ファーザーのレビュー・感想・評価
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民族の違い?
ボケはじめの頃ってそれを指摘されるとごまかしたりするから発覚が遅れると聞いたけど、この主人公はキレまくりますね。民族や国民性によって認知症の症状って違うのかな?それがこの映画を見て一番気になったところ。もちろんアンソニー・ホプキンスの演技は素晴らしい。女王陛下のお気に入りで気に入ったオリビア・コールマンも素晴らしい。でも想像してたのから一歩もはみ出ない映画って退屈しちゃうよね。最後に急に弱気になる?子供に戻る?のも安直で舞台なら分かりやすくて良いのかもしれないけど映画では物足りない。
ママ
人の記憶って
主人公の男性は、とても元気で何にも無く過ごしていた。だけど、自分で気づかないくらいに病気が進行していて健忘症になってしまっていた。
アンソニーホプキンスが演じる男性は、実際しているかのような演技で観てる方に何の違和感も与えない。
自分の記憶が分からなくなってしまう病気を外からみる作品は、多いなと思うけど。
自分がなっている作品って珍しいなと感じた。
実際に自分がなってしまうとこういう事になるのかもしれないと少し怖さもあった。
自分が思っているもの全てが違ってしまっているというのは、とても怖くて悲しいなと感じた。
身近な人やこういう人達に出会った時に少しだけ、今までとは違った視点から相手と接する事が出来る様になるかもしれない。
残酷な現実
《認知症における『混乱』とは》
素晴らしい演技でした。
素晴らしき、擬似体験
ホプキンスの独壇場
父の悲しみ
今年のアカデミー賞の主演男優賞発表の時に、そのサプライズは起きた。
『マ・レイニーのブラックボトム』の故チャドウィック・ボウズマンではなく、名前を読み上げられたのは本作のアンソニー・ホプキンス。
自分は作品も見ており、ボウズマンへの追悼も込め、受賞はまず間違いナシと思っていたから、びっくり仰天。
それはアカデミー側も同じで、異例の主演男優賞発表を大トリにして、感動の授賞式で終わろうと狙っていたようだが…、別の人物(しかも授賞式欠席)が受賞しちゃったもんだから、大慌て。まるで打ち切るかのように授賞式中継はフェードアウト…。
ある意味面白かったね、筋書きナシの“醜態”ドラマ。(筋書きナシはホプキンスの受賞に対しての称賛、醜態はアカデミーに対しての…)
以来ずっと気になって仕方ない、どちらが受賞すべきだったか。
やっと本作も見て、MY判定出来る!
英ロンドンで一人暮らしの81歳のアンソニー。認知症を患う。
娘アンは時折訪ねるも、父は介護人を拒否…いや、追い返し、アンを心配させる。
そんな父の認知症はさらに進行し…。
認知症の父と娘の物語。
認知症を題材にした作品は古今東西、腐るほどある。
邦画でも2019年に認知症の父とその家族を描いた『長い散歩』があり、邦画らしいユーモアとハートフルと感動仕立ての作品だったが、本作はまるで違う。
シリアスな父娘ドラマを軸に、サスペンス色やどんでん返しあり、衝撃作。
とにかく癖が強いアンソニー。
それ故介護人は次々嫌気が差し辞め、アンをも困らす。
それでいて、知的と自負。
周囲を翻弄させる様は、もしレクター博士が認知症になったらこんな感じ…?
認知症を扱った作品だと大抵、周囲の視点から描かれる事が多い。
父が私たちの事を忘れていく…。
悲しみ、苦しみ、恐れ。支え、その先にある家族の幸せ…。
が、本作は認知症を患うアンソニーの視点から描かれるのがミソ。
登場した時から見る側をも振り回すアンソニーの言動。それは単に認知症だからなのか、それとも何か別の…?
一人暮らしの筈のアンソニー。なのに、見知らぬ男が自宅に居る事に驚く。しかも、娘の夫を名乗る。何故なら、アンは離婚して5年経つ。
ちょうどその時、買い物に出ていたアンが帰って来る。…が、その娘の顔が別人。時々娘の顔が別人に見える事がある。
(↑これら最後のどんでん返しの伏線)
自分は正気なのに、戸惑い、恐怖…。
アンから恋人が居るパリに引っ越す事を伝えられる。
娘の夫から、ここはあなたの自宅じゃないと告げられる。
ここは私の“フラット(家)”だ!
