サウンド・オブ・メタル 聞こえるということのレビュー・感想・評価
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「ろう」という生き方
メタルバンドの話で、ものすごく騒がしい作品なのかと思っていたら、むしろ聴覚を失ってゆくミュージシャンの物語だった。まあ、メタルバンドのドラマーが主人公なので、最初の印象が間違っているわけではないのだが。
タイトルの「サウンド・オブ・メタル」はダブルミーニングだった。メタルバンドの主人公が音を失っていくという点でメタルの音の物語でもあるが、もう一つは、聴力を取り戻すためのインプラント手術後の音を指している。インプラント手術は簡単に言うと金属を耳に埋め込むようなもので、疑似的に聴力を回復させるためのもの。この音が大変に不快な金属音なのだ。映画は主人公が手術を受けた後の音を観客にも体感させる。世界の音の何もかもが金属の反響音として聞こえてくる。本作は、そんな描写も含めて、「ろう」とは治すべき病気や障害ではなく一つの生き方の実践であると描いている。ろう者のコミュニティが牧歌的な心地よいコミュニティとして描かれているのもその表れだ。音が非常に重要な作品なので、本当は映画館で観たい作品である。
Deafness, Strangely, A Theme Seldom Explored in Cinema
It's hard to approach deafness or blindness in the way paralysis was explored in The Diving Bell and Butterfly. How can a film sell if there is no sight or sound to it? Sound of Metal goes in an out of the lead character's head, and to a new realm when cyborg technology takes hold. The film is touching, seeing an authentically portrayed crust punk schooled on community. Also a sad film. Must see!
苦悩の先に答えなんてなくていい。
突然重度の軟調になったメタルバンド(正確にはデュオ)のドラマーが、否が応でも生き方を変えることを迫られる。その道程はもちろんたやすいものではない。主人公に麻薬中毒の既往歴があり、恋人(バンドのギターボーカルでもある)には自傷癖があり、ふたりが小宇宙のような安全地帯を築いて、支えあって生きていることも、生き方を容易に変えさせてくれない要因になっている。
ただ、この映画は主人公たちの七転八倒をスリルたっぷりに描くわけではなく、起きてしまったことと向き合うまでの時間を、丁寧に、繊細に見つめようとする。オリヴィア・クック演じる恋人は、中盤は出番がないのだが、彼女にもまた、自分と向き合うための試練の時があったことを、われわれ観客は窺い知ることができる。
結末めいたものはある。しかし、彼らが何か求めていたものを得られたのかどうかは明示されない。確かにふたりの人生は大きく変わったが、答えが示されるわけでもない。いや、実際のところ、答えなんて見つからないものであるという真理を信じているからこそ、あの瞬間で潔く映画を終えられたのだと思う。彼にとってはとても大きな瞬間だが、その後も人生は続いていくのである。
すべてを肯定して静寂に身を置くことで得られる平穏
ある日突然、耳がほとんど聞こえなくなる。それも、恋人と一緒にトレーラーハウスに住まい、行く先々のライブハウスでドラマを叩き続けるドラマーがである。当然、彼の絶望感は半端ない。唯一の治療は脳に音を音として感知するチップを埋め込むことなのだが、如何せん治療代が高額だ。そんな八方塞がりのドラマーが、友達の紹介で入所するろう者の支援コミュニティで、仲間たちと手話を介して対話し始める。だが果たして、そこは主人公にとって終の住処たり得るのかどうか?ことはそう簡単ではないことを本人も観客も知っている。しかし、明確な手がかりがある。焦り、もがき苦しむドラマーに対して、コミュニティの創設者がこう語りかけるのだ。「耳が聞こえないことはハンデではない。治すものではないのだ」と。そして、「静寂こそ平穏が得られる場所なのだ」と。音のある世界からない世界へ、豊かさから貧しさへ、勝者から敗者へ。人生は様々な試練(騒音)と無縁ではいられないけれど、もしもそれを肯定できたなら、人は救済されるに違いない。激しいドラムプレーで始まる物語が、無音の世界へとシフトしていく意外性のある構成、主人公の聴力と第三者(観客も)の聴力を区別した録音演出、主演のリズ・アーメッドの痛々しいほどの肉体表現と追い詰められた演技。見所はふんだんにあるが、白眉はコミュニティの創設者を演じるポール・レイシーの、まるで神のような佇まいだ。レイシー自身も役柄と同じくベトナム帰還兵で、ろう者の両親を持つ身であることを考えると、さらにその演技は説得力を持つ。アーメッドとレイシーは共に来年のオスカー候補入りが確実視されている。
