映画がダイバーシティの独修だと思うことがある。アメリカの学園ドラマにはセサミストリートのように、白人も黒人も黄色人種も健常者も障害者もゲイもストレートも自閉症もダウン症もでてくる。反してわたしたち(日本人)の日常には、白人も黒人もその他もろもろの自分とは異なるにんげんがいない。(ばあいが多い。)だからハリウッドから、にんげんの様々な様態を学ぶことができる。いや、むろん学ぶなんて大げさだし、そりゃあ、他世界へじっさい行って見て聞いて触れて接して、ふかく付き合ったほうが、断然有益だけれども、移住も進出も留学も旅行も予定がなくて、その経済性も無いならば、とりあえず、世界を知ることができるのは映画/ドラマのなかだけである。
わたしたち日本人は、外国映画に親しむと同時に、その驚きの多様性に触れるたびに「こんなんふつうですがな」みたいな虚勢をはってみせる──わけなのである。
好きだった君へ(シリーズ)の明解なダイバーシティはベトナム人のラナコンドルである。「え、そんなんふつうですがな」。そうですか?わたしはアメリカの学園映画で東洋人の主人公は珍しいと思いましたよ。なにしろ日本の学園映画に日本人以外の主人公、どころか日本人以外が出てくることは、まったくありませんからね。
──というわけで、やっぱり魅力の突端はラナコンドルだと思う。初作から男のわたしはこのひとのcurvyに気づいた。爪楊枝を何本載せられるかチャレンジしたくなる、つけまつげにも気づいた。が、いちばんの吸引力は、明るさと楽しさである。にんげん、明るさと楽しさに勝る魅力はない。暗いわたしでも、ぜんぜんそう思う。
シリーズ化されていることを知らなかった。続編どころか、しれっと三作目までできている。というわけで2、3と見たが、柳の下の泥鰌でなく、しっかりストーリーを引っ張っていて感心した。無類のダイバーシティとハリウッドクオリティのかなわん系でした。
しっかし、つかの間インターナショナル気分になれるNetFlixって井の中の蛙な日本人を勘違いさせてくれるツールだよね。いい歳してんのにコンビニのレジ係が外国人だといまだに一抹の不安がよぎるダイバーシティ耐性ゼロにんげんのわたし。でも韓国人設定のベトナム人ララジーン(Lana Condor)と、ゲイ設定のルワンダ人ルーカス(Trezzo Mahoro)が仲良く話しているのを見ながら「こんなんふつうですがな」と思って見てるわけ。