白い牛のバラッドのレビュー・感想・評価
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イラン女性を象徴するメタファー
本作は音(サウンドデザイン)が重要な要素となっているように思う。刑務所のドアの開閉音、画面外の風の音や鳥の鳴き声、主人公のミナが働く牛乳工場のベルトコンベアーの音など、単なる自然音や生活音ではなく、そのシーンや登場人物の心情などを表現する音へのこだわりを意識して欲しい。ミナの映画好きな愛娘がろう者の設定なのは、声を発することができない、意見を言っても聞いてもらえないイラン女性を象徴するメタファーだという。 また画面構成も特徴的である。画面内の登場人物たちが窓(四角い枠)を背景にしていたり、鉄格子やドア越しのシーンが多い。これはフレーム(画面)内にもう一つのフレームを作りだし、その枠が二人を隔てたり、閉じ込められたような効果を生んでおり、音とあわせた演出の統一性、相乗効果を感じることができる。 ちなみに、牛は世界では神の使いとして神聖視する地域もある。“白い牛”はヒンドゥー教のシヴァ神の乗り物とされているが、イスラム教の祭礼で牛はいけにえとして捧げられるという。真実を知ったミナが最後に下した決断を、あなたはどう捉えるだろうか。
冤罪、死刑、男女格差。世の理不尽に声を上げる監督・脚本・主演のマリヤム・モガッダムに敬服
イランでは表現の自由が保障されておらず検閲があり、特に体制を批判するような作品は公開が禁止されたり、作り手が逮捕されたりする(ジャファール・パナヒ監督の境遇がよく知られる)。 そんなイランで女優として30年近いキャリアを築いてきたマリヤム・モガッダムが、冤罪や死刑といった国の法制度の問題点や、男尊女卑が今も根強いイスラム社会を題材にしたこの劇映画で、主演だけでなく脚本・監督(ベタシュ・サナイハと共同)も兼ねている。この映画を企画し、完成させて世に送り出したこと自体が、並外れて勇気ある行動であり、とてつもない快挙として敬服に値する。 死刑執行を続けている日本にとっても、無関係な話ではまったくない。先進国38カ国が加盟する経済協力開発機構(OECD)で死刑制度があるのは、米国、日本、韓国(ただし20年以上執行されていない)だけだとか。米国では昨年、バイデン政権が執行の一時停止を発表した。いや、人権に関しては日本は後進国なのだと認めるべきかもしれない…。 それにしても、胸が痛むストーリーだ。夫が殺人の罪で死刑執行されたのち、冤罪だったと明らかになる。残されたシングルマザーのミナには、聴覚障害で口のきけない幼い娘がいる。判決を誤った裁判官に謝罪してほしいと訴えるミナだが、会ってすらもらえない。引っ越しを余儀なくされるが、未亡人は家も借りられない…。 表現が不自由で厳しい環境だからこそ、並々ならぬ意志と情熱が込められた作品が世に出てくるのかもしれない。イスラム社会における女性像という点では、先述のパナヒ監督の「ある女優の不在」や、モロッコの女性監督マリヤム・トゥザニのデビュー作「モロッコ、彼女たちの朝」に通じる。罪のない夫を“殺された”妻、理不尽な裁判など、トルコ系ドイツ人監督ファティ・アキンの「女は二度決断する」に共通する要素もある。これらの映画を高評価した観客なら、きっと「白い牛のバラッド」も気に入るだろう。
不可逆について考えさせられる
