アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイドのレビュー・感想・評価
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【AIが人類の知性を越える「シンギュラリティー」の到来が問われる現代、”人間の心の複雑さをAIは越えられるのか・・”と言う深い命題をコメディ要素を絡めて、観る側に問いかけてくる作品。】
ー 今作は、AIが人類の知能を越える「シンギュラリティー」が到来する時代が近づきつつある、現代、観る側に”それでも、人間の心の複雑さをAIは越えられるのか・・”と言う、深い命題をコメディ要素を絡めながら、問いかけてくる作品である。-
◆感想
・楔形文字の研究者アルマ(マレン・エッゲルト)は、彼女の好み通りに振舞うハンサムなAIロボット、トム(ダン・スティーヴンス:彼の美男振りと仕草が、本当にAIロボットのようで、見事である。)と三カ月の実証実験での、同居生活を送る事になる。
- 料理も、掃除も微笑みも完璧なトム。
けれど、アルマは何故か、それが我慢出来ない・・。”人間だからね・・。”-
・アルマが三年掛けて研究してきた楔形文字解釈の論文が発表され、荒れるアルマ。
それでも、健気にアルマに尽くすトム。
トムは実は、アルマが小さかった頃から好きだった、トマスの風貌を反映させていた。
それにより、徐々にトムに惹かれていくアルマ。
そして、酒に酔ったアルマは、トムとベッドを共にするが・・。
ー ”オーガズムってどんな感じ?”とトムはアルマに問う。
AIには、分からないでしょう・・。分かったら困るなあ・・。ー
・アルマが独身を貫いていた哀しき理由も、明らかになり・・。
- 最初は理性的な振る舞いをしていたアルマが、徐々に奔放な人間性を取り戻して行く姿。
それを、優しく微笑みながら、けれどアルゴリズムを少しづつカスタマイズして、彼女と戯れるトムの姿。-
<”近い将来、人間とAIロボットの関係性が、今作の様になれば良いなあ。”と思った作品。
ドイツ語の響きが、ロボット風に聞こえてしまうのは、私だけであろうか・・。
柵を乗り越え、知情意の全てを傾けて、トムと関係性を構築していく、マレン・エッゲルトの演技も流石であるなあ、と思った作品でもある。>
スタートがマイナス過ぎてアンドロイドを応援したくなる
2022年劇場鑑賞10本目。
人間そっくりの外見に、情報処理能力はコンピューター、理想の恋人を演じるために数千万人の女性から得たデータをアルゴリズム化しているアンドロイドを3週間モニタリングする事になった女性の物語。
モニタリングの見返りに研究費を出してもらえる事になっているので参加しましたが、恋愛に否定的に加え、人間ではないアンドロイドに拒否感があるので最初からアンドロイドにめちゃくちゃ冷たいのが斬新です。
こういう映画って恋人が欲しいってなって理想の恋人だけど機械ならではのギャップもあってそこが嫌になってきて・・・みたいなパターンが多いと思うのですが、もう最初からとにかく干渉しないで、何言っても無駄、興味ないみたいな感じで接するので、これ人間だったら1時間で心折れるわ、くらいのぞんざいな扱いを受け続けるアンドロイド・トムに同情してしまいました。
そこが面白いのですが。
しかしこれだけのアンドロイドを開発できる未来なのに、他の技術は全く発展していない、そんな設定考えるの面倒くさいぜ!という事と、ヒロインの周りに色々な人が出てくるのですが関係性をなかなか説明してくれず、会話聞いたら推理出来るだろ!という丸投げ感がすごかった映画でもありました。
字幕が極端にマニアック過ぎる…(補足入れてます)。
今年12本目(合計286本目/今月12本目)。
このタイトルだけではわかりづらいのですが、原作は Ich bin dein Mensch であることからもわかるとおりドイツ映画で、話されているのもドイツ語です。
趣旨としては他の方も書かれているように、アンドロイドとの恋愛は成立するか、といった哲学的な内容で(ドイツ映画っぽい…)、このタイトルだけで恋愛ものかな?と思っていくと肩透かしを食らいます。
