ボクたちはみんな大人になれなかった : インタビュー
森山未來、久々の恋愛映画への意欲 原作者・燃え殻と“大人になること”談議
ウェブメディアでの連載から始まり、2017年に書籍化され話題を集めた作家・燃え殻による小説をNetflix製作で映画化した「ボクたちはみんな大人になれなかった」。昔の恋人のSNSアカウントを見つけてしまった主人公の過去と現在、忘れられない恋人との出会いと別れを90年代の空気感とカルチャーを織り交ぜながら描いたエモーショナルな恋愛映画だ。劇場公開と同日の全世界配信日を前に、主人公のボク=佐藤を演じる森山未來と燃え殻が対談した。
――森山さんの主演作では、久々のストレートな恋愛映画ですね。
森山:実は、このお話をいただく前から、恋愛ものをやってみたい、と思っていて。よくあるキラキラ映画ではなく、実直に人間ドラマのような恋愛ドラマを撮れたらいいなと。そんな時にこのお話をいただいて、良いタイミングで、監督やプロデューサーと話をしながら主人公の佐藤を演じることになりました。
――「世界の中心で、愛をさけぶ」(04)で注目を集められ、「モテキ」(11)公開当時のインタビューでは「恋愛ものは、もうこりごり」と仰っていました(笑)。その後、役者だけではなく、パフォーマンス、国際的な作品への参加などご活躍の幅を広げられたわけですが、なぜまたこのタイミングで恋愛映画に惹かれたのでしょうか。
殺人鬼など特殊な役も演じてきたので、単に映画で切り替えができるなら……と明確な理由はありませんでした。でも、この映画の撮影の最中に、脳科学者の中野信子さんと対談させていただいて、ざっくばらんに「恋愛って何ですか?」と聞いてみたんです。
中野さんのお話では、進化の過程でヒトが4足歩行から2足歩行になって、頭の位置が変わることによって女性は骨盤の形や子宮の位置も変化し、出産にものすごい苦痛を伴うようになったと。で、恋愛も含めて出会いは、生殖、種の保存の営みですから、人と出会うことは、苦痛に直結することだと。けれど、出産の苦痛を考えて、出会いたくないとなると、いつまでたっても生殖にたどり着けない。その痛みを麻痺させるのが、恋愛感情で、いわば脳内麻薬みたいなものが分泌されるそうです。
それを聞いて、僕は、だから恋愛はキラキラ映画になるのか……と腹落ちしました。人と人とが出会うことや生殖行為は、遺伝子情報を交換すること。そのハイブリッドが子供。出会った人への興味、遺伝子や本能的な入り口として、出会いや恋愛があると考えると、それを僕は求めていたようです。キラキラ映画にならないように、なんて言っておきながら、キラキラ映画になることはおかしいことではないと、抽象的なものが、具体的な形で立証されてしまった。僕自身のジェンダーで言ったら、恋愛対象は女性で、そして、恋愛は人間同士がかかわるということでは一番エネルギーのいること。自分は恋愛映画というものを通して、それを感じたかったようです。
――燃え殻さんがこの映画の原作となる小説の連載を開始されたのは2016年。5年後の今年映画化され、全世界に配信される映像作品となりました。
燃え殻:当時は仕事をしながら、週刊連載という形でインターネットで書いていました。noteのようなサービスもなく、Twitterで皆さんがイラストなどを発表するような時代でしたし、小説を発表しているのは1、2例しか見ていなくて。さらに、それが皆さんに読まれるのは難しいと言われ、最初で最後だと思ってやっていたので、目の前にあるお客さんを喜ばせようと毎週真剣に取り組んでいました。テレビのバックヤードのような仕事をしていたので、その仕事が終わって、朝方書いて、そのまま出して……という感じ。ですから、これが映像化されるなんていうもっと前の段階、書籍化されることも考えられずにやっていました。今の状況が信じられませんし、ありがたいなあと。
森山:燃え殻さん、映画をご覧になっていかがでしたか?
燃え殻:いつも映画を見ると何か言いたくなるんですけど、これは脚本をずっと読んでいたのもあって、この作品に関してはもう親戚のおじさん状態。語弊があるかもしれませんが、身内が可愛いか可愛くないかと聞かれても、「いい子だよ」としか答えられないというか(笑)。ですから試写を見た時は、本当に感慨深かったですね。森山未來さんと伊藤沙莉さんに演じていただきましたが、キャスティングの最中、他の組み合わせも提案された中で、「映像化するなら絶対にこのお二人で」とお願いしたので、完成はとてもうれしかったです。どんな映画でも、人がいい顔をしている作品が好きなんですが、これはいい顔の人達しか出ていない映画という点で、大好きでした。でも、森山さんは大変だったろうな……と思いましたが。
森山:確かに、ギミックがいっぱいある映画です。カルチャー的もしっかりみせなきゃだし時代も遡ったりといろいろある。でも、ちゃんと人にフォーカスした映画だなあと。あと、センチメンタルというか、過去を回想していく話なので、それをどう捉えればいいのか……ということは燃え殻さんに聞いたこともありましたね。
燃え殻:小説では、解像度が低くて入れられなかったものが、映画ではビシッと入っていて。ああ、彼らはこういう表情で、こういう声だったのかって。ラブホテルなんかキラキラで、羨ましいとすら思いました(笑)。(原作で)僕は私小説風に「彼女と安いラブホテルに行った」と書きました。でも、彼と彼女だったから映画のようなラブホに見えたのかもしれない、って僕は思うんです。実際はあんなキラキラした感じではなかったのですが、居心地が良くて。本当に「ただいま」と言って入るような、ふたりの家というか、ふたりにとって嫌なものが一つもない部屋。だからああいう風に見えたのかな、と受け取りました。本当は赤い汚いカーペットが敷いてあったり、穴が開いているような障子を「味があるね」なんて言ってたような部屋だったので(笑)。
――1995年から2020年という時間の流れも描いています。森山さんは主人公の佐藤の25年間を演じるにあたって、どのように役柄を構築されましたか?