筆舌に尽くし難い
凍える暗闇から抜け出すため光に手を伸ばし
光だけを見つめ必死で手を伸ばし
凍え傷つく自分に
自分では気付かないから
それを周りの人は温めようとしてくれる
でも、光を手に入れたいから
抗い、もがき、苦しみ、何としてでも
どんな手を使ってでも光を手に入れたい
だから周りの人が温めてくれてることに
気付いているのに、向き合えない
やっとの思いで手にした光
手のひらで見た光は
自分が求めていた光とは違う色だった
。
後ろに戻る道はない
それでも人生は止まってくれない。
自尊心をブッ壊す凄まじい葛藤と静寂に心打
第93回アカデミ-賞のノミネ-ト枠で上がっていたので
作品名は知っていた程度。
或るときラジオ番組で この作品の紹介をやっていて
興味が湧いたので 先日やっと
鑑賞に至ったので、ここに記したいと思う。
感想から言うと、久しぶりに心を強く打たれた。
この手のセカンドライフへ誘う思いをさせる作品は
何十年ぶりかだと思う。素晴らしい作品だった。
mc:
ルーベン・ストーン役(主役、難聴者):リズ・アーメッドさん
ルー役(主役の彼女):オリヴィア・クックさん
ジョー役(自助グループ所長):ポール・レイシーさん
身体障害者の作品や役で、盲人演出と言えば
白杖や、盲導犬や、役者の演技でそれらしく見せているため
映画演出しやすかった。話せるし、聞こえるし。
映画にとってこの役柄の相性は良い。
一方、聴覚障害者の演出は実は難しいのだ。
見た目が 健常者と一見変わらぬため
演出が非常にしずらい。伝わるようにするには
サウンドエフェクトを酷使するしかないのである。
勿論役者の演技もそれなりで無いと伝わらない。
映画を甘く見ていた私は、最初寝っ転がって見ていた。
主人公ル-ベンの やんちゃな香りがする風格の男が
ドラムをバンバン叩いている・・・そこから始まった。
そう、彼はバンドのドラマ-なのだ。
最初は全く普通に改造バス生活で暮らしていたが、
或るとき ん? ん? 音の聞こえ方が お・か・し・い。
極度にコモッた様に聞こえてきて、焦る 本人。
実は 私も中耳炎になった事が有るので
この心境は凄くわかる。
やがて、医者に診てもらうと 80%の聴覚を失っている事実を
知る。このシーンを目の当たりにして ハッとした。
すかさず姿勢を正して 映画を真剣に見入る様になった。
彼は、急遽 聴覚障害者ばかりで生活する自助グル-プに入れられる。
ココでの生活が彼を唯一救うと思っていたからだ。
しかし、そんな簡単な問題では無かった。
健常で育った期間が長い彼にとって
ココでの生活、これからの運命は到底受け入れられない・・・
彼の孤独な毎日が続く。
何とか現状を打開して、元の彼女との生活に 元の仕事に
戻ろうとするが、まずはココの生活に慣れて
コミュニケ-ションを図らないとダメだった。
ろうあ者のコミニケ-ションが 物凄く静かに会話されて
盛り上がっているのが 不思議な世界観だった。
この感覚に慣れるかが、ルーベンの生きる道であった。
今までヤンチャなミュ-ジシャン ドラマ-が
ココでの生活に溶け込めるとは思えない。
しかし、少しづつ 子供たちと親しくなり
会話がみんなと出来る様になった姿に
観ているこちらも安堵していく。
そう、いつの間にか 私は彼を心から応援していたのだ。
これがこの映画の力点だと思いますね。
ジョ―に 部屋に籠って ノートに文章を書け!
言われて しぶしぶ書いていくルーベン。
この教えの意味する所が 最後に繋がる。
約束事でグル-プ施設の外界とは遮断されているのだが、
隠れる様にして PCをこっそりいじりネットで
彼女の現状を知る。
歌手として活動を続けるも、彼が居ない彼女のバンド活動は
へこんでいた。
彼女の新曲プレビュ-動画を再生するも
彼には全く聞こえない。 涙するよねココね。
この現状を打開すべく、彼は折角 施設に慣れてきたが、
全私物をお金に換えて 聴覚を取り戻すべく
手術に挑み 人生の賭けに出る。
やっとの思いで、本当にやっとの思いで
補聴器を両耳の神経に当てて 音を大きく聞き取れる
様には成ったが・・・何かが変だった。
そう、音質、質感の相違である。
健常者時の頃と同じように聞こえると、
戻れると思っていたが
それは 大きな間違いだった。
この 愕然とする 深い喪失感は
本当に同情した。
もう、ミュ-ジシャンに戻れないのか?
