ファーザーのレビュー・感想・評価
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悪戯な演出を駆使した演劇を楽しみ、認知症の怖さを演じたアンソニー・ホプキンスの名演を堪能できる趣味の良い映画
認知症の父とそれを受け入れる娘の心の内を描いた演劇映画。自作の戯曲を演出したフランス人監督フローリアン・ゼレールと、イギリス映画「キャリントン」の脚本・監督と「つぐない」の脚本のクリストファー・ハンプトンの共同脚色が非常に高度な演劇趣味を映画で再現している。これを純粋なフランス映画にせずイギリスを舞台に変更した理由が、名優アンソニー・ホプキンスを主役にするためにあったのが納得の、一人芝居の大名演を生む。1937年12月31日生まれと劇中で語るアンソニーは、そのままホプキンスの誕生日ではないか。ここまで俳優個人の生涯を前面に出して良質の演劇を見せることは稀であると思う。それも老いて枯れて人生の最終地点にある認知症の病に罹った老人の哀れで悲しい姿を正面から残酷に描き切っている。
この映画の観方には、二つの視点がある。一つは、その名優の名を恣にするアンソニー・ホプキンスの見事な演技を堪能すること。介護人アンジェラに暴力を振るい娘の家に引き取られても、自分のフラット(ワンフロワー)と言い張り、娘アンと恋人ポールを老人ホームの介護士のキャサリンとビルと見間違い、若い介護人ローラに事故で亡くした娘ルーシーを重ねるアンソニー。老獪な顔を見せたり、タップが得意と自慢する愉悦の表情や施設に入れようとする話に激高する様子など、喜怒哀楽の激しい認知症の症状をリアルに演じている。圧巻は、ここは何処、私は誰?の状況に陥った最後の場面で、アンソニーを名付けた母を想い出し、ママを呼んでくれと泣く子供のような仕草のホプキンスの上手すぎる芝居だ。
もう一つは、舞台の幕を模した場面構成の巧さとその舞台美術のハイセンスな色調の統一性。アンの家とされる舞台が、徐々に変化して行きながら最後老人ホームに辿り着く。つまりは、老人ホームにいたアンソニーの幻覚と思わせる演出の真剣な遊びがある。冒頭から青と赤を際立たせても、実に落ち着いた色調で最後の場面に自然に繋げている。アンソニーのベットルームのインテリアの配置や途中ルーシーの描いたピルエットの少女の絵が消えるところなど、伏線も考え尽くされている。特に前半は鮮やかな青色が目立ち、これはフェルメールの絵のような映像美を狙ったのかと思われた。演出では、最初のキャサリンがアンソニーと同時にベットに腰掛けるカットがいい。最後の場面でもキャサリンは、アンソニーと一緒に腰かけている。
アンソニーの視点から描かれた人物の謎と舞台変化の混乱が、映画的な面白さを誘発していることが先ず挙げられる。その上で主演アンソニー・ホプキンスの演技を味わう贅沢な演劇映画であった。個人的には、娘アンを演じたオリヴィア・コールマンも素晴らしいし、介護士キャサリンのオリヴィア・ウィリアムズの優しさに満ちた眼差しもいい。それと音楽の選択も渋い。パーセルやベッリーニの音楽は詳しくないが、ビゼーの『耳に残るは君の歌声』は久し振りに聴く。テナーの張り上げた高音のオペラ風ではなく、しっとりと切なく歌い上げた歌唱が映画の世界観にマッチしていた。調べると、シリア・デュボアというフランスのまだ若いテノール歌手と知る。このビゼーの名曲は、プラシド・ドミンゴやカルーソーも素晴らしいが、個人的にはアルフレード・クラウスが好み。でもやはり、この作品に合っているのは、このデュボアの情感を込めて落ち着いた歌い方であると思う。
ラストにアンソニーが、記憶を無くす自分を“すべての葉を失っていくようだ”と表現した。ラストカットは、陽光に照らされた新緑の木々がしなやかに風になびいて、一つひとつの葉が生き生きとそよいでいる。これは未だ10代か20代前半の人間の姿であろう。もう自分は半分以上の葉を失った年齢になった。それを想うと、もうその姿には戻れない怖さにゾットしてしまった。
すべての葉
認知症の混乱とはこんなものなのだろうか?観ている者も何が本当か分からなくなる。時間の認識、人の認識。葉が落ちていくように記憶もなくなる。みんな誰かの子供、観ていて切なくなる。
最後子供に返ってママを求める所は悲しみに暮れる。
ここは私のフラット(家)だぞ
映画「ファーザー」(フロリアン・ゼレール監督)から。
いつかは自分も通る道(認知症)と考えると、他人事ではないが、
認知症の本人と、家族を含めた周りの感覚にこんなに違いが
あるのかと、考えさせられた作品となった。
「少し前からなんだが・・」と前置きをして
「妙なことばかり起きる、気づいてたか?」。
ラストには「何か様子が変だ。なぜ私はここに?