主な舞台となるアンソニーの自宅アパートにも仕掛けが。
アンソニーにはもう一人娘が。気遣ってくれるが、お節介なアンとは違って、可愛い娘だというルーシー。が、そのルーシーは一切姿が無い。可愛いと思い込んでいるのは自分だけ…? それともまた何か別の事情が…?
アンソニーの認知症が進行していくと共に、現実と幻想の狭間が混濁。そして、時間すら曖昧になっていく。
見る側もアンソニーの視点に。一体、何が正しいのか分からなくなっていく…。
基の戯曲では“アンドレ”。
名前や年齢や誕生日など細かな設定まで、監督がホプキンスに当て書きして変更したという。
ホプキンスがそれに応え、徹底した役作りを…何としていない!
晩年の父を思い出しながら演じたから簡単だったとの事。
嘘でしょ、この演技が!?
役作りは行わず、シナリオの中に全てがあるとシナリオ熟読し、役に成りきるというホプキンス。
しかしそれは、この名優だからこそ出来る“役作り”だと思う。
でなければ無理だろう。『羊たちの沈黙』以上の至高の名演が。
父の事は本当に心配。
でも、自分の幸せも。
父に対し複雑な思いも抱える。
そんな娘の葛藤、苦悩…。
ホプキンスに引けを取らない難役を演じたオリヴィア・コールマンも巧い。
演技が特に絶賛された本作だが、演出や構成も素晴らしい。
先述もしたが、娘の夫を名乗る男と別人顔の娘。
姿を現さないルーシー。さらに、自宅アパートやアンも。
実は見ていて、何となく少しずつ察しは付いたが、それでも真実とどんでん返しが一つになった時の巧みさには唸った。
自らの戯曲を映画化し、本作で映画監督デビューとなったフランスの小説家/劇作家、フロリアン・ゼレール。また舞台の世界から確かな演出力を持った俊英が現れた。
ここからネタバレになるが…
画家だったルーシーは数年前に事故で死亡。
“男”と“女”は老人ホームの人物。
アンソニーが居るのは自宅アパートではなく、老人ホーム。
アンもすでに恋人と共にパリに住んでおり、時々帰ってきて様子を見に来る。
そう、全てはアンソニーの妄想。
認知症の体現の怖さがよく言われているが、私は別のものを感じた。
まるで、木から葉が全てこぼれ落ちていくかのよう。
喪失、悲しみ…。
子供のように泣きじゃくるアンソニーの姿に、言葉も出なかった。
見ながら、ふと思い出した。
私の亡くなった祖父も認知症とまではいかないが、ボケが酷くなった事があった。
まだ若年だった私はそれを気味が悪いと感じ、祖父を敬遠した時期があった。
もし、多少人生経験を積んだ今だったら…?
さて、MY判定。
確かにホプキンスは、寸分違わぬ受賞に相応しい名演であった。
でも、もう二度と受賞する事のない熱演で、これが最初で最後の…である事を思うと、ボウズマンに受賞して欲しかった。
やっぱりどうしてもの本音。
流石アンソニー・ホプキンス
本作をどう「小説」で、描くのか?
本作を見る前から、「原作がある」ことは知っていた。
だから、映画を見ながら、
「原作はどうやってるんだ?」と気になった。
なぜなら、主人公(=観客)の「混乱」は、「視覚」からの混乱だから。
娘はだれ?
娘の夫はだれ?
自分の部屋は?
娘と同居してるの?
全て「視覚」だ。
上記が毎回変わり、主人公にも観客にも「真実」が分からない、
というか「真実はどうでも良い」のかもしれない。
この困難な題材をスタイリッシュでテンポよく描いた監督の手腕に称賛を。
ギミックは興味深い。 でもストーリーが面白いとは思えなかったかなぁ。
これは現実?
