ミナリ : インタビュー
スティーブン・ユァン、「ミナリ」を通して向き合った移民としての「正直な真実」
アメリカ南部でひたむきに生きる韓国系移民一家を描いた「ミナリ」が3月19日に公開される。主人公である一家の父親ジェイコブ役を演じたのは、大ヒットシリーズ「ウォーキング・デッド」や「バーニング 劇場版」のスティーブン・ユァン。今作でアジア系アメリカ人として初めて米アカデミー主演男優賞にノミネートされたユアンが、自身のバックグラウンドを交えて「ミナリ」がいかに特別な作品かを語った。
1980年代、農業での成功を目指し、家族を連れてアーカンソー州の高原に移住して来た韓国系移民ジェイコブ。荒れた土地とボロボロのトレーラーハウスを目にした妻モニカは不安を抱くが、しっかり者の長女アンと心臓を患う好奇心旺盛な弟デビッドは、新天地に希望を見いだす。やがて毒舌で破天荒な祖母スンジャも韓国からやってきて、デビッドと奇妙な絆で結ばれていく。しかし、農業が思うようにいかず追い詰められた一家に、思わぬ事態が降りかかる。
監督、脚本を手がけた韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョンの自伝的物語である本作は、第36回サンダンス映画祭でグランプリと観客賞をダブル受賞。それを皮切りに世界中の映画祭の観客賞を総なめにし、第93回米アカデミー賞では作品賞を含む6部門でノミネートを果たしている。
タイトルの「ミナリ」は、韓国語で香味野菜の芹という意味。たくましく地に根を張り、2度目の旬がもっともおいしいことから、子ども世代の幸せの為に親世代が懸命に生きるという意味が込められている。この作品が伝えているのは、親が子に注ぐ、不器用だけれど深い愛だ。(取材・文/編集部)
――チョン監督が、ユアンさんにジェイコブ役をオファーした理由のひとつに、「物心がついてからアメリカに移住し、韓国とアメリカの両方の文化に溶け込んでいると同時に、両方の文化にとってよそ者であるという背景」を挙げています。ご自身の移民としての体験や人生がこの役に対するアプローチにどう影響しましたか?
まず、アイザックは人を見る目がとても鋭い方だと思います。そして私はこれまで、(アメリカと韓国)両方の世界でうまくやっていく方法を学んだのですが、結局はその両方の世界から自分は誤解されているところもあると気が付きました。独特な世界にいると感じるようになったのです。それは孤立感を感じることですが、私にとっては、これが正直な真実だと思います。だから、(ジェイコブという役に)すごく共感できました。僕は4歳の頃に移民となってまったく新しい場所にやって来ましたが、そのときの孤立感は自分の人生においてすごく深いものだと思っています。
――チョン監督との仕事はいかがでしたか?
彼は特別な方です。この映画は25日間で製作しなければならなかったので、時間もお金も、多くの人々との関係もうまく調整しながら、落ち着いて力強く仕事をこなしていました。彼は常に落ち着いていました。もっと多くのリソースがあればきっとそれを上手く使うでしょうが、今回は低予算で作れるようにしっかりと準備して臨みました。しかし、準備をしたからといってガチガチに固めるわけではなく、役者がサプライズをもたらす余地も与えてくれました。例えば、ジェイコブが畑でたばこを吸って祈るシーンは、脚本にはありません。非常に長い撮影を終えたあと、撮影監督が「夕日のシーンを撮りに行く」と畑の方に歩き始めたので、興味が湧いて付いていったんです。何を撮るのかと思っていたら、アイザックが「きみがよければ撮らせて欲しい」と言うので快諾しました。私がタバコに火をつけて座り、一服している姿を撮影して、実際にそれが使われました。あのシーンは映画のなかでもパワフルな瞬間になっていると思っています。
大体のシーンは2~3テイクで撮ったのですが、(撮影の進行が速いため)みんなが集中していて、そんな環境が好きでした。予算的にも日程的にも、それが私たちに与えられた限界だったのですが、私たちはみんな、監督が大胆に自信を持って映画作りをしている姿勢にほれ込んでいました。
――今作はチョン監督にとって非常にパーソナルな物語ですが、役者として彼の記憶の一部に踏み入る感覚はありましたか? また、チョン監督が映画で表現したいものに見合った演技をしなければという重圧はありましたか?
アイザックは本当に懐の広い方なんです。彼は決して自分が求めるリアリティを私たちに押し付けるようなことはしませんでした。脚本の段階からそうだったと思います。彼は、役者が自分の視点を物語に反映できるように、脚本のなかにも多くの余白を残してくれました。この物語がすべての人の人生を鏡のように映しているわけではありませんし、さらに言えば、アメリカのすべての移民の人生を映しているわけでもありません。
アイザックと私はすごく似たような経験をしていますし、私たちの親世代もある種の形で自分自身や願望を表現してきたところは似ています。しかし、今作はそのような小さな意味にとどまらず、映画として普遍的で共感できるものになっています。アイザックは、ジェイコブという役を自らの父親にしようとは考えていなかったし、ジェイコブというひとりの人間として演出をしていました。そういった意味でも、アイザックが私たちに負担やプレッシャーをかけることは一切ありませんでした。みんなが、彼の描いた物語のために力を尽くすという気持ちで現場にいました。
――このプロジェクトにはどのような経緯で参加されたのでしょうか?
