母親(家内)との口論を聞いていると、まったく対等な「女同士」のような言い争いでした。
(母親=家内の目線からは、相手はまだ子供だという意識は窺えないような感じ。)
そう考えると、本作のネリーも、母親マリオンから聞いた、まだマリオンが子供だった頃の話を、自分と同い年くらいの歳の子供として目の前に現れたマリオンに、何の不思議もなく投影・追体験できるという心情も、あながち判らない訳ではないように思われます。
プロレビュアー氏のコメントによると、本作のセリーヌ・シアマ監督は、女性同士の心情を描くことに長けた方であるとか。
そうすると、本作も、ネリーと母親マリオンとの心情を鮮やかに描いた一本ということになりそうです(まだまだ鑑賞力不足の評論子には、断言ができませんけれども。)
少なくとも、シアマ監督の他の作品もじっくりと観てみたいという意欲が啓発された一本になりました。評論子には。
ネリーとマリオンのおうち
双子の少女というと、どうしてもダイアン・アーバスの作品、ひいてはキューブリックの「シャイニング」を思い浮かべてしまうが、何かしら不穏なイメージがよぎるのは、そのせいなのだろう。もっとも演じる少女たちは双子だが、物語の設定上はそうではない。
タイトルの「秘密の森の〜」も意図的に謎めいたイメージを増幅しているが、原題は“小さなママ”で、いきなりネタを割っている。
上映時間も含めて、小品という感じだ。良質ではあるが、さほど深い感興を呼ぶものでもない。ディテールの描写は丁寧で、印象に残る場面は多いが(少女がスナック菓子を咀嚼する音とか)。
同じ顔の少女を見て、お父さんが何の反応も示さないのがナゾだ。
自然の音が、心を癒やす
優しさに包まれたなら
陰惨な映画だと思っていたが、
全くそんな事のないほっこり映画でした
幼き母親と対面するってどんな事だろう
と思いながら観てたけれど
ただただ一緒にいるのが楽しくて
そして別れるのが淋しくてという
かなりしっとりと描かれていました
おばあちゃんにちゃんとさよなら言えたしね
小さい頃は神様がいて〜というやつですね
私もきっと幼き母親と会えたなら
ああいった感じで笑えるかもな、と思いましたよ
少女の判別に戸惑った
祖母を失い悲しみに耐えかねて姿を消した母と森を探索する少女の出会いを描いた物語。自然の美しい映像が印象的ですがストーリーが曖昧で内容が良く分からなかった。愛らしい少女二人がキュートで魅力的ですが非常によく似ていたので見分けがつかず青と赤の色で判別しました。
2022-210
久々に映像だけに浸る
『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマが監督・脚本という事らしいですが、正直言って私はこの『燃ゆる~』の方はあまりピンとこなかったというか、個人的にLGBTものの作品自体に苦手意識があるみたいなので、その種の作品には積極的には手を出さない人間なのです。
で、本作はLGBTものでなかったせいなのかどうかは分かりませんが、やっとこの監督の凄さや才能を冷静に理解出来たというか、私にとってはほぼ完璧な作品でした。
でも公開時は鑑賞を見送ったのに何故再映で鑑賞したのかというと、私が最近よく見るYOU TUBEの、社会学者で映画批評家の宮台真司氏の動画をたまたま見て本作を絶賛していたので急遽観たくなったのです。
この宮台さん、非常に辛口の批評家で社会や政治については、普段自分が思っていても中々言語化できないモヤっとした感覚を見事に言語化してくれるので、最近けっこう贔屓に動画を見ているのですが、その宮台さんが本作については、傑作だと絶賛している割には何が良かったのかは、いつもの歯切れはなくボンヤリとした表現で素晴らしかったという程度だったので、何処がどう良かったのかを確かめたくて鑑賞しました(笑)
で鑑賞して今まさに感想を書こうとしている訳ですが、傑作であることは間違いないのですが、私も何が良かったかを具体的に言語化するのはちょっと難しく、何から書こうか迷っています(苦笑)
暫く考えたのですが、そもそも論で言うと映画(芸術)って元々が言語化出来ないものを映像で表現する道具ではないのか?という事に立ち返りましたよ(爆)
しかし、商業映画・娯楽映画という表現ばかり観ていると説明が無いと分からない人達が増え、そういう人達が本作を観ても説明はほぼ無いので難しいという事になるとは思いますが、言語化して説明し難い微細な感覚や感情をテーマとして扱う作品の場合、如何に直接心に訴えるかの伝達手段として、その最大の武器(表現方法)として存在するのが映像でありアートだと思います。
本作の場合、誰の人生に於いても絶対について回る“別れ”“決別”“孤独”“哀しみ”等々、その時に湧き上がる感情をたった73分で映像表現するセリーヌ・シアマ監督の才能に驚嘆させて貰いましたが、冒頭車を運転する母親の口に後ろから娘がお菓子を入れるシーンからラストシーンまで、ずっと一貫して母と娘の繋がりの作品でした。
【”こんにちは、さようなら・・、Petite Maman・・。”今作は、8歳の少女を主人公に、時を越えて三世代を繋ぐ、喪失と癒しのファンタジックムービーである。】
■ネリーは、亡くなった祖母も自宅を片付けるために、両親と森の中の家を訪れる。だが、哀しみから、姿を消してしまう。