認知症の父が見てる世界なのか、現実なのか。
とても複雑ではあるけれど、難しい設定をうまく表現できていたと思う。
ラストはやはり現実とはそういうものだと、納得しながらも悲しかった。
ひとは老いる
アンソニーの脳内の錯綜(アルツハイマー)が説明されずに絵になっているので、サスペンスのようにも見える。つまり、かれのまわりの人たちが結託して、アンソニーを欺そうとしているように(も)見える。
その見え方が、アルツに侵された老人の懐疑心や孤独をあらわしていた。──みごとな構成だった。
(わたしは日本映画をdisりながら外国映画をほめる牽強付会なレビュワーだが)日本映画がこの主題=老いと介護で、映画をつくるならば、お涙にするんじゃなかろうか。と感じながら見ていた。
日本映画界が誇るお涙頂戴作風の雄、中野監督の「長いお別れ」が、この映画の設定に近似している。因みにこの小説及び映画にたいして個人的になみなみならぬ嫌悪をかんじるのは、四半世紀愛読しているチャンドラーとおなじタイトルだから。ふざけんなよ。(と思います。)(個人の見解です。)
それはともかく、日本は高齢者比率が世界一。したがって「老い・介護」はこの惑星で日本がもっともその窮境を負っていると言って過言はありません。日本人にとって、現実的で身近で、まさしくわたし/あなたが直面している「老い・介護」の話がなぜお涙頂戴になるのか、わたしには解りません。
だからこそ、お涙におとしていない映画The Fatherを見てがつんときた。アンソニーの見る非現実や、家族のお荷物になっていく境遇に共感ができた。ラストで幼児化してママ、ママと泣きくずれるアンソニーを見て恐怖を感じた。
わたしたちにんげんが、おとなにならなきゃいけないのは、最後の恐怖(=ひとりでしぬこと)を耐えるためではないでしょうか。わたしは、アンソニーのラストの泣き顔を見たとき、猛烈に、しぬときはひとりだと感じました。
しぬのは怖くない?孤独も寂しくない?いやいや、そんなことは言ってません。アンソニーはもはや、他人はおろかじぶんが誰かも、どこにいるのかも解らなくなっているわけです。そういう状態のにんげんにしぬのは怖くないとか、孤独が寂しくないとか、は有り得ません。病床に臥せったままの状態のにんげんでも、それは同じです。わたしたちは、健康な状態のまま、ある日・ある時間を堺に突如しぬわけじゃない。現代の医療においては、どんな悲惨な状態であろうとも、長い長い恍惚の期間をすごして、ゆっくり死んでいくのです。
だめなら死んじまえばいい。という考え方があると思います。生きていかれなきゃ死ぬだけ。とか言う人がいます。だけどそう言ったり考えたりする人も、走っていて、ある日・ある時間を堺に突如しねるわけじゃない。死んじまえばいいんだ──と潔く聞こえるコトバをはきながら、不摂生をかさね、太く短く生きたひとが、ながく他人様の世話になるアルツハイマーや寝たきり状態をへて、ゆっくり死んでいくわけです。それが「老い・介護」の問題です。
で、われわれはアンの立場でもあり、将来のアンソニーでもある。だからどっちについても意見がありますが、親の介護に直面している輩が「おまえになにがわかる」風の逆切れコメント&マウントしてくるのをヤフコメでよく見ますので、介護については言いますまい。(わたしも親の介護をしていますがこの国には何百万とそんな人がいるので親の介護をしていることでマウントとってくるやつってまちがいなくあほだと思います。「親の壮絶介護」ってのは、ネタが尽きた芸人か、懐かしの有名人が生存報告にやるエンタメニュースのことです。)
ただし、じぶんの老後については、だれかの世話にならないように、ぽっくりいけるように、あるいは待遇のいいホームに入れるように、(それらが適うかどうかは解りませんが、)いまの人生をおくることはできると思いました。(=しっかり稼ぐとか、身体をきたえるとか、健康を維持するとか、他人を扶けてあげるとか、そういうレベルにおいて)じぶんのためでもありますが、とうぜん、家族や周りにんげんの為でもあります、
もうひとつ感じたのは広く清潔なフラット(居住空間)。狭い家屋でないことでかなり気が紛れた。主題に反して撮影も超アーティスティック。そしてオペラ。このすさまじく重い主題が、うつくしいフラットと音楽によって、おとなの事情もしくはそのリメイクでも見ているような気分で見ることができた。ラスト、カメラが窓からさわやかな新緑をとらえた。この後味で「老い・介護」を描いたことに驚嘆した。
認知症の老人の主観
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