それはジョ-の言った通りのことだった。
インプラント(手術・補聴器)を試しても
ダメだったと 彼が言っていたのを思い出す。
しかし日常は話せるようになったのは良かった。
相変わらず 音質はメタルっぽいから嫌だけど。
久しぶりに彼女 ル-に会いに行って
もう一度 俺とバンドツア-をと 言い出すが、
二人に その未来は待ってはいなかった。
それを悟るルーベン。
二人で涙しながら抱き合う姿は
とてもジーンと来たよ!
本当に良いシーンでした。
そして 翌朝 早くに、彼女の元を去るルーベン。
行く宛は 多分施設へ戻るのだろうか。
そう思った。
金属音質な補聴器を 両耳からそっと外す・・・
そこに広がる 静寂な世界。
心地よい風が吹き、木漏れ日が彼の顔を照らしている。
そう、彼に セカンドライフが訪れた瞬間だった。
そこから 彼は 少しずつ次の人生を
歩んでいく事だろう、きっとそう成る。
私の心は 彼を応援し続けていた。
いつか、心のドラムを思いきり叩く
彼がいる事を 願いたい。
タイトルを見返した
最初、ASMRみたいに音がクリアに聞こえる。
中盤
彼の不安や音が聞こえない感じを体験できるようにしてる。
見ていて思ったことは
聞こえるということは、どういうことか。
手術後のルーベンの聞こえ方を一緒に体験して、その後聞こえるシーンになったとき、聞こえるということがこういうことかと思った。
手術後の音は不快でうるさく、クリアに聞こえない。元には戻らない。
タイトルのメタルはインプラントのことかな。金属がつくるうるさい音。
オスカー候補の秀作
耳の聞こえなくなったドラマーの葛藤と周囲の人との協調と軋轢を、時折挟まれる無音シーンなどを駆使してキリキリ揉まれるような印象で演出していますが、一方、悲惨過剰にならないようなバランスも絶妙です。
静から動への変換! ドラムの音がSeoulと共鳴し合う作品
ドラマーであるルーベンが聴覚を失い、路頭に迷うなか、ハンデを抱えながら自分の聴かせたい音楽をどうやって、人に伝えていくか
と言うストーリーでした。
日々の暮らしのなか、路頭に迷うルーベンが
恋人のルーの勧めもあり、聴覚障がい者の
コミュニティーに参加する場面は、
手話を通して自分と人とのコミュニケーション
を、少しずつしていき、自分の音楽と共鳴し合う!
自分の音楽を表現することが出来る!
ほとんど音が聞こえないなか、静寂から
音を振動で感じる、ルーベンが新しく一歩
踏み出す姿を見守っていきたい気持ちで
見ていました。
教会の鐘、街のざわめき、無音のなか
父親と再会できた喜びは人生の再出発を
嬉しく思うシーンでした。
補足、耳のインプラントの手術を初めて知りました。
映画館にて観ましたが、レビューが遅くなり
すみませんでした。
何が正解なのかを考えさせられる作品
とにかく切ない。状況により人は生き方を変えねばならないのだろうが、変えるにしても何をあきらめ何を優先すべきか。果たしてそこには答えはあるのか…本作は多面に渡って語りかけてくる。
彼の苦悩からの必死の決断、そして彼女の不安からのやむを得ない現実的な判断。このカップルを誰も責めることはできないだろう。
正解を暗示させるラストシーンも余韻を残す。
障害を受け止めるということ
失ってようやくその恩恵に気付く 職業的な突発性難聴のお話だと思っていたのですが、もう治らないんですね そう人間(?だけじゃないだろうけど)の聴覚はスグレモノなのだ 大音量の中で人と会話しててもちゃんと会話だけ聴き取れるし(カクテルパーティー効果)、何も聞いていないようでも、気になる言葉が耳に入れば注意を向ける、無意識の内に選択的に聞けるにようなっているのだ ルーベンが人工内耳の手術を受けてからのくだりは、祖母の補聴器の話を思い出しました すぐに落ちたり、音が全部が全部大きくなってどうにも不愉快だったらしいです 聾のコミュニティの教えを受入出来なかったのが残念でしたが、最後は哀しいけど、悟ったようですね
しかし難聴になる人とならない人の差が? アルコールとドラッグ関係あり?
