クライ・マッチョのレビュー・感想・評価
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枯れた男もまた男であった、と。
美食家の息子には美食のトラブル、探偵には殺人事件、そして、かつてのロデオ・スターには暴れ馬が待っている、という訳でしょうか。いや、こういう世界観であればこそ、自然な成り行きですね。「俺はドリトル先生か」ってセリフには笑いました。
自分はそれほどクリントイーストウッドさんの映画は観ていないような気がします。彼の映画でも、そして全ての映画の中でも自分のベストにあるのは、彼が主演の「夕陽のガンマン」、その当時と比べて、ああ、歳を取ったな、枯れたなぁ、と一見して感じてしまいましたが、なかなかどうして、まだまだ男前じゃないですか。
そんな年老いたロデオ・スターが昔取った杵柄で、旅先で出逢った家畜やペットのトラブルを解決していく、そんな小気味の良いイベントが展開されます。言葉の通じないメキシコの人々との出逢いと別れ、荒涼とした牧場の風景、かつて「ガンマン」を演じた年老いた彼らしい、素晴らしい老後の映画だったと思います。荒事の少ない、派手さはまったく無いけれど、無難にお薦めできる作品です。
ニワトリのマッチョが良い味を出している素晴らしいマスコットぶりです。あと、印象に残ったのが聾唖の少女の、相手の一挙一動を見逃さない丸い瞳、いずれも名演だったと思います。
(追記)
後日、あのエンディングについて熟々と考えるに付け、あれは素晴らしい行く末だったんじゃないかと思い立ち、少し書き加えることにしました。主人公は元の生活に戻ること無く(いったん戻ったのかも知れませんが)旅先でゲットした(笑)新しい彼女と共に生きること選んだことです。齢90歳を越えて、尚も新しい、しかも言葉の通じない国に飛び込み、そして新しい恋をして、新しい仕事をして、本当の自分が選ぶべきであった、新しい人生を求めて生きていく。これほどに人生は自由に生きていくことが出来るんだよ、と示しているかのような。あるいは、「めでたし、めでたし」で締めくくられる、お伽話のようでもありますが。他に例えるなら、グラン・ブルーのラストで、大好きなイルカと共に深海に消えていくエンディング、と云うのはちょっと言い過ぎですが。ああ、それから、不思議の国のアリスでも、不思議の国から戻ってこないというエンディングにしても良かったなぁ、なんてことを考えてしまった。アリスが戻ってこなくて探し回るお姉さんが小脇に抱えた本の中に、「そこでアリスは何時までも楽しく幸せに――」と書かれていたりなんかして。
さすがクリント・イーストウッド、エンディングまで綺麗に描ききった、素晴らしい映画だったと、改めて噛みしめた次第です。
バランスの悪さを凌駕する、ヘンテコな魅力満載
正直言うと、途中まではもう劇場を出てしまおうかと思うくらい、雑なプロットに困惑した。ビシッと決まる絵も編集の妙も感じられず、さすがにイーストウッドも老いたのか、そりゃ老いるよな、おじいちゃんだもんなと自分を納得させようとしていた。ところが、メキシコの村にたどり着いた辺りから、「チェイスものでもロードムービーでもなく、これがやりたかったのか!」と霧が晴れたような気がした。お膳立てが冗長だったことはさておき、この村でのシーンに漂うロマンチシズムとラブの香りと若者への継承とセリフにもある謎のドリトル先生感は、盛りだくさんすぎて異様ですらある。しかしシーンが俄然生き生きして見えることは確かで、変なバランスだけど不思議と納得させられて、イーストウッド良かったねという気になる。90過ぎてモテモテなラストに何を観させられたのだろうと狐につままれた気持ちだが、不思議と読後感は爽やかという厄介な快作。
生きることがタフな時代に、イーストウッドが問いかけること。
ひとり暮らしのマイクは、「息子のラフォを連れ戻してくれ」という恩人からの依頼を受けてメキシコへと向かう。まだあどけなさが残る少年ラフォは奔放な母との乱れた生活を嫌い、マッチョと名づけた闘鶏とストリートで暮らしている。突然現れたマイクを少年は警戒するが、マッチョなカウボーイへの憧れと、父との新しい生活に心を動かされていく。
90歳を過ぎたクリント・イーストウッドが演じるマイクと14歳のエドゥアルド・ミネットが演じたラフォ、歳の差も境遇も考え方も異なるふたりはアメリカ国境に向かって旅を始める。それは、互いを必要とする発見の旅であり、ふたりの人生を大きく変えていく。
クリント・イーストウッドが新型ウィルスの渦中で撮り上げた最新作『クライ・マッチョ』には、映画人として生きてきた彼のエッセンスが凝縮されている。