私は誰なんだ?、何が起きてるんだ?」と呟く。
しかし、作品中、気になったのは、
何度も何度も繰り返される「ここは私のフラット(家)」。
生活した家だけは、記憶の中で、残り続けるのか、
雰囲気が変わっただけでも気付く。
娘さんの家に移ったことはわからなくても。(汗)
字幕の妙は「ここは私の家だぞ」でもいいのに、
なぜか「ここは私のフラット(家)だぞ」と訳される。
わざわざ「フラット(家)」とする意味がわからなかった。
誰かわかる人がいたら、是非、教えて欲しいなぁ。
P.S
イギリス人のフランス人評価「英語も通じない連中」
これが一番、笑えたかなぁ。
迷路に迷い込むということ
良く出来ている映画だと思う。
観ていると、人間関係やら時間の流れについて、混乱してくる。新しく入ってくる情報を頼りに混乱を修正して正しく把握しようと試みるけれど、その修正したものは更にその次に入ってくる情報によって打ち消される。そうやって修正を繰り返す。
まるで頭の中が迷路に迷い込んだよう。
見進めると、わかってくる。リアルに起きていることはひとつだけなのだけれど(当たり前だけど!)勘違いをし、自分に都合の良い思い込みをし、忘れてしまっているだけなのだと。辻褄が合わないのはそのせいなのだ、と。
ボケるということは、こういうことらしい、これがリアルだったらキツイなぁと、貴重な疑似体験をさせてくれる映画。
映画では、わからないことだらけで途方に暮れていると、傍らで優しげな女性が「お天気いいからお散歩しましょうね」と穏やかに言葉をかけてくれる。
その場面に、妙に説得力を感じる。
何も不安がらなくてもいいですよ、わからなくてもいいですよ、
それより体を大切にしましょう、いま生きている、大切なのはそれだけです、
だからおひさまを浴びましょう、外に行きましょうね…。
考えてみれば、人生、生きているうちに色んなものが沢山くっついて凄く複雑で煩わしくなっているけれど、本来、本当に必要なものはそんなシンプルなことなのかもしれない、と思ったりした。
自分のためにもういちど観たい
父アンソニーと娘アンの心の機微が見事に描かれていた
肉親ならでは。。。の感情だろう
だって、近所の人がそうした状況にあると知ったときとは明らかに違うのが本音だとおもう
身内でさえ娘とその夫の姿に
よくあらわれている
自分で自分のことがわからなくっていく
恐怖、認めたくない気持ち
対する
よく知ったその人が少しずつ消えていってしまうような寂しさ、つらさ
老いは誰しもの人生の道の先にあるもので
どう受け入れられるかが鍵だと教える
どうしようもない変化に遭遇したとき
あわてるのは仕方ない
でも本作を観た経験は
もしかしたらクッションみたいな
なにかを
ふわっと自分の手元によこすのかもしれない
抗えないことに
そばにいる者がやさしく存在できれば
奇跡のような命のレールで出会った意味、
愛という感情がなしえるものを
ひとつ知ることになるのかもしれない
すべては永遠ではなく
のこされた限りある時間のなかのこと
家についたら一本の電話で
安らぎを与えたいと思った
もし、抜いたばかりの歯を
わたしの歯は一体どこにいっちゃったんだ?とか
今さっきの確認を
そんなのみたこともきいたこともないとか
とんちんかんに思えるやりとりがあっても
もらったクッションをかかえて一呼吸おき
まるごとゆっくり包めるような
できるだけそんな自分になりたいと思った作品
愛をもって
自分のためのクッションは必要だ
悲しい
認知症を描いた映画は結構あるけれど、ここまで本人に寄り添った視点のものは初めてじゃないだろうか。
人の顔と名前、自分が今いる場所、過去の記憶など、全て辻褄が合わないのに、周りはそれが当たり前のように接してくる。まるで1人だけサスペンス映画の中にいるような恐怖。
