ファーザーのレビュー・感想・評価
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認知症目線という斬新、かつ涙目。
「さ迷い、失い行く」を体験する
正直、和解と許しの物語か、と勝手に想像していた。
だが期待を裏切るストーリーは、
ヘタなホラーよりも格段に恐ろしく、
ヘタなサスペンスよりも格段にハラハラさせられる。仕上がりだ
おかげで何が事実で何が虚構か。
誰が誰で、いつ、どこなのか。
ときおり見せつけられる現実に、観客は主人公と同じ体験を強いられ、
恐怖と混乱と絶望に陥れられる。
唐突に始まる物語は舞台劇のようで、さほどシーンに切り変わりもなく、
派手さなどもってのほかだ。
だが上記のようなミスリードでたたみかけられると、もう勘弁してください
というほかない。
主人公のような人物像はよく、第三者目線で描かれるが、
これは当事者目線の物語である。
物語として一貫性を欠くにもかかわらず、起承転結が整い
観客を置いてゆくことのないシナリオ構成は圧巻。
もちろん主演、アンソニー・ホプキンズの演技も抜群で、
まだ見たことのなかった世界観があったのか、と唸らされる仕上がりだった。
そしてそこはかとなく切ない。
正しく認知できなくなった時の、人の「尊厳」についても痛いほど考えさせられる。
ラストもあそこで切れるなどと、魂レベルでえぐられた。
老いの不安、悲しみを描いた名作
認知症の父親と、彼の世話をする娘のやり取りを中心に、老いの不安と悲しみ、周囲の困惑と辛さを丁寧な展開で描く。脚本がとても良くできていて、それを演技力の非常に高い俳優さんが演じているので、リアリティーがあり過ぎて、観ている方も双方に感情移入してしまって辛くなってしまいました。
年齢をとって、身体だけでなく記憶力や判断力も衰えてしまい、自分が自分でないように感じられ、周囲からも邪魔にされ、重荷に感じられているのだろう、見捨てられてしまうのじゃないかと不安になって、疑心暗鬼になり、悪い妄想に苛まれる気持ち、とてもよくわかりました。自分の親や自分自身にも、いつかそういう時が訪れるのだろうと思うと、誰にとっても他人事とは思えない映画だと思います。
私の父も認知症だったので、最後の方は娘の私のことも誰なのかわからなくなってしまったけれど、性格的にすごく素直で穏やかで、人を疑うようなことは全くなかったので、幸い映画の娘のような苦労は私にはありませんでした。
4回目の緊急事態宣言が発表された週末の日曜午後に、池袋のシネマロサという昭和レトロ感漂う映画館で観ましたが、映画を観に来ていた観客の多くが、20-30代ぐらいの若者だったことに、少し驚きました。
認知症側の世界
メンタルにきた
頑固でお茶目
この数年少しずつ認知障害が出てきていて、5分おきに「お前太ったんじゃないの?」と聞いてきたり(ええ、太りましたとも)、今の自分や家族の年齢を聞いてビックリしたり、自分でも自覚していたようなことを口にしたりと、それでもまあしょうがないかと思える程度で済んでいたからかもしれないが、コロナのせいもあって1年以上会えないままこの春亡くなった父親がいたりすると、また違う感想があるのだろうか。願わくばアンソニーのような恐怖と孤独を感じずに済んでいれば良かったが…無理か。
終盤とうとう自分が誰か分からなくなり、子供にかえって母親を恋しがって泣くアンソニーの姿には、それがアンソニー・ホプキンズであるということも相まって、余計に動揺した。
まさかあの介護師が虐待してる裏設定とかないよね。
過去なのか記憶なのか幻想幻覚なのかそれらがごちゃ混ぜになっているのか判然としないが、それがまた居心地悪く感じさせアンソニーの不安を追体験した気になる。
かなり怖い。ラストおじいちゃん可哀想。
老いを疑似体験
亡くなった祖母のことを思い出してつらかった。祖母も晩年は認知症の症状が重くて、家族のことも誰が誰だかわからなくなり、すぐに人に物を盗まれたと疑うようになった。
家族としては見ていてつらかったけど、この映画を観て認知症を患っている人側を疑似体験すると、祖母は祖母でとても寂しくて怖かっただろうなあと。日々わけがわからないことが次々と起きる。きっとものすごく混乱して、ストレスがかかって、誰にも理解してもらえずに孤独で…
だけどこの目線を少しでも体験できたことは、いろいろな立場の人に寄り添うことにつながるんじゃないかな
事実は一つかもしれないけど、少しでもその人の中の「本当」を信じてあげられるように。
何故アンソニー・ホプキンスが名優かが分かる映画
ここで映画のプロットを語ろうとは思わない。
何故ならそれは皆んながやっているだろうからだ。
故に自分はここで何故アンソニー・ホプキンスが名優なのかを語ろうと思う。
アンソニー・ホプキンスの凄さは彼は徹底的に演技を即物的に行おうとしている。
よくアンソニー・ホプキンスと比較されるのはダスティー・ホフマンなのだけど
彼はアンソニー・ホプキンスと真逆を行くスタイル。
それはつまりどう言うことかを言うと