じわじわ食らってくるラスト
突然降りかかる障害に向き合うのはほんとに難しい、と、言葉で言うのは簡単。
主人公の苦悩は計り知れないだろう。
その中で、耳が聴こえない事をハンディと捉えないという施設が出てきて、手術をして恋人に再会もして、主人公が迎えるラストシーンが秀逸。
どのようにも解釈できるラストシーン。ただ一つ言えるのは、人生は続いていく、っていう真理。徐々に食らうラストでした。
聴こえなくなったら!
ある日聴こえなくなる!
うそだろ!
ミュージシャンだけに
治す方法は?
主人公は俺に必要なのは、ガンだ!
支援センターにいき
徐々に安らぎは取り戻すが
やはり
手術する。
その代償は?
静寂の中に安らぎは見つかるのか?
障害を描き切れていない惜しい作品
アカデミー賞音響賞を受賞しただけあって、音の表現は圧巻です。主人公そのものを生きることができる作品はそう多くはありませんが、この映画はそれに成功した作品の一つでしょう。
ただし、この映画が社会に何らかの問題意識を共有したい作品である(監督自身もそれを目指している)ことを考慮すれば、主人公ルーベンやその他の聴覚障害者の苦しみが描ききれていなかったように感じます。もちろん、個人的な苦しみ(ドラマーとして聾者になること、療養中に彼女が前へと進み始めていたこと、手術を受けても生活は元通りには戻らないことなど)は繊細で洗練されたものとして多くの人の記憶に残ったでしょう。ですが、社会的な苦しみはあまり描かれることはありませんでした。それはこの社会がいかに聴覚障害者にとって生きづらい世界かという、社会のデザイン側を問う視点です。
障害学には、障害の「医学モデル」と「社会モデル」という概念が存在します。医学モデルは、障害は本人にあり、医療によってそれを治療しようとする考え方です。一方で、社会モデルは障害を社会の側に帰属させる、すなわち、様々な身体的制約のある人々の生活を拒むような障害が社会の側にあるとすると考え方です(「バリアフリー」という言葉の「バリア」はこの意味で使われています)。障害学は、医学モデルを批判し、社会モデルをその立場としています。
この映画では、「障害は治すものではない」という医学モデルの否定まではありました。ところが、「結局は当人の考え方次第」というところへ帰着してしまい、社会の側を問う描写はほとんどありませんでした。もちろん障害者に対するセラピーはとても重要ですが、そればかりにフォーカスすると障害というものを個人に背負わせてしまいます。障害者理解を広げるためならば、社会モデルもきっちりと扱うべきだったと感じます。
とはいえ以上のことが、音響のダイナミクスや役者の素晴らしい演技を否定してしまうわけではありません。鑑賞後は劇場で、騒がしいほどの静寂を楽しみました。
アカデミー賞受賞作品と聞いて…
第93回アカデミー賞のノミネート数が6つとやけに多かったので気になって観ることにした。この時点で間違いだったのかもしれない。この映画はまるで値段は高いが身体に良くなく絶品とも言えない食べ物を口にしているようだった。後味はしない。何もかも中途半端でやり過ぎず、かといってやらないわけでなく色々と頑張った感が目に余る。思わず見入ってしまう映画ではあるが観終えてもう一度観たいと思うのは、あの目のパキってる主演のリズ・アーメッドの腹筋だけだ。唯一“障害はなおすものではない”という言葉が考えさせられた。個々で存在して生きている私たち人間は、もっと対等な関係で価値観を共有すべきではないのだろうか…
生きるって何だろう
自分も含めて、人には色々な人生がある。
生きるということが、物心がついた頃からだんだんと当たり前になってきて、自立して仕事に追われるようになってからは"生きている"というより毎日がまるで何かルーティンで動いているような感覚におちいる。
ただし、そのルーティン化された毎日の作業工程のような人生はその動力源である身体が正常に作動していることが前提条件である。
昨日まで正常だった機械が突然故障したら?
部品交換や整備で直らなかったら?
ルーティンは何一つ欠けても成立しない。
だけど人生は続くのだ。
だとしたら、生じた不備は不備と思わず、むしろこの状態がデフォルトだと考えて、新たなルーティンを構築していく。
健康で何一つ不自由なく毎日を過ごせたら、もちろんそれに越したことはない。
しかしながら、人生何かに"つまずくこと"も少なくない。
そんな時こそ、何かを変えるという考え方を受け入れなければ先には進めないのではないだろうか。
まさにそれこそが生きると実感する瞬間なのだ。
と、肯定的に捉えるべきである。
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