自分の流儀で生きること。他人には期待しないが、示唆することは忘れない。恩義をには必ず報いる。微笑みを安売りはしないが笑顔には応じる。決して自分を買いかぶらず、誇張もしない。不寛容なことには正しく憤り、身をもって立ち向かう精神を忘れることはない。
カウボーイハットで荒馬を乗りこなす。車を運転する。もてなしに対する礼を尽くす。目の前に障害があれば、慌てずに迂回する。必要とあれば後戻りする。生き急ぐことが理想ではない。人生には、回り道することだってあるのだから。
我が道を行くことで、小さなコミュニティが生まれていく。ひとりだけれど孤独ではない。人の外観 (人種)ではなく、人の本質を見つめる過程で、血のつながらないの疑似家族のような関係が育まれていく。悔恨は尽きることはないが、くよくよしても始まらない。人生に終わりはない。生きていれば、素敵なことだってあるはずだ。彼はいつも旅の途中にいる。人と人とのつながりの中で“今”を生きている。
Make it Yours、自分のことは自分で決めろ。
この科白は、半世紀分以上もの生きた軌跡を隔てた少年に向かって放たれる主人公の言葉だ。
“マッチョ”=“強い男”に憧れ、幼さが残る家族の愛を知らない少年ラフォは男らしく生きたいと願っている。かつて“マッチョ”としてならした男は、もはや自分は強くないと認めている。だから、その言葉は説得力を伴って心に染みる。
無理がきかなくなったが、許容範囲はわきまえている。いたずらに逆らおうとは思わないが、許されざることを黙認することはしない。映画を観ている僕たちは、ふと気づかされる。マイクがラフォに放った言葉は、彼自身に向かうと同時に、紛れもなく観客のひとりひとりに向けられているのだ、と。
監督イーストウッドは、説明することが大嫌いだ。冗長な描写も好まないし、過剰な演技は排除する。濁った水を湛えた川であっても、その流れは淀むことがない。映画という話術において、主人公たちと同じように時と場合をわきまえているのだ。研ぎ澄まされた描写であるが故に、演出家の意図に気づかないことすらあると言っては褒めすぎかもしれないが、素直にそう思う。
同時に、映画におけるカタルシスを見定める力が緊張感を生む。観客が望む決めのシーンを放つタイミングも絶妙だ。
愛犬の調子が思わしくない夫婦の相談に、「残念だが歳にあらがうことは出来ない。のんびりさせて、一緒に眠ってやると良い」と告げる。先に引用した「自分のことは自分で決めろ」同様、その言葉はブーメランのように自分に向かって放たれている。もはや老い先は永くはない、だからこそ出来ることがあるのだ、と。
なーんか、平凡
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カウボーイのクリントはかつて妻を亡くし、自暴自棄になった。
その時に仕事をくれて、自分を復活させてくれた男がいた。
息子の少年を連れて来て欲しいと依頼され、クリントは引き受ける。
少年は離婚した母とメキシコに住んでた。そしてその母は堕落してた。
男をとっかえひっかえで、少年は暴力を受けることもあり、家出してた。
少年はクリントとアメリカに行きたかったが、母親は許さなかった。
しかし事情を知ったクリントは強引に連れて行くことにした。
そして警察やら妻の雇った追っ手やらから逃亡する日々が続く。
ある町で車が故障して長居し、飲食店の女性店主と親しくなる。
やがて車は直り、またそこにも警察が来たので、別れを告げて出発。
しかし雇い主が少年の誘拐を依頼したのは愛情からではなかった。
妻の名で投資した案件が満期を迎えるので、それを有利にするためだった。
それを知ったクリントと少年だったが、もう進むしかない。
そしてクリントは少年を送り届け、自分は上記女性のもとに戻る。
マッチョとは少年が可愛がってた闘鶏用の鶏の名前だった。
そして何故か別れ際にクリントにその鶏をくれるw
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なーんかダラダラと、成り行き任せのロードムービー。
まあそれはええのやが、あんまり協感はできんかったなあ。
少年はグレてた割には素直なのだが、ただそれだけ。
クリントとの名コンビってほどでもなく、ただの脇役。
クリント自身も、大義や深い愛情を持ち合わせてるわけでもない。
へー、ああそうですか、そんな旅がありましたか、って感じ。
劇場で見ると話に集中できて大体3点以上が出るのやが、
この作品はその意味で珍しく2点となったわ。
退屈でしゃーない金返せってほどではなかったけどな。
俺の居場所はわかるだろ。困ったら来い。
こないだ鑑賞しました💿
クリント・イーストウッド演じるマイクは孤独感をうちに秘めた感じで、最初はエドゥアルド・ミネット演じるラフォとも多少ぶつかりますが…。
