ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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高評価の理由がわからない
そもそもロードムービーだと信じて先入観を持って見たのが運の尽き…
ほとんど室内の舞台劇だし、ドライブと言っても海峡の往復ばかり。あげく最後の最後になぜか突然広島から北海道へ弾丸ツアーするという謎展開…
全体通してクールな雰囲気重視で、セリフも小説の棒読みみたいな不自然さ。外国語字幕なら問題ないんだろうけど日本語だとどうも気になる。
恐らく村上春樹風味なんだろうけど、気取った感じが鼻につくし、最後だけ突如エモーショナルなシーンにして幕を引くのは正直ズルいと思った。
結論、この映画苦手です。
演劇が表象するものは?
独特の演出、日替わりのタイミング、セリフの多さ、役者の表情が示す感情を読みとるのは難しかった。これは、村上春樹さんの作品だからか、演出家由来のものなのかわからない。また、伏線も多いように感じた。村上春樹さんは、「エロ・生死・罪」というテーマを感じられる作品が多いのか。半分ぐらい空想のような、そうでないような、多カ国語の入り組んだ演劇が人の複雑性を示しているようにも見えた。小説でも読みたいと思った。
終始現実がそこにあってヒリヒリさせられる映画
終始現実がそこにあってヒリヒリさせられた。
音のテキストの書き方は、村上春樹の小説の書き方と似ているように思った。
村上春樹がインタビューか何かで言っていた、真実とファクトの話を何度か思い出した
高槻と車の中で会話するシーンが一番ヒリヒリした(ここはもっと読み取れるものがあったように思う。
「私が殺した」が色々なことに通じている
生き残ったものは死んだもののことを考え続けるとか
北海道の雪の上で抱き合うシーンは結構核心をそのままに話す、自分の心を見ないふりをした、みないといけなかった
これも真実とファクトかもしれない
最後にみさきが赤のサーブ、大きな犬とともに車を走らせるシーンが素敵に前向きだ
原作を見事に昇華して巧みにディスコミュニケーションを描いた
職人芸の塊のような映画だ。
村上春樹の短編は、あくまでも原作であって、種のようなものだ。本作は、その種から見事な花を咲かせることに成功している。
この映画は、西島秀俊が演じる、俳優の家福悠介が、広島でチェーホフの「ワーニャおじさん」の舞台を作っていく過程を描いている。
彼は亡くした妻のことをひきずっている。舞台俳優はオーディションで選んだが、ワーニャ役には家福の妻の浮気相手だった高槻という俳優が選ばれる。
原作では、高槻はさほど重要人物ではない。ほぼ全編が家福と、彼のドライバーである渡利みさきの会話に終始する。物語における「現在」は、ほとんどが車の中で、舞台は東京だ。原作では、俳優は舞台でも実生活でも演じ続けると語られ、妻との関係においてもそうだった、と。家福は仕事場と自宅の往復の中間、つまり車の中でのみ本当の自分を取り戻す。
映画では、舞台は東京から広島、北海道をつなぐ。そのすべてを車で移動する。日本人の感覚だと、飛行機を使うだろうと思うが、逆にこれがこの映画の重要なポイントで、要するにこれはロードムービーなのだ。車で移動するという意味でもそうだし、家福や、他の登場人物の心の旅でもある。
登場人物はみんな棒読みだ。チェーホフの舞台、という要素があるから、この演出が生きてくる。舞台でも、実生活でも、人は演じ続けているのだ。そして、棒読みのセリフ回しの中に、感情を感じ取ることができる。西島秀俊はさほどうまい役者だとは思っていなかったが、沈黙の中で感情を表現していた。
そして高槻を演じた岡田将生。彼だけは感情豊かに演技をする。これは、棒読みの演技ができないというよりは、家福とは違う世界に生きている人間だからだろう。後半、高槻が、カメラをじっと見据えて、長いセリフを言うシーンがあるが、これは本作において、ひとつの山場だった。岡田将生がおいしいところを全部持っていってしまったように感じたほどだ。