こうした内容は他の方も書かれているとおり、リアル現在(2021~2022)でも急速に開発が進んでいるところであり、近い未来にできるとも、できないともいえない(実際、プロ棋士に勝てる将棋ソフトは100年はできないだろうと言われていたのがひっくり返されたのが最たる例)ところで、内容も哲学的な「AIとの恋愛は成立するのか」「AIはどのような自己学習プログラムが最適なのか」といったところに入ってしまっているので、ここの解釈は個々人、見られた方でかなり変わってくるのではないか…と思えます(その点では、かなり理系チックなストーリー)。
このような事情なので、主人公(主人公をどちらに取るかは考え方は分かれそう)の発言はきわめてAI的で、かつ「理論的には正しいがそういうようには言わない」というような発言が結構多いです。この映画はその度合いが「一般的に理解できうる度合い」を超えているのではないか…(英語かドイツ語か、あるいは他の言語からでないと推測が付かない)部分があり、もはや「文法理解大会」な状況になっている部分があります(後述)。この点では文系(特に、英語かドイツ語)の知識が要求されるという状況で、両方の知識がないとおいていかれるという特異な字幕です。
一方で、明治維新の後、日本が熱心に学んだ言語はドイツ語とフランス語などであり(これらは日本の民法の参考になった。日本の「今の」民法も、元はといえば、ドイツ民法とフランス民法を足して2で割ったような内容)、このため、明治時代から「慣用的に使われている表現」(例えば、ドイツ語学習で特有な「1格」「2格」といった表現)は、現在の平成~令和の時代でもそのままで、その理解があって、さらに英文法等の知識を要求してくるという鬼難易度で、「字幕のマニアックさに押される」「第二外国語がドイツ語というレベルでは逆に混乱する」という特異な内容を含んでいます。
ということで採点です。
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(減点0.3)「仮定法のような難しい表現はしないことにするよ」という字幕(序盤5分ごろ)の部分にほぼほぼ全部が尽きてしまうように思います。
この「仮定法」が何を指すのかが非常にわかりづらく、英語とドイツ語の両方の知識をフル動員して、さらに学校英文法で習う範囲を超えた理解を要求するので、鬼難易度の字幕になってしまっており、ここはもう何らかの配慮は欲しかったです。
(詳細は下記にて)
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▼ 「仮定法のような難しい表現」の「仮定法」が意味する内容
・ まず、一般的な学校英文法では、英語の「法」としては「直説法」(「せつ」は「ごんべん」の「説」なので注意。直"接"ではない)、「仮定法」という大きく分けて2つの法があります(詳細を書き始めると5000文字に収まらないので適宜省略)。
ところがドイツ語を一般的に把握しているレベル、つまり、第二外国語でドイツ語を取ったよという方(換言すれば、外国語学科等でドイツ語専攻でない、ということ)だと、「あれ?ドイツ語に仮定法ってあったっけ??」という疑問が生じます。ドイツ語にあるのは「接続法」だからです。
しかし、接続法にも「接続法1式」「接続法2式」と呼ばれるものがあり、ここでいう「仮定法」というのは、結局のところ「接続法第2式」にあたるのです。
一方で、英語で「仮定法」というと、「もし~~なら」という、Ifを用いた表現が考えられますが、これらがすべて仮定法になるとは限りません。
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・ もし明日雨が降ったら、試合は中止だ。 ← 雨が降るか降らないかは五分五分。このような条件(雨が降る)を「開放条件」といい、このときの英文法は一般的な理解では「直説法」です。 ※ ドイツ語でも直説法
・ もし私が大金持ちだったら、あなたを助けてあげられるのに。 ←「お金持ちではない」ということを示唆(発生確率が0%であることを意味する)。このような条件(お金持ちなら)を「却下条件」といい、このときに使われるのが「仮定法」です。 ※ ドイツ語では接続法
※ なお、明示的に「条件法」という法を設定する言語(フランス語等)もあります。