2人がメキシコからの旅を通じて絆が芽生える展開が、ベタながら良いですね。
最後のマイクとラフォの台詞にも表れています🙂
そして旅の途中で大いに助けられたナタリア・トラベン演じるマルタの所へ戻っていくマイク。
彼は穏やかに余生を過ごす場所を見つけたということでしょう。
マルタのやさしい眼差しと、保安官を追い返す時の毅然とした態度のギャップも、良かったですね。
私はこういう映画も好きです👍
❇️何も起きないでと願い。そして感謝した映画。
クライマッチョ
🇺🇸1979年 テキサス州 🇲🇽メキシコ
過去にロデオキングと呼ばれた男。🐎
今はおじいちゃん👴。
過去の栄光で仕事をしていたが遅刻を繰り返し、クビになった。
一年後、仲間の恩を返す為、メキシコに暮らす仲間の息子を妻から奪ってくる仕事を任される。
少年と元ロデオおじいちゃんの信頼関係と生き様を描くストーリー。
❇️少年が本当の強さと優しさを知る旅。
🌀噛めば噛むほど味がある映画でした。
◉82C点。
★彡やっぱり良いね〜なんか良い。んんー良いね。イーストウッドの映画はスルメの様に味があるなぁ。良かったなぁ〜
🟢感想。
1️⃣メキシコの土地柄や人々の生活などが垣間見れて旅行気分になれた。
★彡メキシコの怖さと緩さのバランスが良かった。
2️⃣少年と粋なおじいちゃんのハラハラ二人旅が心配させる。
★彡何も無い事を祈る気持ちで観ていた。
3️⃣ニワトリ🐓の役割と重要感。
★彡ニワトリから見て学び、ニワトリを比喩に教えられる感じが切なくて素晴らしい。
🥲☺️🤔🐔🐎🐓🔥🍗🌮☕️🚙🚗🚓🏘️⛪️📞💵💮🆒
🈲ネタバレ保管記憶用
俺はルパン三世…あっ違った。
俺は、友人に昔の貸しを返す為、虐待された息子をメキシコから連れて帰る面倒な仕事を仕方なく引き受けた。
母親からネグレストされている13歳の息子を見つけ、半ば誘拐犯の様に息子をテキサスに連れて行くが、母親の通報で追ってが俺たちを邪魔するし、車は盗まれるし、警察にも追われる。老体の俺にはかなり辛い任務だね。
どうやら俺はこの男の子が気に入ってきたんだな。
盗んだ車も故障し、街でジャジャ馬を飼い慣らし、売れる馬にして金を稼いだ。
少年もセンスがあり、乗り方や飼育も覚えていった。
依頼主の思惑が見えてきた、どうも息子を取り戻し、息子を金の担保で考えている様だ。
こんな良い息子何考えてるんだか💢
この街にいると知り合った人達に迷惑がかかるので、俺たちは警察や追手をなんとかやり過ごし、国境へやってきた。
少年は俺に大事なマッチョをくれた。🐓
きっとテキサスでマッチョに頼らず、自分が強くなる!と意思の表明だろう。
俺はメキシコに戻り、匿ってくれた女の所に行く事を決意した。
この度はこれで終わりにする。🔚
最後の監督&主演作かと
お年寄りの姿勢でヨタヨタと歩く姿をみて、さすがに歳をとったなあと。でも、90歳を越えても、なお自分でも演じることができる原作を選んで監督、主演を務めたのだろうと。これが最後の監督・主演の映画になるのではと思った。彼の原点というべき「ローハイド」のカウボーイに回帰したかったのだろう。カウボーイ→西部劇→荒くれ者→刑事物をだどって、強い男「マッチョ」を演じ続けてきたイーストウッドが、晩年になって大切にしている信条を守るのが真のマッチョという境地に辿り着いたのではないか。見落とされがちな人たちの中にある人間としての素晴らしさに気づき、それらを守ろうとする姿が、ゆったりとしたロードムービーの中で描かれている。
90歳を越えて演じるにしても、できることは限られてしまう。彼の得意とするアクションシーンは、もう難しいだろう。荒馬を乗りこなすシーンも落馬したら大事だから代役だったろうし、敵と格闘したり銃撃するシーンもさすがにあの動作スピードでは厳しい。「運び屋」「クライマッチョ」ときて、それ以外にどんな映画があるだろうか。冒頭、友人とのダイアローグのシーンで、友人が仕事を流してくれて救ってくれたというセリフがあるが、この映画の話がもたらされた時のイーストウッドの本音ではなかろうか。
今回の作品には、自分の今までの生き方を振り返って、大切にしてきたエッセンスを詰め込みたかったのではないか。悪ガキというレッテルを貼られた友人の息子、女やもめで残された子供たちの面倒を見ているレストランの女主人、そういった人たちとの嘘のない触れ合いを通して、人として大切なものを守ろうとする姿を見せたかったのでは。そして、いつでも自分のタイプの女の人には傍にいてほしい。それがマッチョだと。
若い頃は、血気盛んで、暴力、理不尽、女、酒、反骨のエネルギーが有り余っていたけれど、それらの欲が全て枯れて、大切なものだけを守って生きていこうって。今までの作品からの流れを見て、そんなことを感じた。これが、最後の監督&主演作と自分は思う。
幸せな時間だった!!
