「また、芦田愛菜にやられた」メタモルフォーゼの縁側 シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)
また、芦田愛菜にやられた
原作コミックは未読。
本作もこの前に観た『恋は光』と同様に「愛すべき小品」と呼ぶに相応しい作品であり、今の邦画にある繊細さを感じた作品でした。
最近梅田のミニシアターに行かなくなった理由に、私の興味ある大半の作品が遅れてこの“塚口サンサン劇場”で上映してくれるのが大きな原因の一つです。(作品選びをしている劇場スタッフに感謝致します)
芦田愛菜と宮本信子W主演でしたが、このコンビを見ると『阪急電車』を思い出し、『阪急電車』と同様に本作もテーマは“変身”(メタモルフォーゼ)若しくは“成長”でしたね(笑)
しかし感心させらるのは、相変わらずの芦田愛菜の俳優としての能力値の高さというか天才性でした。難しいとされている名子役から大人の役者へのメタモルフォーゼもWで本作で味わえました。
それは『星の子』でも感心させられたのですが、役柄に対する理解力というか、人間観察の鋭さというか、無意識にそれが表現出来てしまう恐ろしさというか、本作の役は特別な才能を持っている訳でも優秀でもない極平凡で普通の女子高校生という役柄を、俳優として特別豊かな才能を持つ彼女が余りにも的確に演じてしまう事に対して脅かされ、凡人からするとその才能に嫉妬てしまいます。
凡人に天才の真似は出来ないが、天才は凡人の真似が出来てしまうのでしょうかね(爆)
というより人間には様々な能力があり、そのどれかの能力を誰にも気付かれない(示せない)まま終わるか、気付かれる(示せる)かの違いであり、自分の中にある何か一つの能力が高くても他の能力は普通(若しくは低い)だと自覚出来る人間は、当然普通(低い)側の感情も理解出来るという事なのでしょう。才能豊かな人ほど謙虚で、そうでない人ほど不遜と思えるのは、ある意味当然なのかも知れません。
本作は最初から最後まで極々平凡な人達の平凡な物語ではあるのですが、それに敢えてタイトルに“メタモルフォーゼ”という言葉を使っている意味を考えた場合、“意識”に対するメタモルフォーゼという事なのでしょうね。何かを“好き”(になれる)というのも一つの能力であり才能であるという事に気付けた人達の物語であったのだと思います。
追記,
本作の芦田愛菜が疾走するシーンがあり、個人的に非常にそれが印象的だったのですが、レビューを読んでいると結構それを書いている人が多くて、同じように思った人がいるんだと嬉しくなりました。