不可逆という言葉がある。死刑制度においては、人が人の命を奪うことの倫理的な是非や、人の下した判決に絶対というものはないという論点もよく取り上げられるが、いずれにしても死刑執行してしまうと、失われた命を再生することは不可能だ。この映画に登場する男女はいずれも不可逆の闇に囚われた者たちと言えるのかもしれず、まったく異なる人生を歩みながら、神の名のもとにある法制度を真っ向から疑わざるを得ないような事態に直面する。彼らは「神の思し召し」という言葉で自らの苦痛を和らげようとは決してしない。その上で、期せずして巡り合った目の前の相手を唯一のよすがに、日々の暮らしに微かな灯りを見出していく。白い牛についてもう少しわかりやすく触れてほしかったし、ドラマティックな展開を期待してしまった自分もいる。だが二人の静かなる関係性には見応えがあり、ラストシーンには、映画ならではのささやかな不可逆へのあらがいを感じた。
分かるけど黙ってては…
駄目だろう。無実の人に対して死刑判決を下してしまった贖罪の意味もあって、近付き財産を与え、面倒を一生見ようとしたのか。イランにおいて子持ちの未亡人ほど生きにくい中で、優しい男が寄ってきたら頼ってしまう、これは正体を明かさなかった判事がやはり悪い。裏切られたミナの心中たるや計り知れない。ラストは復讐せず、出ていってしまったのだろうか。復讐のシーンは彼女の妄想なのか、引いたはずのルージュが部屋から出ていく際には消えていた気がする。
気の毒なミナ
夫が死刑になって1年後、冤罪だったと連絡が来る。そんな〜😱😭😡今更そんなことを言われても夫は帰ってこない。謝罪もない。いくら夫は戻らなくても、せめて謝ってほしいよな〜。でも娘の体操服も買えないのだから、慰謝料が入るのは助かるけれど、かなり先になる様子。せめてすぐ支払ってあげて欲しいものだ。ミナには同情しかないが、気になることは、娘に父親が遠くに仕事に行っていると言っていること。死刑になったとは言いづらいにしても、死んでしまってもう会えない、ってことは伝えたほうがいいのでは?と思って見ていた。 夫の親友と言って現れた男性にだんだん惹かれていくミナ。でも実は、、、そんな近づき方するなんて卑怯だぞ😫知ってしまったミナの気持ちを考えると気の毒としか言いようがない。そしてミナのとった行動は。 あーこの先、ミナと娘はどうなるのか。 冒頭の牛の場面が??気になる。
上映禁止のイラン映画
冤罪で死刑になった夫、残された妻は聴覚障害の一人娘と気丈に暮らしていた。 ところが真犯人が名乗り出て、夫の冤罪が明らかになるのだが、賠償金だけで名誉の回復はなされなかった。 そんなとき、亡き夫の友人が訪ねてくる。 監督、脚本も兼ねる主演女性がとても美しく、気品があった。
贖罪
夫が殺人で死刑判決、その後無罪と判明。残された家族と死刑判決を下した判事との映画。最初から謝罪してればそもそもこの映画は出来ない。 金銭的援助で家族を支えていくが、正体は言わないまま。ラストに向け結末は謝って終わりかと思ってたら。。。話題作なので見て感じて頂きたい。
とても悲しい物語
観終わって思ったのは、とても悲しい物語。
この女性の選択は、怒りに身を焦がした結末だったのか。
彼女の身に起こったことはとても悲しく許されるべきものではないのかもしれないが、彼女の取った行動は自己満足で忌むべき副作用を産むことに哀しみを覚えた。
また国における冤罪の発生率の高さもあるだろうが、この物語ではその点をフューチャーしてる訳ではない。
イラン映画の豊かな語り口を実感する一作。