お爺ちゃんに依頼して大丈夫なのか!?と初めは思いましたが、ゆったり流れるメキシコの時間が次第に心地よく感じるようになりました。父親の元に送る事で、今この幸せな時間が終わってしまうのが寂しくなる良い映画でした。誰の人生にも必ずある、いっときの出会いを上手く描いていると思います。掲載の粗筋は何か違う気がしました。
マッチョとは…
若いときには己の力以上に力を誇示したがるものが、上には上がおり、老いると共にそんなものは意味がない、時間の無駄と、それを伝えたくこのタイトルなのか。。クリント・イーストウッド作品ということで期待し過ぎた感を差し引いても凡庸なストーリーだった。勿論存在感は彼ならではなのだが、やはり相当年老いたなと。やっと歩いている感じだし、ダンスも何だか介護されているように感じでしまい、あのパンチも効かないだろう。。ピンチらしいピンチもすぐに切り抜けてしまい、ハッとさせられなかった。90過ぎて立派なのだが、寂しい気持ちになった。
老いを描く
飾らずそのままの自分をスクリーンに映し、世に出せる胆力はすごい。年老いていく自分を写真や映像で見るのは、現実をまざまざと見せつけられるも同然。90歳でその勇気を持つクリント・イーストウッドこそまさに「マッチョ」。どのワンシーンを切り取っても絵になりそうで、黒澤明ばりの映画愛を感じる。
ターゲットは60代なのではないだろうか。その世代全員に刺さりそうな素敵な大人のラブストーリー。終わり方が一番…なんというか…若い監督には出せない終わり方に感じられました。
国境の向こうで待つ恩人にその息子を託すシーンは、なんというか「選択」が。メキシコとアメリカの国境を越えることで、それぞれの登場人物の「選択」を表現しその後の人生を鑑賞者に委ね映画を終える。このシンプルなセットにカメラワークなんですが、間が、表現が、…もう渋すぎます。
生きることの当然として老いを表現できるクリント・イーストウッドが、カッコ良すぎる。映画を見ていて動きや台詞、視覚的にどうしても「年老いた」と印象づくのは仕方ないが、それはクリント・イーストウッドとして見ているのであって、役どころの「マイク」として見れば違和感ない。監督と同い年、または近い年の人ほどこの凄さがよりわかるはず。
特典インタビューでも「70歳だけど」とおどけて見せていた感じが、格好良さとチャーミングさも素敵です。すっと元気をもらえる映画。
精神的マッチョさが伝えられたか
マッチョと呼ばれる鶏と、イーストウッド自身が演じるマイクがマッチョのシンボルとして描かれていたが、鶏はやるときはやる(敵にとびかかる)やつだったし、イーストウッドも難しい選択肢を与えられてその場その場を乗り越えるためのベターな選択をしようと努力しているのは分かったが、それらが自分の中のマッチョにつながることはなかった。
結論をいうと、イーストウッドが今作で言いたかった『マッチョとは若くて筋肉質で好戦的な男でなくとも精神性によってなることはできる』、というのは、彼自身が演じたマイクの様子では伝えることができていないと思う(少なくとも若かりし頃の彼の活躍をほぼ見ていない自分としては。マイクではなくラフォについてはラストにかろうじてこれから漢になっていく将来性が見えたのだが)。
マイクとラフォが今作中に遭遇しそれを乗り越えようと悪戦苦闘し、ラストには形としてはハッピーエンドを持ってこれたそのテーマ性は、マッチョというよりは家庭内トラブル、その中でも子供の教育問題であった。そして、今作中では子供の問題を起こした両親の考え方の問題は変化しておらず、両親ともに間違ったまま終わったし、子供は子供でこれから父親の本性と相対することになるのでラスト後が正念場であった。マイクが解決したのは恩のあるラフォの父親に恩を返すことで、そこまでの道のりでラフォに人生の先輩として生きる指針は与えられただろうと思う。ラスト、ラフォが眉間にしわをよせて、マイクを振り返り、その後父親に向かっていく姿には今作中で一番マッチョさを感じた。男は一人で強くなるということを言いたかったのかもしれない。