これだけ見ると同情して可哀想だなで終わるが、周りの立場に立つとそれだけでは済まない。病気のせいだとわかってはいても、心無い発言をされたり同じ話を何度しても覚えていなかったりと、イライラの毎日。アンは娘だからある程度思いやれるし、介護士たちは仕事だから受け流せるが、ポールは他人だからイライラを本人にぶつけてしまう。それでも覚えてないから余計イライラ。
私自身も認知症の家族と暮らしたことを思い出しながら観たが、そうだよなあイライラするんだよなあ。と共感した。
アンソニーは恐らく以前は非常に知的でチャーミングな人物だったんだろうと思うが、そんな彼も認知症になったらただの迷惑老人になってしまう。本人も悲しいし周りの人間も悲しい。ひたすら悲しい映画だった。
そして、始終クラシック音楽が流れ高級なフラットを舞台に美しく描かれている中に、アンがアンソニーの首を絞めようとする描写があったり、アンソニーがアンにお前の葬式が楽しみだ的な発言をしたりと結構エゲツない描写が入ったことで、綺麗事で終わらないリアルを感じて、それがすごく良かった。
名優による、ぼやけていく世界
悲しい、、、アンソニーの演技すごい
まさに祖母の半介護をする母と一緒に見ました
海外でも同じ事象が起こっていて共感しました
そしてアンソニーの認知症のうつろな感じがとてもうまく表現されていて、泣きたくなりました
時間軸飛んだり、言ったことを言ってなかったりどっちやねん!という構成が面白かったですね。まさに認知症体験映画
最後には母を求めるシーン、、、なける
"老い"を受け入れるまでの物語
クライマックスに大きなネタバレがあるので、これを伏せてのレビューというのは中々難しい。
正直なところ、終盤までは退屈に感じてしまった。
認知症のアンソニーと、彼の強情さに翻弄されるまわりの人々、そのどちらにも感情移入してしまった。
その為、認知症高齢者の疑似体験…と言うほど主観的に入り込む事なく映画を見続けた。
しかし、ある出来事を経てここまでの印象がひっくり返る。アンソニーが見てきた世界や、彼自身への印象も大きく変わる事となった。
映画を見終えた今振り返ると、強情でいたアンソニーこそ、実はギリギリの一線に踏みとどまっていたのだと感じた。それを超えてしまってからの彼はもう。。
大衆向けエンタメと対を成す地味な映画ではある。
しかし、今後我々が必ず触れることになる"老い"。そしてそれを受け入れる過程を予習する意味でも、見る価値のある作品である事は確かだ。
アンソニーを演じきったアンソニー・ホプキンスの名演、その素晴らしさは見た者誰もが疑わざるを得ないだろう。
彼がアンソニーを演じたからこそ、この映画の余韻がより印象的に残るのだ。
この映画で 痴呆 を学ぼう
実際経験上
私は正常なのに、世界は狂っている
この映画、アンソニーの心の中のつぶやきがないことが、成功の秘訣のように思います。「いったい、何が起こっているんだ」とアンソニーに言わせず、その言葉を見ている観客の心の中で呟かせる。
そう考えると、この映画はアンソニー目線で描いたというより、あの空間の中でアンソニーを見るもう一人の認知症患者の目線から描いた、と言えるのでしょう。もちろん、もう一人の認知症患者とは、観客のことです。
私は誰で何者なのか。認知症の不安は、存在の不安です。
私とは関係の産物で、タマネギの皮をはぐように取り去ると、残るものは何もない。そこにある根源的な恐怖に、立ち会わせる巧妙な仕掛けがこの映画です。
つまり私たちは、認知症の理解という域を超えて、世界や私の理解の仕方を理解するという体験を共有することになります。ん?そうした私の認識は、あなたの認識と同じなのか?認識の共有とは何なのか?
認知症患者は、迷宮に一人迷い込み、やがて二度ともどってこれなくなる。でも映画を見終えて、もどってこれたような気になっているあなたは、本当にもどってこれている?はて?