ダスティー・ホフマンは演者として行間を大切にするタイプなのだ。
例えば彼は煙草を吸うシーンがあるとそこに仮に大人になってから30年の重みを出そうとする。
何故彼がそう言う姿になってしまったのかの行間を表そうとする。
ところがアンソニー・ホプキンスには一切それが無い。
役を演じきる事に彼は人一倍熱心なのに彼は行間で何かを語る事は一切しない。
タバコを吸うシーンがあっても彼はそこに何も描かない。
しかし何故か30年以上煙草を吸っていた重みが不思議に出るのである。
だから彼に「羊たちの沈黙」があまりに凄かったからと言って
ダスティー・ホフマンの様な役作りをしようとしたんですか?と聞くと
「そんな事は何もしないさ。私は仕事として役を演じただけであって、自分はレクター教授とは違う人物だ。自分はアンソニ〜ホプキンスだよ。」とそれを言った人物に素っ気なく言うだけなのだ。
下手すると映画の撮影時間もきっちり決まっていて
朝の9時に撮影所に来て何かを演じたら
17時には家に帰るみたい仕事をする人であるのだ。
非常に淡白と言うか仕事に対してあっさりしていて拍子抜けするくらい。
それなのにあの重厚な演技である。
何も行間には書かれていないはずなのに
その人物がどの様な人物かと言う事を誰よりも雄弁に語らせる。
今回の映画はシーンの時間や空間が交錯しまくるので最初一体何が何だかわけが分からなくなるが
その複雑な状況にある1人の老人を見事に演じきる。
性格に波があって非常に剽軽に戯けたかと思うと
次の瞬間突然猜疑心剥き出しになったりして波が激しい。
ドライな演技法なはずなのにこの結果、この演技。
それが実に素晴らしい。
見所はこの映画の最後のシーン。
アンソニーが自分が誰かさえも此処がどこかも分からないんだと子供の様に泣く。
それがまるで小さい子供が母親からはぐれたかのように泣きじゃくる。
そんな彼を抱きしめて服を着替えて公園にお散歩に行きましょうと誘う介護の女性。
彼女も仕事のうちでその様な対応をしているのだろうけど
まるでマリア様の姿をみている様で崇高に美しい。
素晴らしいシーン。
最後は如何にアンソニー・ホプキンスが素晴らしい名優かと言う事のみが残る。
アカデミー賞本命じゃないかと言うのも頷ける作品。
何故アンソニー・ホプキンスが名優なのかが分かる映画
ここで映画のプロットを語ろうとは思わない。
何故ならそれは皆んながやっているだろうからだ。
故に自分はここで何故アンソニー・ホプキンスが名優なのかを語ろうと思う。
アンソニー・ホプキンスの凄さは彼は徹底的に演技を即物的に行おうとしている。
よくアンソニー・ホプキンスと比較されるのはダスティー・ホフマンなのだけど
彼はアンソニー・ホプキンスと真逆を行くスタイル。
それはつまりどう言うことかを言うと
ダスティー・ホフマンは演者として行間を大切にするタイプなのだ。
例えば彼は煙草を吸うシーンがあるとそこに仮に大人になってから30年の重みを出そうとする。
何故彼がそう言う姿になってしまったのかの行間を表そうとする。
ところがアンソニー・ホプキンスには一切それが無い。
役を演じきる事に彼は人一倍熱心なのに彼は行間で何かを語る事は一切しない。
タバコを吸うシーンがあっても彼はそこに何も描かない。
しかし何故か30年以上煙草を吸っていた重みが不思議に出るのである。
だから彼に「羊たちの沈黙」があまりに凄かったからと言って
ダスティー・ホフマンの様な役作りをしようとしたんですか?と聞くと
「私は役を演じただけであって、自分はレクター教授とは違う人物だ。自分はアンソニ〜ホプキンスだよ。」とそれを言った人物に素っ気なく言うだけなのだ。
下手すると映画の撮影時間もきっちり決まっていて
朝の9時に撮影所に来て何かを演じたら
17時には家に帰るみたい仕事をする人であるのだ。
非常に淡白と言うか仕事に対してあっさりしていて拍子抜けするくらい。
それなのにあの重厚な演技である。
何も行間には書かれていないはずなのに
その人物がどの様な人物かと言う事を誰よりも雄弁に語らせる。
今回の映画はシーンの時間や空間が交錯しまくるので最初一体何が何だかわけが分からなくなるが
その複雑な状況にある1人の老人を見事に演じきる。
性格に波があって非常に剽軽に戯けたかと思うと
次の瞬間突然猜疑心剥き出しになったりして波が激しい。
ドライな演技法なはずなのにこの結果、この演技。
それが実に素晴らしい。
見所はこの映画の最後のシーン。
アンソニー・ホプキンスが自分が誰かさえも
此処がどこかも分からないんだと子供の様に泣く。
それがまるで小さい子供が母親からはぐれたかのように泣きじゃくる。
そんな彼を抱きしめて服を着替えて公園にお散歩に行きましょうと誘う介護の女性。
彼女も仕事のうちでその様な対応をしているのだろうけど
まるでマリア様の姿をみている様で崇高に美しい。
素晴らしいシーン。
最後は如何にアンソニー・ホプキンスが素晴らしい名優かと言う事のみが残る。
アカデミー賞本命じゃないかと言うのも頷ける作品。
名優ホプキンス
斬新な演出?