トゥルー・マッチョ
監督歴50年、監督作40本。
このキャリアだけでもクリント・イーストウッドがレジェンド・スターでありつつ、名監督である事が分かる。
映画監督の中には10年ブランク空いたりもするが、途切れる事なく作品を発表し続けるハイペースと精力に改めて驚かされる。
節目の本作。
キャリア史上に残る新たな傑作誕生!…には正直ならず。
が、これまでの作品からの醍醐味やらしさが濃縮された、非の打ち所の無い“イーストウッド作品”。
寡黙で武骨で頑固。妻子に先立たれ、独り身。イーストウッドが演じる役柄はイーストウッドが演じる為にあるようなもの。様々な役に挑むのが映画俳優ならば、一貫して己のスタイルを固持し続けるのはイーストウッドのような銀幕スターである。
米テキサスの荒野。元ロデオスター。現代に置き換えた西部劇。
元雇い主である牧場主から、メキシコに居る別れた妻の元から息子を連れ戻して欲しいと頼まれる。以前は麻薬だったが、今回は人の“運び屋”。
メキシコへ。見つけ出し、アメリカへ戻るロードムービー。その道中の心の旅路。老人と少年の交流は『グラン・トリノ』を彷彿。
また、これは後ほど改めて触れるが、『マディソン郡の橋』を思わせるロマンスも…。
イーストウッド作品好きなら、思わずニヤリとしてしまう定番やあるある。
派手なアクションやスリリングなサスペンスは無く、静かで地味な人間ドラマながら、二人の交流をユーモアを交えつつ、心に刺さる台詞、しみじみと温かく、手堅く魅せる。
傑作や名作の類いではないかもしれないが、紛れもなく佳作で良質作。
絶対的信頼性のある手腕に、安心して作品に没頭出来る。
一言二言で言えば簡単な仕事。が、実際は…。
元雇い主の元妻は、メキシコの豪邸で毎夜のようにパーティー三昧。男も取っ替え引っ替え。“女”であって“母親”ではない。こちらの要望など受諾する訳が無く…。
親の愛を受けられず、どんなに可哀想な子供…会ったら驚いた!
盗みに闘鶏賭博、態度も悪けりゃ口も悪い。
自分の事を“マッチョ(=強い)”と大言壮語の“悪童”。
当然素直に言う事聞く訳がない。
が、父親の牧場や馬、少なからず父親に会いたいという気持ちはあり、アメリカ行きを決意。
役目の半分をこれで終え、後は彼を父親の元へ連れて行くだけなのだが、ここからが本当に大変。
ロードムービーであり、バディ・ムービーである。
旅のバディとの相性が良ければ最高の旅になるが、相性悪ければほとほとうんざり疲れる旅になる。
老カウボーイと少年。年齢も価値観も人生も全く違う。
事ある事に言い合い、対立、反発。
頑固ジジイvsクソ生意気ガキ。ある意味、見せ場満載。
でも、共通点も。最も大事な点かもしれない。
孤独。独り身の老人と親の愛を知らない少年。
マイクはラフォに何を重ねたのか。
亡き息子か、若かりし頃の自分か。
今この少年に誰か手を差し伸べなければ、少年に未来は無い。
雇われ仕事ではあるが、請け負った以上、大人としての責務。
大人や世の中に反発心剥き出しのラフォ。誰にも頼らず、一人で生きていけると意気がる。実際、そうやって生きてきた。
しかし、このままだったら歩む道は…。
口は強気だけど、子供は子供。これから先、一人ではどうしようもない苦難や困難、岐路がある。
その時、どうすれば…?