認知症を題材としたサスペンスフルな体感映像
アンソニーホプキンス演じる高齢の父が認知症を患い、その進行を追っていくヒューマンドラマの一種だろうと軽く見ていた これほどの傑作を見逃していたことを悔いた
認知症のアンソニーと娘アンの生活を俯瞰で追っていくうちに、見事にアンソニーの主観と入れ替わり、当人の混乱する様を見るだけではなく、体験することができる
これほどの洗練された映像演出は見たことがない
CGなど一切使わず編集と演出で見るものを引き込むだけでなく疑似体験させる その卓越した技法だけでなく、名優の演技が掛け合わさることで、変わり映えのしない映像かつ最小限のキャストにもかかわらず最大限の魅力を引き出せていると感じた
アンソニーの混乱と不安を体験することで、サスペンスフルな展開になり見ていて緊張してくる
こんなコンパクトな映画で新しい感覚に陥れたことがうれしい 映画の素晴らしさに改めて気づけた
すべての枝から葉を失うように・・・
俳優の演技力、映画の構成、舞台、どれをとっても極めて秀逸な作品がだった。
アカデミーをとったアンソニー・ホプキンスの演技力は人の感情を昂らせるほどのものであったし、娘のアン役のオリビア・コールマンをはじめとして他の役者も「自分の傍にいる他者」を演じ切っていた。
しかし、さまざまなコメントを見ていると、この環境に接したものではなければ理解できない世界かもしれないということも否定できない。
まず、言うべきことはこの世界には客観的な視点などないということだ。
おそらくはこの環境に一度として身を置いた経験のある者は言うだろう。
自分の「この」世界を確かなものだと信じたいがために、世界を自分とは異なる見え方を持つ者に対しては躊躇いもなく「たわごとで自分が正気を失いそうになる」と毒づく。おそらくは誰もがそうなのだろう。
自分の時計を「盗み」に来る者は、自分の生活を「奪い」に来る者だ。それはマーク・ゲイティス演じる男であり、ルーファス・シーウェル演じる男であり、また娘のアンもそうだった。
画面を通して私たちが受け止めるフラットの風景から私たちは彼の心象風景を映しとる。自分が誰であっても、周りのものが誰であってっも、私の世界は「私のフラット」そのものであり、それ以外の何ものでもない。
時間と空間、自分を「客観世界」に繋ぎ止めるものに揺らぎを感じた時、人は不安を覚えるものだ。この世界を、当然であるかのように思い生活している日常性こそが、フィクションであることに気づかなければならないにもかかわらず、それに目を向けない。
ここに書かれているレビューのほとんどが見当違いのこのをしているのだが、それもまた客観世界のフィクションを証明していることだと思ってしまう。
だから、その「ずれ」を直すため、側から見れば見当違いなあり方で、それはレコードの飛びを直すのと同様にCDを丁寧に拭くことと同じ作業を繰り替すことでしかできないのかもしれない。
俳優の演技力、映画の構成、舞台。
私たちの日常は、父親アンソニーの言葉にもあり、それは俳優アンソニーの言葉でもある。
他の者たちの言葉もまた役の上の言葉でもあれば、一人ひとりの役を超えて私たちがけとめる「実在」の言葉でもある。
最後の最後に誰もが「世界」を共有し合う言葉を持ってきたのは、この作品が名作であることの証左でもあった。
The Fatherが繰り返すMom(Mother)。
これは、私たちがMatrixに哀哭する瞬間が共通にあることを痛切に思い知らされた瞬間でもあった。
人間の温かみを感じる確かな映画
この映画を観た誰もが、アンソニーホプキンスの芝居に圧倒されると思うが、他の出演者の演技もいい。 映画の構成が巧みで、ホプキンス演じる認知症の老人の心を追体験しているような気持ちになる。 自分を失ってしまう不安や恐怖、そして悲しみの感情で、終始心が揺さぶられ続けた。
母を自宅で見送った記憶が新しい私には、 介護していた時に感じていた不安や絶望感などの感情が次々と蘇ってきて、正直、胸が苦しかった。 母が存命中にこの映画を観ていたら、もっと優しく接することができたのにーという思いにもかられた。
監督は想像していたよりも若い42歳。 才能のある芸術家の想像力の豊かさとは、本当に凄いものだと思う。
我 々人間は、現実の前には全くの無力だ。 それでも、人間には確かに温かみがあるのだ。 それを思い起こさせてくれた、確かな一本だった。
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