時間を持て余し、独りで森で遊ぶネリー(ジョセフィーヌ・サンス)の前に、”マリオン”と言う、母と同じ名前の同じ八歳の少女(ガブリエル・サンス:勿論、ジョセフィーヌとは双子である。)が現れる。
そして、ネリーが”マリオン”に自宅に誘われると、そこは祖母の家だった・・。-
ー 資料によると、このファンタジックな作品を撮影している時に、セリーヌ・シアマ監督は迷いが出ると、”宮崎駿監督ならどうするか?”と自問したという。
現在、愛知県では”ジブリパーク”が絶賛公開中であるが、宮崎駿監督の影響は大きいのである。-
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・出会った少女の名が母と同じ名前の、”マリオン”で、自宅が祖母の家とくれば、この物語が時を越えて、三世代の血のつながった女性の物語だと分かる。
・ネリーと”マリオン”は、仲が良く、森で遊んだり、クレープを焼いたり・・。
・”マリオン”のお母さんは、杖を突いているが、(冒頭、杖をマリオンが貰うシーンがありますね。)若くて、ネリーにも優しい。
■巧いのは、居なくなった母と思われる女性が祖母の家の一室で、背中を向けて寝ているシーンをサラリと映し込む場面である。
・ネリーは”マリオン”に”貴女は私のお母さんなの。”と語り掛けるが、”マリオン”は驚きもせずに、ネリーの母の事をサラリと聞く。
<今作は、ネリーの祖母の家の周囲の自然描写が美しく、且つ三世代の女性達の、世代を超えた喪失と癒しの物語なのである。>
<2022年11月6日 刈谷日劇にて鑑賞>
シュールなファンタジードラマ
物語の視座がネリーに固定されており、スタイル自体は児童映画のように捉えられる。しかし、実際にはそう簡単に割り切れない不思議な作品である。祖母の喪失、母の不在によるネリーの不安や戸惑い、孤独がリアルに表現されており、大人が見ても十分に堪能できる作品となっている。
森の中で育まれるネリーとマリオンの交流もどことなくシュールである。そう思わせる最たる要因は、ネリーとマリオンを双子の少女に演じさせた点にあろう。一応着ている物や髪型などで差別化はされているが、同じ容姿の少女が並んで遊んでいるのを見るとなんだか不思議な気持ちになる。
そして、映画を観ていれば容易に想像がつくが、マリオンはネリーの母親の幼き頃の姿なのである。ネリー自身もそれは知っていて、それでも尚、自然とマリオンを求めてしまう。それは母の不在からくる寂しさなのであろう。
自分は最初、これは孤独に病んだネリーが創り出した妄想の世界なのではないか…と思った。しかし、どうやらそうではないということが中盤の父親との会話から分かってくる。父親にもマリオンの姿が見え、実在する者としてそこに存在しているのだ。こうなってくると益々このシュールな世界観に惹きつけらてしまう。
こんな感じでネリーとマリオン、同じ容姿をした少女の交遊が続いていくのだが、やがてそこから一つの真相が明らかにされていく。この計算されつくされた構成にも唸らされてしまうばかりだ。最終的に母娘の絆という所に帰結させた脚本も見事である。
監督、脚本は前作「燃ゆる女の肖像」が評判を呼んだセリーヌ・シアマ。残念ながら前作は未見なのだが、本作を観る限り演出は淡々としていながらも、ヒリつくような緊張感漂う映像にグイグイと惹きつけられた。また、終盤におけるBGMの使用もドラマチックな効果を生んでおり、中々の手練れという感じがした。
ただ、個人的には1点だけ気になったことがある。それは、あれだけ祖母のことが大好きだったネリーが、生前の祖母にそれほど執着していなかったことである。マリオンとの交遊に焦点を当てた描かれ方をしているので、祖母の存在が希薄に映ってしまった。これについてはどう捉えたらいいのだろう。少しだけ不自然に感じてしまった。
少女2人のやりとりが、心底可愛らしいのです
Au revoir !
ミニマルな舞台説明、小気味よい場面展開、シンメトリックとしてのタイムパラドックスの場面構成、どれも削ぎ落とした情報のみのミニマルさに仕上がっている作品である
先ずは子役二人の、例えは悪いが"小動物感"溢れる自然な演技や表情と、しかし芝居としては8歳の女の子にはかなり困難な秘密基地建設や芝居ごっこ、ボートでの冒険等をハラハラ感を充分演出させているそのギャップにやられてしまう。ストーリーそのものもキチンと伏線が回収されるニクい建付けにも質の高さが窺える。
淡々としたストーリー展開の中でも二人にしか通じ合えない大人のウィットを散りばめた深刻な会話や、共にお互いを慈しみ合う情景に、愛おしさがスクリーンから滝のように溢れ出て、歳を取ったせいか中盤から目がウルウルしてきてしまう有様であった。大人では捻り出せない、子供だからこその柔軟性と許容量の広さを活かしたプロットが今作品のキモであろう。
ヒューマンファンタジーの真髄を今作品では発揮していると思う。
物足りない
短いのはいいし、こんな感じのさりげないSFはすごく好みなのだけど、その結果特に何もないのが物足りない。うちの小2の男の子と同年齢なのだけど、二人ともずいぶんしっかりした子だ。
母親と仲良くしたかった過去の少女の自分へ
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