助言者が必要だ。誰かを頼ったっていい。
成り行き上だが、その相手がこの頑固ジジイ。
偏屈だが、長い人生の中から酸いも甘いも経験してきた。
それを少しずつ、学んでいく。
人と人の出会い、交流。
これから人生を歩んでいく為の何かがそこにある。
旅はトラブル続出。
車が盗まれ、立ち往生。
母親が放った追っ手。銃を持った危険な奴。
ラフォが承諾したとは言え、母親からすれば誘拐同然。あちこちで警察の検問。
故に車が盗まれた時も警察に助けを乞えない。
それを避ける為、かなり時間掛かるが裏道を行く。
人生は時に寄り道すると、思わぬ出会いと岐路がある…。
荒野の田舎町。
そこで酒場を一人切り盛りする女主人、マルタの世話になる。
警察から匿ってくれ、毎日の食事。寝床の提供も。
世話になりっ放しで面倒掛けてると申し訳なく思うが、マルタは“したい事をしてるだけ”。
無償の奉仕、精神。それこそ“聖母(マリア)”のような。
夫や娘夫婦に先立たれ、幼い孫たちと暮らす。彼女もまた独り身である。
次第に惹かれ合っていくマイクとマルタ。
二人が抱き合って踊るシーンは、大人の男女だからこその味わい深さ。
もし、父親の元に帰るなんて目的が無かったら、ずっとここに居たい。
それほどの心地よさ。
ラフォもマルタの孫娘と惹かれ合い、おそらく生まれて初めてなのだろう、こんな気持ち。自分が居ていい場所。自分が居たいと思う場所。
が、マイクも頼まれた以上、ラフォも一度決めた以上、行かなければならない。
母親の追っ手がこの町に現れ、これ以上迷惑掛けられないと、別れを告げ、旅を続ける…。
旅再開してほどなく、マイクはラフォにある事を打ち明ける。
父親が息子に会いたいのは無論親子愛もあるのだが、それとは別のある理由…。
ショックを受けるラフォ。
自分は父親や母親にとって、自己利益の為の“所有物”なのか…?
さらに腹ただしいのは、マイクがそれを知っていながら今の今まで隠していた事。(マイクも後になって知ったのだが)
良好になっていた二人の関係に、またまた険悪な雰囲気が。
そこに、警察や追っ手が現れる。
旅も終盤。この最大の局面をどう突破するのか…?
見始めたら二人と一緒に旅に同行しているような、さすがの語り口、引き込ませだが、少々引っ掛かった点も。
車が盗まれ、立ち往生。もっと荒野を放浪する心身困憊のシーンがあっても良さそうだが、あっさりと田舎町に着く。
いがみ合っていたが、仲を深め、打ち明けてまた険悪に…。終盤の局面を突破し、父親の待つ国境に送り届け、名残惜しさと共に別れる。いつの間にか対立感情が無くなっていて…??
ラフォは父親の元へ。あの町に戻るという選択肢もあって良かったのでは…?
でもこれは、ラフォが自分自身で選んだ事。
母親の元に居た時の二の舞になるか、父親の元でしっかり牧場経営を学び立派に成長するか。
マイクと過ごした心の旅から影響受けた“マッチョ”が試される…。
本作のテーマの一つは、マッチョ=強さ。
強さとは何か…?
それをアピールし、見せびらかす事…?
誰にも頼らず一人で生きていく強さ…?
もしそうだったら、この旅は無意味だった。
強さを自分からアピールし、自慢気にしない事。
困ってる人を無償で助け、悩める者を導く。
全ては旅の中にあった。
強さとは、優しさ。
それが本当のマッチョ。
イーストウッドが教えてくれる。イーストウッドだからこそ伝えられる。
尚、旅にはもう一人…いや、もう一羽同行。
ラフォの闘鶏、マッチョ。
終盤、思わぬ活躍! 彼こそ“マッチョ”であった。
人生の岐路は人との出会いでもたらされる
最後にラフォは、迷うことなく新しい道を選んだ。どうなるか分からないが、とにかく新天地を選ぶ。彼の愛するマッチョをマイクに渡して、真っ新な人生を歩み始める。
一方イーストウッド扮するマイクは、自分を愛してくれるあの村に引き返す。二人の決断の差が、残された人生の時間のようで切ない。ヨボヨボでもいいから、イーストウッドには俳優を続けて欲しいと思った。
この上なくシンプルで味わい深い作品
自動車が走る空撮で始まるファーストシーンにシフトノブを動かすカットが挟まる。自動車で移動することに意味があるという映画であることが最初から雄弁に提示されているのだ。ストーリーはあらすじで紹介されているようにシンプル極まりないのだがそこに発生する圧倒的な説得力はイーストウッドの人生に支えられているのだろうなあと思いました。それにしてもメキシコという国はオンボロとは言え走れる状態の自動車があんなにあちこちに放置されているのだろうか。
91歳のモテ男の武器は・・・・
クリント・イーストウッド、91歳!