刑務所を連想させる塀に囲まれた一頭の白い牛、というイメージが強烈な印象を残す一作。映画の内容も抽象的で難解なのかと思ってしまいますが、物語の筋自体は具体的かつ明確です。夫を死刑で亡くした女性が、夫の冤罪を知り、死刑判決を下した判事達に謝罪を求めていく経過に沿って物語は進みます。個人の権利、特に女性の権利が十分に保障されているとは言いがたいイラン社会で、一人の女性が、死刑制度に対する異議申し立てという、政府批判とも受け取られかねないような声を上げようとすることで、様々な波紋が生じます。そんな彼女のもとに、親切だが素性が知れない男性が現れることで、物語は意外な方向へ進んでいきます。 やはり制度への異議申し立てが当局を刺激したのか、本作は本国イランでは上映禁止の措置が下されました。しかし本作がすごいのは、主役の女性を監督自ら演じており、さらに主要な制作スタッフが国外在住であるにもかかわらず、監督はあくまでもイランに留まり本作を制作したところです。本作の描写を観るに、女性の監督が本国で映画制作を続ける困難さを思うと、思わず鑑賞しながら背筋が伸びます。
死刑裁判の難しさ
テヘランの牛乳工場に勤めるシングルマザーのミナは、夫を殺人罪で1年ほど前に死刑に処されていた。聴覚障害で口のきけない愛娘ビタと2人で暮らしていたが、ある日、裁判所に呼び出され、事件の真犯人が夫ではなかったことを知らされた。謝罪を求めたが、担当判事に会うことさえ出来なかった。そんな折、ミナのもとに夫の友人だったという中年男性が訪ねてきた。親切な彼に心を開き、家族のように親密な関係を築いていくミナだったが、実は・・・てな話。 イランの法律はよくわからないが、証言だけで死刑は今時きついなぁ、って思った。 最後のホットミルクのシーンは妄想なんだろうけど、なかなか難しい対応になるだろうとは思う。
未亡人も離婚したオンナも前科者扱いのイスラム社会で。
あー、なんか最近、飲み込めて来た。イラン映画。あれですよ。一発の衝撃狙い。インパクト追求型、って言うか。一発ホームランの大振り、ワンスイング主義、って言うか。
だがだがだが。
処刑されたダンナの知り合いだと名乗る、この、謎の紳士の正体がですよ。うっすらと想像できたりする訳で。あー、来たよ。やっぱりだよ。と言うか、そういう風に謎がバレる訳ね。
で、鍋で沸騰するミルク。ヘロインですかね?過剰摂取?
捕まれば死刑は間違いなし。
イスラム教徒は牛を食べても良いが、気絶処理(スタニング)の後に絶命処理される。一方、宗教処理(ハラール)では、意識があるままでと殺が行われます。意識のある動物に苦痛と恐怖を与えるものであり、現代社会では忌諱されているものです、が。
白い牛のバラードとは、ハラールなんですね。繰り返し見る夢の中に出てくる白い牛は、彼女の深層心理に眠っているハラールの欲求であったと思われ。ゆえに、恋心を抱いている相手であっても躊躇が無い。衝撃的なオチでしたが、これがイランの流儀だと分かって来ると、あーそうですか?的なガッカリ感もあったりして。
結構、微妙だった。
よかった
宗教と司法の結びつきが強くて怖い。冤罪で死刑になっても、神の思し召しと言われる。主人公は、夫の判決を導いた判事を憎んでいるのだけど、その判事の一人と正体をしらずに親しくなる。体を許したようなことがほのめかされる。その判事は判事で長男に死なれてしまうし、つらい。
大家の権利が強くて、独身なのに自宅に夫以外の男を招き入れたことで契約を解除される。人権の扱いが軽い。旦那さんの実家の人たちもひどいし、女性が生きづらい。シングルマザーで育児して工場で働いて、内職までしてあまりにハードだ。
