ネタバレ! クリックして本文を読む
『隣の家の少女』(89)で名高い、暴力と恐怖の意味を問い続けた鬼才ホラー作家、ジャック・ケッチャム。
そのデビュー作であり、もう一つの代表作といえるのが『オフシーズン』(81)だ。本作はケッチャムの死後、彼の遺志を継いで製作された、その正統なる「続編」映画である。
『オフシーズン』では、避暑にやってきた都会のヤッピーたちが、森に巣食う食人族に次々と屠られてゆく。その容赦のない描写は大きな物議をかもし、発刊当時出版社によって絶版に追いやられたほどだった。この、人間を主食として現代に生きる野人一族という設定を引き継いで、ケッチャムは『襲撃者の夜』(91、原題Offspring)、『ザ・ウーマン』(10、ラッキー・マッキーと共著)と続編を出版。この二作は映画化もされ、とくに『ザ・ウーマン』を監督したラッキー・マッキーとケッチャムは盟友関係をむすんで、その後何作も長篇を共作するにいたった。
2018年1月にケッチャムはがんにて逝去。
本作は、その翌年に完成しており、エンドクレジットでは「ダラス・メイヤー(ケッチャムの本名)に捧ぐ」との追悼の献辞が流れる。
ラッキー・マッキーは製作総指揮として名を連ね、監督・脚本は、前作『ザ・ウーマン』でも『襲撃者の夜』に引き続いてヒロインの食人族を演じたポリアンナ・マッキントッシュ(『ウォーキング・デッド』のジェイディス役)で、実に三度目のザ・ウーマン役を演じる。
というわけでヒューマントラストシネマ渋谷の名物企画『未体験ゾーンの映画たち』で視聴。
どこまでケッチャムの原案があったかは、正直ちゃんと調べていないのでよくわからないのだが、いかにも「ケッチャムが書きそうな内容」にはちゃんと仕上がっていたと思う。
少なくとも末期がんのケッチャムは死ぬその月(2018年1月)に撮影現場を訪ねて激励したりしている(監督インタビュー)というし、それなりに元になる話は提供しているのかもしれない。
なんにせよ映画の冒頭だけを観ていると「野人の女が娘を連れて病院へ」という『野人都へ行く』みたいな話にしか見えないが、これは『ザ・ウーマン』のおそらく10年後くらいの設定の後日譚である。
というより、字幕で何度も出てくる「女の人」というのは、「ザ・ウーマン」という食人族の女リーダーを指す「固有名詞」なので、それくらいはちゃんと原作や前作を引き継いで訳してほしかった……。そのせいで、字幕の意味が追えなかった人が客席にはいっぱいいたと思う。パッケージ化の際には、ぜひ改善してほしいところだ。
前作までの大きな流れは以下の通りだ。
シリーズの初期二作を経て、食人族の群れは官憲の攻撃にさらされた結果、ほぼ死に絶えている。
唯一生き残ったザ・ウーマンが弁護士のおっさんクリスに捕獲され、拉致監禁されるのが、前作『ザ・ウーマン』だった。
前作のラストで生き残ったクリスの三人の娘(ペギー、犬の姉ちゃん、幼女のダーリン)を、ザ・ウーマンがその後「群れ」の仲間として育てていたが、ペギーは妊娠で死に、犬の姉ちゃん(前作で盲目ゆえに犬小屋で動物のように飼われていた少女)も命を落とし、生き残ったダーリンもまたお腹の中に……という大前提がわかっていないと、これが何の話だかよくわからないかもしれない。
すなわち、ダーリンはザ・ウーマンの実の娘ではなく、とある年齢までは普通の上流家庭で育っていた少女だったわけだ(だからこそ施設に入って短い期間で急速に文明化し、しゃべれるようになる。手にはめているブレスレットはまさに文明に属していたころのよすがである)。
さらに言えば、もともと食人族は人を食べるだけでなく、ときどき男を狩っては性家畜として飼育し、彼らを用いて種付けを行い種族を増やしてきた経緯がある。典型的な女権社会だ。だからリーダーも女で、「ザ・ウーマン」なのだ。絶滅の危機に瀕している食人族の最後の生き残りであるザ・ウーマンにとって、「子孫」を産むこと、仲間をオルグして増やすことは、きわめて切実で差し迫った使命ということになる。
そのうえで、改めて今回の映画『ダーリン』の位置づけを考えるならば、