恐ろしい映画だった。
タイトルなし
「わからない」ことの怖さ
今年71本目(合計136本目)。 ※70本目と71本目は鑑賞日が違います。
さて、こちら。大阪市ではコロナ事情で、遅れ放映で、他に押している状況ですでに放映回数も少なめになっている状況。
多くの方が書かれている通り、認知症を患った父親目線でのお話。そのため、ストーリーは「その意味で」支離滅裂で、また、その認知症をケアする家族や関係者から見た目線でも、「その意味でも」支離滅裂です。認知症そのものは今では多くの方が知っているメジャーな病気ですが、それが進むと、本当に手の付けられない状況になります。とはいえ、だからといって、そうなったら老人施設か何かに入れておけばいいのかというと、それもまた考え方は分かれます。施設で見てもらう分には、設備の整った専門の方のケアが受けられますが、余命が短いことがわかっている場合、あえて施設に頼らず、家族と最低限の外部のケア(看護師さんとか、ヘルパーさんとか)だけで余命を…ということも考えられるからです。
この映画は、「この意味において」理解が難しい内容です。ただ、その趣旨は、当然「認知症になると、本人や家族はどうなるのか」という問題提起にある点は明らかで、ストーリーの中でもその点、支離滅裂になる点は前提とした上で、理解不能にならないようにケアが入っています。
特に減点材料とするべき点もないので、フルスコアにしました。
実際、認知症を患っても、イギリスにお住まいとの設定で、「言語が支離滅裂になる」ということはないのですね(単語を忘れる、同じような文の言い回しになる、といったことは想定可能な設定だが、それが読み取れる内容は一切出てこない。むしろ、この点に限っていえば、「認知症を患っても、国語能力は残る(場合がある)どころか、何らの衰えもなく議論するほどに会話が可能」という例で(もっとも、実話ものでもないようですが)、その点は理解できるので(言語といったことは、日常生活で使うことなので、衰えても全く使えないということは起きにくいが、簡単な算数や理科でも、日常使わないものになると、やっぱりわからない、ということは容易に想定可能)、特に気にしませんでした(むしろ、言語関係は衰えない(場合がある)」という描写は、誤った知識を植え付けないようにしている点で評価しました(おそらく、この点は何らか監修を受けているのだと思います)。
自分という概念の喪失。
終始大混乱で鑑賞。ほぼ頭の中がぐちゃぐちゃでした。誰が実在の人物で誰がアンソニーの見ている幻覚なのか。誰の言葉が真実で誰の言葉が妄想なのか。その答えが見つからないまま時間だけが過ぎてゆく。まさにアンソニー同様今、何時だ?と聞きたくなってしまうような気分だった。
そしてこの何が何だか訳が分からない感覚こそが最大のテーマであり見所でもある。認知症を発症したアンソニーの視点から描かれる日々を私たち観客も疑似体験することになる。
壁に飾られた絵画。盗まれた腕時計。繰り返される出来事。噛み合わない娘アンとの会話。何かがおかしい。でも何がおかしいのか分からない。認知症は劇的に改善することはない。それ故そちら側の世界の詳細を体験者から知ることはできない。それなのにこの妙にリアルな体験はなんだろう。
父親の変化を何とか理解しなくてはともがくアン。その葛藤や絶望感はいつの日か私自身が抱える問題かもしれない。更に言えば自分が認知症にならないなんて言い切ることは誰にもできない。
自分という概念の喪失。これ以上の恐怖はこの世にないかもしれない。
アンソニーの涙
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