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さらに、これらは「法」の概念であるところ、英語(他の言語も同じ)はさらに「時制」という概念があるため「仮定法過去」や「仮定法過去完了」といった「法と時制の組み合わせ」があり混乱度合いが高い上に、さらに「仮定法現在」という「意味内容的に仮定的内容が存在しないが、分類的に仮定法に入る」というものすらあります。
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※ これらのことが英語では意識されないのは、英語では「法や時制、人称による動詞の活用が大半失われている」(事実上、三単現の-sと、過去形の-edルールしか存在しない)という実際上の問題もあります。
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つまり、この字幕でいう「仮定法」というのは、「(英語でいう)Ifの中でも、およそ起きえない条件(却下条件)を想定した場合を想定した表現」を指すところ、「普通の条件」(「雨が降ったら」など)を「含まない」という点を理解していないとハマリ現象が発生します(←開放条件で用いられるのは直説法であるため)。
正直、字幕の裏事情が極端にマニアックな上に、さらに裏では文法の非常に細かい内容を問うてくるという極端な難易度になってしまっており、一般的な理解で「仮定法という表現は使わないようにするよ」という字幕は「英語と、英語以外の他の言語の文法を概ね把握している」レベルでないとハマリ現象が発生します。ドイツ語では仮定法という教え方をしないからです。
ここまでくると、そもそも「仮定法って何?」というレベルでも結構理解が難しいのに(関係詞と並んで、英文法で理解が難しい内容の代表例)、さらに「ちゃんとした理解がないとハマリ現象が発生する」という「裏ではマニアック過ぎる」内容が入っており、「なんでそこまで配慮の足りない字幕にするかなぁ」というところにしかならないと思います。
哲学的にも深い話だった。実際、他者も想像や記憶と無関係ではないの...
哲学的にも深い話だった。実際、他者も想像や記憶と無関係ではないので、DVとかひどい人よりも、AIロボットの方が癒やしてくれる機能など否定できないだろう。ラストシーンが良かった。男優さんの動きも良かった。効用を予測したシステムとそれを再帰的に確認することが、他者性とどう相容れないかは、リアリティとしてよく伝わってくる。主人公は、あえて暴力で彼に向かうのは対照的。
アナタは死の直前に、神に祈りを捧げるか!
夢のような素晴らしいロボットだ。
良き伴侶で、良き片腕なのかもしれない。
そんなに素晴らしいロボットならアナタは自分の伴侶にしますか?
過去の記憶の一部によって作られたロボットなどで、
アナタの未来を担えるロボットができるなんて失礼な話ではある。
アナタは死の直前に、神に祈りを捧げるか
とてもいい映画だった。
最後の場面の質問にアナタは、
どんな答えを出すのかな?
アルマは人間である。傷ついた過去を持ち、パートナーと別れてからは独りで暮らしているが、現状を変えようという気持ちはない。ドライなアルマにとって、完璧なパートナーになるようプログラムされている機械を手元に置くなど、考えもしないことだった。
しかし、上司から実証実験への参加を頼まれ、しぶしぶ3週間ヒューマノイドロボットのトムと生活することになる。
彼の機械学習アルゴリズムには1つの目的しかない。彼女を幸せにすることだ。
「未来を築くには過去が必要」とトムは言った
トムを追って車を運転するアルマ。停止していたら、男の歩行者と車の運転席の男が激しく罵りあっている。それを見ていたアルマに歩行者の男は、なに見てるんだ、このクソアマ!のようなことを言う。アグレッシブな物言いが多いベルリンだから十分あり得る。でもそれと関係なくこの場面で私はトムを思った。ちょっとふざけたり他愛のない嘘まで言える程になったトムがアルマに(そもそも女性に)対して悪口雑言を言うことは決してない。報告書でアルマは、ロボットを人間の伴侶にすることは不可能であるとし反対する、なぜなら人間との交流ができなくなるから。女は侮辱されることが多く女は出産するものという考えが相変わらずの世界で、ひたすら自分の幸福のためだけに居てくれるロボットが伴侶だったら人間社会では生きていけないからということだろう。甘やかされすぎてしまうから?半分わかる。でも憎しみの塊みたいな人間より穏やかなロボットの方がいいと思う自分が居る。