『ザ・ウーマン』は男性至上主義と手枷と暴力によって蛮族の女を支配しようとする話で、
『ダーリン』のほうは同じことを「宗教」を用いて成そうとする物語だということができる。
別の文脈でいえば、本作はホラー版『ジャングル・ブック』であり、『野生の呼び声』人間版だ。
いわゆる「狼少女」の実話がベースとなっており、実際ポリアンナ・マッキントッシュは、インドでシング牧師によって見出された「アマラとカマラ」の姉妹のエピソードを参考にしたとインタビューで語っている(なぜ牧師は「嘘」をついたのか気になったのが、この映画のスタート地点だという)。
扱われている題材自体は、『マイフェアレディ』や『プリティ・ウーマン』のような、小汚い少女を文明に順応させ馴化させるお定まりのピグマリオン・コンプレックス映画の伝統に連なるともいえる。もちろんケッチャム原案である以上は、そこにスティーヴン・キング的なひねりが加わっているから、ある種のしっぺ返し的なカタストロフが待ち構えているのは自明ではあるが。
ザ・ウーマンの視点から見れば、愛しいダーリンを守るために人間たちと戦うことになるわけで、モンスター映画における「母子怪獣」の類型(ラゴンとかゴルゴとか)も継承している。
監督が女性になったことで、前作以上にフェミニズム映画としてのカラーがはっきり打ち出されており、ゲイ・カップルへの融和的な視線、ペドフィリアの神父へのむき出しの嫌悪、少女と妊娠の問題、あまり筋に絡まないのにやけに目立つババア・コミューンなど、監督の思想的背景があちこちで噴出している。
とはいえ、全く罪もないのに巻き添えを食って虐殺される第三者といい、天災のように降りかかる死のあっけなさと唐突さといい(アルジェントなどの「デコラティヴな死」とは対極的)、ケッチャム持ち前の思想や美学を継承できている側面も強く、観ていて殊更シリーズを私物化した印象は薄い。
少なくとも、ちゃんと、ケッチャムへの一定の敬意は伝わってくるように僕には思われた。
『ビリティス』や『エコール』のような少女映画を思わせる教会施設の描写や、
『キャリー』を彷彿させるシャワーシーンやラストの神父のシーンもさることながら、
初期のデイヴィッド・クローネンバーグ映画に近い香りがするあたり、作り手のジャンル映画愛も伝わってくる。
ただ、映画の出来自体はしょうじき言って、ぬるいと思う。
映画を理解するために最低限必要な事前情報が作品内に盛り込まれていないのは明らかだし、汚れを拭きとった瞬間から純白の美肌を誇るダーリンとか、リアリティへのこだわりが全般的に物足りない。「人間の死」に対して、ナースのトニーまでえらく淡泊に見えるのだって、作劇上さすがによろしくないだろう。
妙にストレスの少ない退屈な学園生活パートで中盤急速にダレる点も否めないし、ろくに出てきた意味の見いだせないオバサン軍団の扱いもかなり雑だ。終盤のダーリンとザ・ウーマンの一連の行為も今一つ唐突な印象をぬぐえない。
何より選曲のセンスの無さと不良少女がらみのシーンの痛さは致命的。素っ頓狂なエンディング曲とそれにつづく唖然茫然の特典映像(?)からは、意地でもちゃんとは終わらせないんだ、何が何でもバカ映画にするんだ、という作り手の強靭な意志さえ感じさせられた(笑)。
とはいえ、何がが絶望的に足りなくて封切り映画になれなかった一連の「未体験ゾーン」紹介作のなかでは、かなりちゃんとしているほうかもしれない。
たとえば冒頭、暴れまわるダーリンを相手にトニーが見せる「相手の高さまでおもむろにしゃがんで目線を合わせる」「ゆっくりまばたきしたり、目線を下げて外して相手の警戒心を解く」といった所作は、まさに「なつかない猫」にやる動作の応用であり、一応のところ真剣に考えて作られた映画であることは間違いない。
少なくとも、自分はそれなりにケッチャム・ワールドを懐かしく再体験することができた。
ちょうどこの1月でケッチャムの死から丸3年が経つ。
ファンにとって本作の公開は、そのよすがをしのぶ絶好のプレゼントとなったのではないか。