森山:25年というビジュアルの変容、顔や髪型は技術的にやれることはやっていただいたし、自分でもやりました。あとは、自分の記憶を引っ張り出してくるしかない、ということもありました。それはもちろん、脚本に書かれていることから想起することでもあるけれど、初めて好きになった人を思い返した時に、自分がどういう精神状況だったか――単にすれ違う人との距離感ではなく、身内でも友人でもない、赤の他人に対して、初めて興味を持って惹かれ合う時の距離感の取り方、自意識と相手をどのように見計らってかかわればいかわからない……そんな記憶を引っ張り出しました。
あとは環境の変化を意識しました。例えば佐藤の20代前半の環境や対人関係などの狭さ。そこから相手も変わるし、人数も変わっていきます。自分の場合も、若い頃は自意識に強く絡めとられたり、世間とのかかわりが狭かったと思うんです。でも、次第にそういう見方や対し方だけでは成立しなくなっていく。もちろん、そのプロセスで失敗したり、ダメになったりして発見を繰り返すのですが、それは技術的なことというよりも、経験則。過去と比べるならば、あの時より今の自分の方が、人とかかわることの余白や受け止め方や投げ方が変わったし、それが“大人になる“ということであれば、今の方が全然ポジティブ。そういったことを想像しながらやっていました。
――原作の小説の一読者として、燃え殻さんに聞きたいことはありますか?
森山:タイトルは、燃え殻さんにとって、ポジティブであるのか、ちょっとネガティブであるのか、それともどちらでもないのか? それを知りたかったです。見る人にとっては、“大人になれなかった”ということをネガティブに言いながらも、“大人ではない自分”を楽しむ人もいると思うんです。
燃え殻:僕は「俺、大人になれなかった」って言う人は大人だと思います。そういうことを言えなくて、「いつまでも子供でいいじゃん」と言う人もいるけど、かおりは、苦悩しながら、サブカルをかじりながらも大人になっていく――。この映画では佐藤という主人公が、だんだん社会に絡めとられていって、仕事も安定して、かおりを喜ばせたいと言う気持ちから一緒に住もうと考え、佐藤なりに大人になっていく。それで、かおりは「こいつ大人になる」って気づいて離れていったのかもしれない。
だから結局、佐藤にとってはかおりが言った言葉がある種の呪いのようになり、うまく大人に脱皮できなかったけれど、かおりは本当は普通の子だったから、平然と大人になっていった……みたいなことなのかな、と思いました。
ある種の社会に絡めとられたり、迎合することによって、ちゃんと大人として社会人として働く――そういう意味では全員いびつながらも大人になっていったと思うんです。でも、“あの頃”の自分がうずいて、サイババだったり、1999年のノストラダムスを多少信じたい、みたいなガキのようなあの感じを思い起こしたくなる。「大人になれなかった」なんて言ってもはたから見たらおっさん、じじい、大人だよって。だからこそ「大人になれなかった」ってうそぶきたくて付けたようなタイトルです。
森山:かおりという存在の言動、消え方で傷跡が心に残ったまま何十年の時を過ごして、そこだけ取り残されて、先に進めないこともありながら、ただ環境や対人関係が変化し、仕事も順調になっていく。その乖離のなかで、今ある自分をどう受け止めていくか、みたいな話でもあったような気がします。
映画の最後、原作の文章で書かれていたことを映像で表現します。「普通だな」と言ってしまえるのは、ちょっとうそぶいている感がなくもないけど、それを受容していく……大人であることは、決して悪いことではない、そういうメッセージがあるような気もしました。寛容になること、受け入れることって、難しいじゃないですか。行くところまで行くと忖度にもつながりかねない。忖度だって、今はネガティブな言葉として使われているけれど、本来は言わなくてもその人が必要なものを用意してあげる、というポジティブな意味だった。そういった世間の言葉の受け取り方も、“大人”っていうことに通じているような気がして。映画ですべて描き切っている気はしませんが、“大人”という言葉をネガティブに捉える空気はなくていいものだと思いますし、かかわる集団や関係値が変われば役割やバランスも変わる。人間にはそういう複雑な面白さがあります。
燃え殻:そうですね。映画の中の“普通”という言葉もネガティブに使われることもあるけど、年代によって変わっていく。最後にラフォーレの前で言う“普通”もある種受け入れながら、腹落ちしている。僕は、20代の時には“普通”に対する嫌悪感があった。でも、30~40代になって、「普通にしろ」って言われた時に難しくなって、逆に“普通”に対してのあこがれが出てきて、40代になっていわゆる普通を得た時にほっとしている自分がいる。映画ではこんな風に、“普通”という言葉の意味合いが変わって面白かったですね。今の若い世代が見たらいろんなことを考えるのではないかと思いました。
森山:かおりを演じた伊藤沙莉さんは、90年代の“あの頃”を体験して、「楽しそうだな」って言うんです。今の方が締め付けがきついし、いわゆる“あの頃”のような自由な感覚はないそうで。今の10代、20代にとっては、“大人にならなきゃいけない”、というメンタルもあるのかなと。だから、この映画で時間軸が戻って、90年代の奔放な空気感を見て「大人になりたくないな」と思うかもしれませんね。