アイザックと私はエージェントが同じで、2018年末のある日、そのエージェントが「私はあなたのいとこのエージェントでもあるの。アイザック・チョンよ」と言ったんです。しばらく考えて、「あ!」と思いました。アイザックは妻のいとこだったんです。2009年にアイザックの最初の作品である「Munyurangabo(原題)」がシカゴでプレミア上映されたとき、妻と見に行きました。その後、アイザックとはあまり話したことがなかったのですが、私たち夫婦の結婚式にも来てくれました。
そういったこともあり、エージェントが今作の脚本を私のところへ持ってきたときは「すごくクールだ」と思いました。そして読んでみて直ぐに、とても素晴らしい作品だとわかりました。私が言いたかったことがすべて、確信を持ったひとつの視点で語られていました。今作では、いわゆるマジョリティや、アメリカが移民を見る眼差し、移民の苦しみや抑圧されるさまによって、この家族が何者かを定義付けていません。移民の物語でよくある、「こういう苦しみがあって、だからこの家族は……」という風には描かれていないことが素晴らしいと感じました。彼らの存在にも価値があるという、本当にシンプルな声明のような作品です。とても新しく大胆で、勇敢で、清々しい企画だったので、私もこの作品の一員になりたいと思いました。
――ジェイコブという人物をどのように解釈していますか? ご自身の親世代を想起させる設定でしたが、彼らの生き方や考え方が頭をよぎったり、参考にしたりした部分はありますか?
ええ、両親から学んで参考にした部分はあると思います。ある意味では、私の移民としての生活は、故郷を捨てて真新しい場所に移るという父の願望の延長線上にあるように感じています。何が人をそうさせるのかは分かりませんが、人が自分の運命を切り開き、コントロールしようとしているように思います。俳優という仕事をしていると、袋小路にいて自分の運命を切り開こうとしているように感じることがよくあります。少なくとも、私にとってはそれが原動力です。
ジェイコブは、必死に自分の現実と運命を掴み、コントロールし、明らかにしようとしています。彼の欠点は、自分の現実に囚われすぎて、家族のような支え合う人たちの存在や、分かち合うべき経験が見えていないところです。また、彼は「自分の義務を果たすこと」が家族への愛情表現だと思っています。それでは、家族に愛を伝えるのは難しいでしょう。人生経験とは、共同体的な経験であり、分かち合うべきものだと思います。彼が役割をひとりで担い、「俺がこうやって家族を支えるんだ」と考えていること自体が間違っていると思いますし、これこそが彼の学ぶべき教訓であり、彼の旅路であり、その気付きが最終的に彼を謙虚にさせるのでしょう。
――ジェイコブ役を演じ、自分が何者であるかをより深く知れたと感じますか?
いつか、自分が何者であるかを知ることができるのかはわかりません。でも今回は、これまでの仕事のなかでは、自分が何者であるかを見極め、もう少し深く掘り下げることができた気がします。「ミナリ」という映画を作る経験は、自分の親世代の人間的な側面を見せようとする作業だったと思います。人間であるということは、欠陥があったり、二面性があったり、葛藤を抱えていたり、同時に逆説的でもあるということです。その意味において、今作ではキャラクターたちを非常に人間的に表現しました。そして、そこに解放感がありました。
多くの人が「ミナリ」を見てくれて、感動してくれて、本当に嬉しいです。皆さんの心に響いている理由は、私たちが入口の障壁をなくしたからではないかと思います。移民に対しての知識や理解、文化的認識がいらない映画になっているんです。単に人間が存在し、人生を創造し、お互いに生きようとするという、誰もがすることをしているだけなのです。文化的な知識や信頼性は、私たち作り手が観客のために持っていればいいのだと思います。
アイザックが本当に寛大で大胆だと思うのは、脚本の段階から壁のようなものを一切作らないところです。「この映画を見るためにはある一定の理解度テストに合格しなければならない」というようなことは求めていません。彼は誰でも受け入れる寛大さを持っています。私もそうあろうとすることで、実際に自分自身を少しクリアに見ることができるようになりました。アメリカでは、さまざまなストーリーや経験を区分けするために、多くの壁を作ってしまうことがあります。それはある程度有益なことではありますが、ときには自分の人間性を見ることを妨げ、実は私たちは同じことを少し違う方法で行っているだけで、結局は同じ人間であるということを忘れさせてしまいます。
これまで出演した、「バーニング 劇場版」「オクジャ okja」「Z Inc. ゼット・インク」のような作品も、さらに自分の広がりを感じさせてくれるものでした。
――素晴らしい作品に出演され続けていますが、どのように作品選びをしているのですか? また、アジア系アメリカ人の俳優が演じられる“いい役”は少ないと思いますか?
少ないですね。正直に言うと、私は作品を選ぶのが得意ではないんです。ひかれるのは、作品自体に自信があり、ユニークで、本質的な固有の視点から語られているようなものです。イ・チャンドン監督やポン・ジュノ監督、そして今作のアイザックらは、とても個性的な方々だと思います。それぞれ独自の視点を持っていて、それを表現することを恐れません。ちょうど「The Humans(原題)」という作品に出演したのですが、このスティーブン・カラム監督もそうです。
――今後、俳優としてどのような方向に進んでいきたいですか?
どうでしょう、この質問に対する答えがあればよかったのですが、申し訳ありません。いろんなことをやりたいのですが……。実は私は、やりたいことが自分からはっきりと出てこないときは、自分から居場所を探すのではなく、その場に招かれたときにもっとも自由を感じられるのです。
すべてではありませんが、これまで参加してきた企画の多くは、その役に私が相応しいかは別として、直接オファーを受けたものでした。オファーを受けて参加するという方法を歓迎するようにしています。そうすると、思い切り自分自身を広げて、満ち足りた気持ちになれるスペースがあるように感じられることが多いからです。逆に、自分で企画を探してみると、辿り着いたのはすごく窮屈で制限されたスペースで、その狭いなかで一生懸命模索した結果、本当に望んでいたものではなかったということになりがちです。なので、運に任せるしかない部分もありますし、だからこそ私に企画の一部になって欲しいと声をかけて下さる方々に非常に感謝しています。