「精神的マッチョさが伝えられたか」クライ・マッチョ 葵須さんの映画レビュー(感想・評価)
精神的マッチョさが伝えられたか
マッチョと呼ばれる鶏と、イーストウッド自身が演じるマイクがマッチョのシンボルとして描かれていたが、鶏はやるときはやる(敵にとびかかる)やつだったし、イーストウッドも難しい選択肢を与えられてその場その場を乗り越えるためのベターな選択をしようと努力しているのは分かったが、それらが自分の中のマッチョにつながることはなかった。
結論をいうと、イーストウッドが今作で言いたかった『マッチョとは若くて筋肉質で好戦的な男でなくとも精神性によってなることはできる』、というのは、彼自身が演じたマイクの様子では伝えることができていないと思う(少なくとも若かりし頃の彼の活躍をほぼ見ていない自分としては。マイクではなくラフォについてはラストにかろうじてこれから漢になっていく将来性が見えたのだが)。
マイクとラフォが今作中に遭遇しそれを乗り越えようと悪戦苦闘し、ラストには形としてはハッピーエンドを持ってこれたそのテーマ性は、マッチョというよりは家庭内トラブル、その中でも子供の教育問題であった。そして、今作中では子供の問題を起こした両親の考え方の問題は変化しておらず、両親ともに間違ったまま終わったし、子供は子供でこれから父親の本性と相対することになるのでラスト後が正念場であった。マイクが解決したのは恩のあるラフォの父親に恩を返すことで、そこまでの道のりでラフォに人生の先輩として生きる指針は与えられただろうと思う。ラスト、ラフォが眉間にしわをよせて、マイクを振り返り、その後父親に向かっていく姿には今作中で一番マッチョさを感じた。男は一人で強くなるということを言いたかったのかもしれない。