社会も厳しいし、個々の人生も厳しい。判事が娘と手話を習いながら会話していた場面がとても暖かいのだけど、その直後に正体がばれるので、きつい。
【”不条理過ぎる現実・・。過ちを素直に認め、直接謝罪して欲しかった・・。”イランの司法制度、死刑制度の在り方及びイラン女性の生き難さをマリヤム・モガッダム監督が世界に発信した作品である。】
■物語はコーランの一節 雌牛の章から始まる。 ”モーセは民に言った”神は牛を犠牲にせよ”と命じた。民は答えた。”我々を嘲るのですか・・。” そして、冒頭とラストで広場に立つ白い牛が意味する事。 ◆感想<Caution! 内容に触れています。> ・罪亡き夫ババクを、死刑にされたミナ(マリヤム・モガッダム監督)は悲嘆に暮れ、喪服を着て聾唖の娘ビタを抱え、牛乳工場で仕事をしながら、過ごす。一年が経った頃、裁判所からの”呼び出し”で出向いたところ、”真犯人は別にいた。済まない。賠償金は2億7千万トマンを支払う。”と言われる。 - 物凄い人命軽視の司法制度である。日本では、大正、昭和初期の冤罪裁判が未だに行われているというのに・・。価値観の違いなのだろうか・・。だが、ミナは納得していない。- ・そこへ、”昔、ババクに1千万マトンを借りた・・”と言うレナという男が、憔悴し切った表情で現れる。銀行でお金を支払い、レナと一緒に居たと理由でアパートも追い出されたミナ。レナは、ミナに親切に住む家を紹介する。 - ムスリムの戒律を絡ませたりしながら、イラン女性の生き難さを描いている。- ・レナの息子の父親に対する冷徹な態度。そして、父に出征前日に軍に入ったと伝える。彼はそのまま亡き人になる。 - このシーンを観れば、レナがミナが執拗に面会を求めたババクの死刑を決めたアミニ判事だろうと、観る側は気づく。神の裁きがアミニ判事に下ったのだ。 だが、ミナはレナの優しさに惹かれて、それには気付かずに”優しい人”だと思い込んでいる。 そして、息子を亡くし悲嘆に暮れるレナを自宅に泊め、夫が亡くなってから初めて赤いリップクリームを塗る。ー ・ビタの親権を求めるババクの父と弟。拒否するミナ。そして裁判で不利な審理を下されたババクの弟が、ミナの携帯電話にかけ、告げた真実。 <ラスト、ミナはレナとディナーを共にする場で、ホットミルクを勧める。緊迫感、全開のシーンである。一口二口、飲みホッとした顔をするミナ・・。 個人的には、レナは”分かっていながら”ホットミルクを飲んだのではないかと思う。但し、一縷の望みも抱きつつ・・。 謝罪の意を込めたレナのミナに対する数々の行為。 けれども、彼は直接ミナに身分を明かす事は無かった。 口で涙を流しながら謝罪する事も無かった。 今作は、イランの司法制度、死刑制度の在り方への疑問及び、女性の生き難さをマリヤム・モガッダム監督が世界に発信した作品である。> <2022年4月10日 刈谷日劇にて鑑賞>
イスラム社会の理不尽さをまざまざと見せつけられる105分
夫を冤罪で失ったシングルマザーが非情な現実に立ち向かっていく様を緊張感みなぎるタッチで描いた社会派サスペンスドラマ。 イスラム社会における理不尽さをまざまざと見せつけられる105分だった。 ミナは夫の死刑が納得できず担当判事の謝罪を求める。しかし、まったく取り合ってもらえないどころか、死刑は神の御導きだから諦めるしかないと一蹴されてしまうのだ。仕方なくミナは法的手段に出ようとするがそれも門前払いされてしまう。日本に住んでいる我々からすれば考えられないことであるが、それがまかり通ってしまう所に愕然としてしまった。 