劇場公開日 2021年10月1日

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「喪失と絶望の先に見えるもの」サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ ニコさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0喪失と絶望の先に見えるもの

2021年4月21日
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鑑賞方法:VOD

 聴力を失ったメタルバンドのドラマーがたどる運命を描くこの作品は、様々な音に彩られている。
 冒頭のライブシーンの激しい音の洪水の後は、コーヒーのドリップされる音や開け放たれたドアがかすかにきしむ音、遠く響く鳥の鳴き声、人混みの柔らかなざわめき。遠景のような音がそこかしこに散りばめられる。
 そしてこれらの聞き慣れた音と対照的で印象深いのは、主人公のルーベンが聴力を失った後に聞く「音」だ。わずかに残った聴力が拾う、曇って細部の潰れた音。張り付いて離れない不協和音のような耳鳴り。人工内耳の金属をこするような音。
 本来昨年8月に全米公開の予定だったこの映画を、映画館で観られないことを当初残念に思ったが、ヘッドフォンをつないで鑑賞したことでその考えは変わった。これらの音達を耳元で聞くことで、ルーベンが襲われた変化をよりリアルに追体験し、彼の絶望を間近に見たような気持ちになった。
 過剰な言葉はない。音と、リズ・アーメッドの細やかな表情が、主人公の感情の流れを雄弁に語る。

 パートナーのルーは、当事者のみの参加が条件の自助施設にルーベンを行かせるため、荒れて追いすがる彼を振り切って彼の元を離れた。二人の出会いと同時期にルーベンがドラッグをやめたこと以外、彼らが共に過ごした過去の説明はない。だが別れる間際のやり取りに、繊細な二人が出会ってから4年間、どのように身を寄せ合って生きてきたかが滲む。
「あなたは自分を傷つけ、私も傷つけてる。私も自分を傷つける。施設に行くと言ってほしい。じゃないと全部ムダになる」
 これほど大きな困難を、無謀に受けて立つと二人とも壊れてしまう。そうならないために寂しさを堪えて突き放すルーと、目の前の孤独に怯え助けを求めるルーベンの姿がひたすら切ない。

 自助グループに参加したルーベンが施設に馴染むまでの描写は比較的淡々と進む。元いた社会と接触を絶たれる厳しさはあるものの、彼を受け入れる聾者の世界はどこか牧歌的だ。マーダー監督は、寛大な精神を保つ聾文化を表現するこの物語の構想に13年をかけたという。施設の指導者ジョーには、聾者の両親の元で育ったポール・レイシーをキャスティングしている。
 聾者であることは不幸なことではなく、身体特性に応じた文化に生きるということに過ぎない。そんな印象を受けた。
 ただ、自助グループは聾者として生きていくことを前提に、精神面でのサポートをするものだ。そこでの生活にひとまず馴染みつつも、ルーベンはあくまで手術での聴力回復に望みを繋いでいた。大切な音響機器やトレーラーを売り払って手術費用を工面する彼だが、物語の肝となるさらに厳しい試練が彼を待っていた。

 希望を失った時、生きてゆく力をどう紡ぐのか。
 ルーベンは、生活だけでなく自己表現に直結していた音を奪われた。そこには誰の悪意も過失も介在せず、恨みをぶつけるよすがさえない。
 失われたかけがえのないものが二度と戻らないという事実を、受け入れることは苦しい。諦めれば楽になるなどと、とても軽々しく言えない。
 それでも覚悟を決めて一歩を踏み出せば、その先は決して絶望のみではないと信じたい。

 そして、監督がインタビューで語ったこの映画のテーマ「目覚め」が、ラストシーンに凝縮されている。ルーベンの苦悩と彷徨の物語をたどってきた私たちも、最後に音のない世界を彼と共有し、どんな言葉より胸に迫る安らかな静寂によって目覚めを体感するのだ。

ニコ