脂が抜けたしわしわの瞼や痩けた頬を見ると、亡くなる前のオヤジの顔をつい思い出してしまった。ちょうど、90歳だった。
往年のロデオチャンピオンが腐れ縁の興行師(ヤクザ)からメキシコシティにいる13歳の息子を母親の虐待から救い出して来てくれと頼まれる。6歳のときの写真を一枚渡される。落ちぶれ、世話になっているので、断れないみたい。
メキシコ人の母親は大きなグランドキャバレーのような一軒家の店を経営し、豪奢な部屋で毎晩男をとっかえひっかえの暮らし。息子の父親は意気地無しだとはなから馬鹿にしている。少年は家出していて、手のつけられない不良だから、あんたにゃ見つけ出すのさえ無理よと言われる。それより、一杯やっていきなさいよ。今晩はここに泊まっていきなさいよ・・・みたいな。13歳の息子は闘鶏で稼いでいるストリートチルドレンだった。悪そうには全然みえない。虐待は母親のネグレクトと言うよりも破廉恥な母親を避けて、ストリート生活をしている感じ。すぐに見つけられたし。
母親の囲っているふたりのチンピラが妨害しようと追ってくる。連邦警察の職質を避けながらのふたりのロードムービー。少年は自分の相棒の雄鶏(ルースター)をマッチョと名付けていた。少年のあこがれは強い男。
メキシコの水が合わず、下痢ピーで、道端から離れていたときに車をチンピラに奪われて、歩いてたどり着いた小さな街で簡素な店の親切な年増女に保安官から匿ってもらったことをきっかけに身の上話。女には孫娘が四人。娘の形見だった。教会で夜を明かすふたりにそっと朝食を持ってきてくれる。しばらく一緒に生活することになった。少年にテキサスに行っても馬を乗りこなせられないと馬鹿にされるぞと半分脅しながら、売れない暴れ馬に困っているディーラーに調教してみせると持ちかける。これが案外すんなりとうまくいって、調教代を稼ぐ。91歳のロデオヒーローのもうひとつの武器は動物のお医者さんだった。
志村動物園か?
ムツゴロウさんか?
街ですっかり人気者になり、信頼を得て、保安官もふたりに手出ししにくくなる。
父親が少年を手元に置きたい理由は実はメキシコの不動産の権利が絡んでいたのだった。
少年を国境で待っている父親に引き渡すと91歳のモテ男は街の年増女のところに戻っていった。過去の栄光をすっかり捨てて。
少年が幸せになれたような気持ちにはまったくなれなかった。息子は年増女の一番上の孫娘に恋していたような気がする。クリント・イーストウッドが幸せになったことに疑いの余地はないのだが。
(終)
チキンラン
90代のクリント・イーストウッド以外には、名のある俳優は出ていないという攻めた企画。老人が主人公と言えば、「ハリーとトント」出演時のアート・カーニーよりはるかに高齢だ。猫のトントに対してこちらはニワトリだが、おそらく彼がこの映画で一番若い。
イーストウッドは58歳の時に同じ役でオファーを受けて、私では若すぎると断ったらしい。原作の設定は何歳なんだろうか。車で国境を越えるミッションを90歳の老人に依頼するのは無謀すぎる。日本では高齢者の運転免許証の返還が推奨されているのに、国土の広いアメリカでは論外なんだろうな。
イーストウッドの監督作は新作が来るたびに必ず映画館に足を運んできたが、今回は肩透かし感が否めない。悪役の位置づけが中途半端だし、路程で出会う人々とのふれあいも微温的で、物足りない(テーマとしては「ゴーン・ベイビー・ゴーン」と共通する点もある)。
シェーンは去っていったのに、マイクは戻ってくる。かつてのイーストウッド映画なら、去っていって終わっただろう。孤老の身の上にはやはり安穏が必要なのかもしれない。
何を観せられたのか
これは、あれだな、マスターベーション。
クリントイーストウッドのマスターベーション映画。
行く時メヒコめちゃ近いやん、帰り遠いやん。
ママに迫られるのとかなに?
いうほど悪ガキじゃなくない?
ちょいちょい見せる男前(風な)仕草、顔。
いや、分かるけども。
そこ、恋に落ちる?とか。
なんかマディソン郡の橋のオマージュ?続き?
なんなの、って、感じがしたわ、、
MVPはとりあえずチキンさんで。
んー。
マッチョの権化が指し示す、新たなマッチョイズム。これってイーストウッドの遺書なんじゃ…。
元ロデオスターの老人マイクと、彼の恩人の息子ラファエルが、メキシコを旅しながらお互いを理解していくというロードムービー。
監督/製作/主人公のマイクを演じるのは『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』の、巨匠クリント・イーストウッド。
御年91歳!