映画冒頭で出てくるが、牛はコーランにおいては神に捧げられる生贄ということだ。その意味では、正にミナの夫はその生贄=犠牲者になったというわけである。 そんなミナの前に亡き夫の友人を名乗るレザが現れる。昔の借金を返済に来たという彼は、不幸のどん底で悲しみに暮れる母子を不憫に思いながら色々と世話を焼くようになる。ところが、実は彼には”ある思惑”があり、そのためにミナたちに近づいてきたのだ。物語はそれを徐々に解き明かしながら、やがて彼らに訪れる残酷な運命を描いていく。最後は実にやるせない思いにさせられた。 神に捧げられる生贄=死ということで言うと、本作ではもう一つ重要な死が中盤で描かれる。それはレザのプライベートにまつわるエピソードなのだが、これはちょうどミナの夫の死と”対”になるエピソードとなっている所に注目したい。これもまた神の御導きと解釈すれば、実に皮肉的な運命と言わざるを得ないだろう。 本作は、このほかにビタの親権を巡って争われるミナと義父の軋轢、法曹界の裏で横行する不正等、様々な問題が取り上げられている。一見すると散漫になりそうなのだが、最終的にこれらはラストのミナの悲劇に結実するため、そこまでバラバラな印象は受けなかった。むしろコンパクトにまとめられている分、鑑賞感は濃密で、よく練られている脚本だと思った。 唯一腑に落ちなかったのは、ビタの親権を巡る裁判の決着のつけ方である。詳細は伏せるが、どのようにして義父サイドは裁判の裏情報を知り得たのだろうか?そのあたりのことが全く描かれていないので今一つ釈然としなかった。 監督、脚本は本作でミナ役も演じたマリヤム・モガッダムとベタシュ・サナイハという人が共同で務めている。それぞれ初見の監督だが、緊張感を漂わせた演出が続き中々の技量を感じさせる。例えば、終盤の車中のシーンは白眉の出来で、1カット1シーンの臨場感あふれる演出は忘れがたい。 そして、主演も兼任したマリヤム・モガッダムの本作における貢献度は相当なものだと思う。愛する夫を失った喪失感、娘を思う母としての愛、レザとの間で見せる女性としての変容を、実にしたたかに表現し物語に十分の説得力を与えている。イラン社会でシングルマザーが生きることが如何に厳しいことか…。そのことがよく伝わってきた。 イラン映画と言えば、昨今はアスガー・ファルハディ監督が世界的に注目を浴びている。自国に根付いた創作を通じて数々の社会問題を取り上げている作家の一人であるが、とりわけ厳然と蔓延する女性の地位の問題を常に重要なテーマとしている。そのことは本作からも伺える。 例えば、ミナがアパートを追い出される理由一つ取ってみてもそうだ。おそらくこれが男性だったら特に問題にはならなかっただろう。 こうしたイスラム社会の風潮は、ビタの聾唖者という設定にも表れている。監督の弁によれば、彼女は社会に対して声を発せられない、あるいは発したとしても誰にも聞いてもらえないイランの女性のメタファーだということだ。こうした鋭い示唆が込められていることに気付けるかどうかは観た人それぞれの感受性に委ねられる問題である。しかし、声を高らかにして訴える作品よりも真摯に心に響いてくるものがある。 尚、個人的に最も印象に残ったのは、ミナが口紅をつけるシーンだった。劇中で彼女は2度口紅をつけるが、1度目と2度目ではその意味合いは全く異なる。1度目は誘惑を意味し、2度目は復讐を意味している。この演出の妙には痺れてしまった。
白い牛は供物かと思ったら捕食者!