写真や思い出話から自分の過去を共有してもらい、さらにまだ未知のことが多い人類の歴史も共有することができたらロボットと一緒の未来を築くことはできるかも知れない。過去の共有は人間同士だってするから同じことだと思う。共有しようとしても何もわかってくれない人間も居る。だからインプットしてくれるロボットの方がいいかも知れない。ロボットとの共生の可能性は考えるに値することだと思う。エッジの効いた建物と昔の博物館が混在する都会と、森があって鹿がいて(沢山の鹿とトムの共存の光景が不思議で美しい)裸足で駆け回れる野原があるベルリンの二つの風景を行き来しながら、アルマがトムと一緒にトムを媒介にして自分を振り返り見つめて笑い怒り涙を流せて良かった。
最初のダンスホールの場面、朝食、バスルーム、リビングの整理整頓にはとにかく笑えた。一方で、完璧な「3分・半熟卵」を用意しても相手が風邪ひかないようにブランケツトをかけてあげてもトムにはわからないんだ、私は何をしているんだとアルマは涙を流すが、何をやってもまるでわかってくれない人間なんて沢山いる。人間は自分が思いたいように相手を理解しているだけだと思う。自分の本当だって適当に誤魔化しているんだから相手の本当なんてわかるわけがない。でもこの映画は私を絶望させることはなかった。相対的な思考スタイルを提示してくれた。それはとっても大事なことだと思う。
おまけ
ダン・スティーヴンスの演技素晴らしかった!話し方、視線、眼差し、歩き方、完璧!ロボットのようでロボットでない、人間のようで人間でない。そんなトムは私に悲しみと優しさと懐かしさをプレゼントしてくれた。音楽もとても良かった!
旧国営放送でAIでニュース読むようになった。まぁ、民間放送は見習って、コメンテーターも含めて、CGとAIを多様すれば、人件費を大いに削減出来る。同時に宣伝費を削れば、日本経済の復活に繋がる
AIは人間を超えられるかと言った議論があって、レンブラントの絵をAIが書いたとか言った話もある。しかし、そもそもレンブラントの模倣であり、レンブラントを超えてはいない。つまり、AIは人間を超えられないのである。それは言わずもがななのであるが、問題はその絵を鑑賞して心を動かしてしまう所にあるのではないかと考える。言い換えれば、受けての人間の知識や知恵の退化にあるのだと思う。
将棋でAIに勝つのは容易である。コンセントをプラグから抜けば良いのだ。そもそも、AIはガテン系の仕事が出来ない。
人間が考える事をAIが代わりにやると言う訳だから、人間が退化するのば当然である。
AIの握った寿司は食べたくない。
勿論、この映画には共感出来ない。高い南極二号に翻弄されたくない。
さようならのアルゴリズム 見たいな映画だと思っていたんだけど。
やっぱり、スター・トレックのデータの方が良い。この映画は真面目に考えすぎ。ファンタジーであるべきだ。アレックス・シアラー見たいな話で良かったんだけどね。
AIアンドロイドでもいいけどな
2022年1月10日
映画 #アイム・ユア・マン
#恋人はアンドロイド (2021年)ドイツ映画鑑賞
自分の理想の恋人として完璧にプログラムされたAIアンドロイドがいたら、自分なら愛するかどうか・・・悩みますね
そんなことを考えさせられる映画です
@FansVoiceJP さん試写会ありがとうございました
実は哲学かも
AIは人間になれるのか。
恋愛対象になるのか。
おそらく、学習していくうちに人の心の機微を学んでいき、それらしい行動や反応を外的に示すことができるようになるだろう。この物語のトムのように。
生身の人間からすると、愛おしい存在になるのだが、
全面的に受け入れて浸れれば楽園だろう。
しかし、少しでも懐疑的になったり、自分自身の欲望を叶えてくれる事に違和感を覚えたら、やはり単なる欲望現実化マシーンでしかない。
つまり、どんなにテクノロジーが進歩しても、人間の心はアルゴリズムの限界の外を求める。想定外の驚きやトキメキを。
この主人公のように思慮深い人と、あまり深く考えない人との違いも大きい。
SFラブストーリーの形をしているが、中身は哲学的。
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