俳優としては70年近いキャリアを持つハリウッドの妖怪が、監督デビュー50周年の節目に送り出した一作。
30年以上前にイーストウッド主演作として持ち込まれた企画が紆余曲折の末、ついに御大自身の監督作として世に送り出された。
余談だが、一時はアーノルド・シュワルツェネッガー主演作になりかけていたらしい。
シュワちゃんがマイクを演じていたら、全く違うジャンルの映画になっていただろうな😅
本作の感想を端的に言ってしまうと、「イーストウッド以外が主演だったら何の価値もない映画」。
お世辞にも面白い映画とはいえず、100分ほどのランタイムでありながら何度も時計を見てしまった。
ダラダラと長いだけのメキシコ道中。
何度も繰り返される、警官に捕まるか否かのハラハラサスペンス。
何故かワンオペな追手。
イーストウッドの高齢化によるアクションシーンの迫力のなさ、etc…。
正直不満点は山ほどある映画です。
とはいえ、観終わった後の満足感はなかなかのもの。
正直、アメリカン・マッチョイズムの権化のような存在であったイーストウッドが、90歳を過ぎてからこの作品を撮ったという事実に胸がいっぱいになった。
本作はほとんどイーストウッドの遺書。
いつ死ぬかわからないから、とりあえずこれだけは撮っておこうと思ったんじゃないだろうか。
落ちぶれた元ロデオスターという設定は、西部劇のスターであったイーストウッド本人のキャリアと重なる。
イーストウッドは監督へとキャリアチェンジしたことで、上手くハリウッドの世界を生き残ってきたわけだが、一歩間違えれば元アクションスターのロートルになってしまっていたかも知れない。
本人にもそういう自覚があったんじゃないかな?
イーストウッドが元ロデオスター、マイク・マイロを別の時間軸の自分だとはっきりと自覚し演じていたからこそ、これほどまでにキャラクターのリアリティが引き出されていたのだろうし、観客もマイク=イーストウッドだと思いながら観賞する事ができたんだと思う。
強く勇敢でワイルド、馬を駆り、銃を打っ放し、気に食わない奴には鉄拳制裁。出てくる女はみんな自分のものになる。
イーストウッドが演じてきたキャラクターこそ、正にアメリカン・マッチョイズムそのもの。
しかし、このマッチョイズムは独りよがりで排他的な正義感という側面も持つ。
「Make America Great Again」を掲げた某大統領がメキシコ国境沿いに分離壁を建設しようとしていた事は記憶に新しい。
自国と他国、自分と他人、その隔離と排他を押し進める為の力こそがマッチョイズムであるならば、そんなものには何の価値もないとイーストウッドは切り捨てる。
本作でイーストウッドが新しく打ち出すマッチョイズムとは、チキン(臆病)の皮を被ること。
臆病なことや弱いことを不要だと切り捨てることはない。
弱いからこそ他人と手を取り合って生きていくことが出来るのだろうし、年老いた肉体にも新しい可能性を見出すことが出来る筈なのだ。
チキンとコック(男根)は表裏一体である。
それこそがイーストウッドが90歳を過ぎて呈示する新たなマッチョイズム。
若き日のキャリアを振り返り、それを「過大評価」であると言い切り、その上に新たな価値観を築き上げる。
まさにイーストウッドの人生の総決算のような映画であり、もはやこれは面白いかどうかとか、そういう問題ではない気がする。
イーストウッドが人生を締めくくるために作ったのではないかと思わせる一作。
とはいえ、イーストウッドが本作を最後にポックリ逝くとは思えない。
マジで200歳くらいまで生き続けて映画を撮りまくって欲しいし、イーストウッドならそれも不可能ではないような気がする…。
老人のみが醸し出せる理屈のないユーモア
TOHOウェンズデイに
今日見逃すともう後がないかもしれぬと仕事を早退
前の二作 その前も と傑作続きだったので
かなり期待していたが… オラとしてはアラ? という感じ
話はシンプルだし長さもちょうどよいが
なんか所々に違和感が残った
・母親はなぜイーストウッドに迫る
・レストランのオバサンはなぜ2人をかくまう
→イーストウッドじいさんはなぜそんなにモテる
オラの親父が他界した歳より上なので
・息子の気持ちの変化のタイミングと行動が不規則で
しっくりこない
・牧場でそれなりに時間が経過していることがうかがえたが
割いている時間が短いような
・追っ手弱すぎ
大長編の小説を無理矢理1時間半にまとめ
説明的なエピソードを極力省くとこのようになると分析する
まぁ1970年代の話みたいだし
牧場でのエピソードなどは微笑ましく 画はキレイ
老人のみが醸し出せる理屈のないユーモアを感じ
平和でほのぼのとした幸せな気持ちにさせられたのは事実
イーストウッドの遺作としては惜しいのでもう1作お願いします
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