父。誰かをなぐって、相手が死亡。取り調べで嘘の自白を強要され、殺人罪で死刑に処せられます。日本であれば、殺意がなければ傷害致死罪のケース。処刑後に証人が証言を覆し、実は致命傷を与えたのは別人であったことが判明します。法も証拠も捜査もおざなり、そら冤罪が多発しますわ…。①傷害致死罪に死刑を適用する法体系②自白や証言に頼った検察の捜査③「疑わしきは罰せず」という裁判の原則が徹底されていない判決、以上の3点がこの冤罪事件の要因だと思います。「神の思し召しだ。しゃーない。賠償金払うし」で済ませようとするのは社会の未熟さの現れです。判事は判決を誤ったとは言え、法を犯した訳ではありませんし、冤罪の責任を判事個人に追及したところで仕方がない。でもこの映画は一人の判事にフォーカスしていきます。
元判事の男。誤った死刑判決に加担した責任を感じて判事を辞任。身分を隠し、死刑になった男の古い友達だったと嘘をついて未亡人に接近。貧乏に苦しむ彼女に大金を渡し、彼女がアパートを追い出されたら立派な家をあてがいます。元同僚が男を説得するシーン。「冤罪はお前の責任ではない。法の問題だ。職場復帰してくれ」筋が通っているのに、なぜか男は聞き入れません。「初めての死刑判決で冤罪だった…僕には刑事事件はムリだ…」この元判事、どこまでナイーブなのでしょうか。それとも、元は傲慢だった男が、冤罪事件のせいで変質したのでしょうか。理由はよく分かりませんが、彼は妻に逃げられ、息子には心を閉ざされています。
未亡人の女。夫が冤罪で死刑になったことが許せません。当然です。ですが、彼女の怒りは偽証した男ではなく、判事に向かいます。新聞広告で判事に謝罪を求め、さらに最高裁に訴えます。妻の怒りが判事に向かった理由、判事があそこまで責任を感じる理由、そこに共感できないので、この二人に感情移入できません。どんなに判事を責めたところで、どんなに判事が責任を感じたところで、冤罪がなくなるわけじゃないのに。事件で死んだ被害者の妻が女の元を訪れるシーン。「冤罪であることを知らなかった。私は偽証した真犯人を許してきた。あなたも私を許してくれ」泣きながら許しを請う女性に、彼女は許しを与えません。身分を偽り、自分に親切にしてくれた元判事にも許しを与えません。そもそも許しとはなんなのか。彼女が許しを与えない理由はなんなのか。ちょっと理解できませんでした。
彼女には耳の聞こえない小学生の娘がいます。死刑になった父のことを「仕事で遠くに行っている」と嘘を教えます。それを信じた娘は学校で先生や級友に「嘘つき」と非難されています。彼女は、なぜ自分が周囲から受け入れられないか、理解できないでしょう。家でソファに寝ころんで古い映画のビデオを見ている彼女の姿を見ていると、なんともやるせない気分になります。彼女は父が死んだ理由も、2度の引っ越しの理由も、謎のおっさんの正体も、世の中や世界で起こっている現実も、何も知らないままに育っていくのでしょう。果たしてそれがやさしさと言えるのか。真実を隠すことが親の愛情なのか。何気ない会話の中での母の一言「お母さんがお婆ちゃんになったら面倒見てくれないの?」娘は何も答えられずにうつむきます。このお母さん、俺から見たら毒親です…。娘の親権をめぐって義父と争うのも、果たして愛情からなのか…。もし娘の将来を真剣に考えているのなら、あのラストはあり得ませんが…。
かわいそうな未亡人と親切な元判事は、徐々に距離を縮めます。未亡人は手料理と看病で男を籠絡、男が弱ったところで、毒々しい赤い口紅を塗った女は男を捕食します。女と、何も知らない娘は街を離れ、流れていきます。
父は嘘の供述を強いられ死刑になり、母は嘘で誤魔化し、信じた娘も学校で知らずに嘘をつき、元判事は嘘を重ねて破滅する。みんな嘘をついている。嘘も方便とも言いますが、相手のことを思ってつく嘘が、実は相手をダメにする。真実を告げないという罪深さ。そんなことを考えさせる映画でした。間違った方向へ怒りを向け、誰にも許しを与えず、娘をスポイルし続け、親族にも心を開かず、孤立していく母親。彼女の心の闇を思うと空恐ろしい気分にさせられました。白い牛は供物かと思わせて実は捕食者、慈愛の象徴であるミルクで命を奪うあたり、この監督、なかなかの遣り手です。
しかし、本作が本国で上映禁止になるという風土や文化が変わらない限り、あの国では今後も冤罪で死刑に処せられる人が後を絶たないのではないでしょうか。
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