本作が職人芸だと感じたのは、「ワーニャおじさん」の場面を切り取って、家福の心を説明しているところだ。この紐づけのやり方はうまい。一場面だけではなく、全編にわたって、延々とワーニャおじさんのシナリオが、家福の心理描写をし続けるのだ。村上春樹の短編と「ワーニャおじさん」を徹底的に解剖して再構築したような印象をうける。
この映画では、家福の住むマンションや、泊っているホテル、洋服、どれもこれも洗練されている。そして、そこに心はない。どんなに豊かな生活をしていても、人は自らの心に真摯に向き合うことでしか成長できない。そして、自らの心に向き合ったうえで、そこにはなにもないことに気づいてしまう人間もいる。
非常に重いテーマを、巧みにまとめあげた手腕がすばらしい。小生はインターナショナル版というのを観たので、日本版はどうなっているかわからない。個人的には最後のシーンは不要だと思った。
文学的で難しいな
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演出家兼俳優の西島は同じ舞台を長年つとめてた。
妻は自分を愛してくれたが、裏でずっと不倫してた。
その不倫相手の一人が岡田だったが、西島は見て見ぬフリを続ける。
そんなある日、西島が帰宅すると妻が病気で急死してた。
2年が経ち、西島は舞台で裏方に回り、自分の役に新たな俳優を抜擢。
それがオーディションを受けに来た岡田だった。
岡田は西島の妻を愛してたので、西島の舞台に興味があったのだった。
紆余曲折あり、岡田はついに俳優として才能を開花しかける。
ところが元々素行が悪く、町で人を殴って死なせ、逮捕。
代役は西島しかおらず、自分が出るか中止かの選択に迫られる。
この舞台の間中、西島の運転手を務めてた若い女性がいた。
その女性とは心の中に秘めた悲しみ?何か通じるものがあった。
ということで彼女の故郷である北海道へ2人で行き考えることに。
妻が死んだ朝、妻は西島に今夜話があると言ってた。
西島は別れ話を恐れ、帰る決心がつかずブラブラしてて遅くなった。
そのせいで妻の発作への対応ができず、死なせたことを告白。
一方運転手は母から虐待を受けて育ち、ある日山崩れで家が埋まった。
運転手は這い出たが、助けを呼ばず母を見殺しにしたことを告白。
やっぱり似たような者同士だった。
生き残った者は死んだ者のことばかり考えてしまう。
それでも生きてかなければならないよ、って西島は語った。
結局西島は舞台に出ることにしたようで、上演された。
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劇場で見た。海外の賞を取ったとのことで少し期待してたが・・・。
3時間。うーん・・・長い。また文学作品なので硬い。
色々感じることはあれど、面白いわけではない。
文学なんて全く分からん素人の感覚から言えば、
唯一、そして最も理解できたのは西島と運転手の共感の部分。
本編は舞台の練習のシーンがやたら多かったが、無駄に感じた。
実際、岡田の存在ってストーリー上あんまり重要じゃないし、
舞台の共演者達もはっきり言ってあんまり関係ない。
何度もある劇中劇のシーンも、多分何か関係あるんやと思うけど、
どうストーリーに関わってるのかよう分からんかった。
ラストシーンでは何故か運転手が韓国で1人で西島の車に乗ってた。
これは身寄りのない2人が韓国で共に生活を始めたってこと?
全体を通して残る違和感
前情報ゼロで鑑賞
共感できない登場人物たち。
意味のわからない多言語を用いた劇?みたいなもの。
理解できない性描写と暴力性
私には合わないが
納得のいく、解釈が知りたくて感想をあさるが
何が表現したいのかやっぱりわからない
感情が伝わらないのか伝えないのか
例えば「愛情」と言う側面では、家福が心中を吐露する際、愛してるから向き合えなかった、本当のことを言うのが怖かったとある。
しかし、岡田将生演じる高槻は明らかに浮気相手として疑わしいが特に感情を見せない。
報復を考えてのミスキャストかと思えばそうでもない。
音の行為後に話す話の続きを教えて貰う場面では、浮気相手確定したも同然なのに、なんのコメントも残さないで逆に説教じみた事を言われる。
そして逮捕後は親身に心配する様子すらある。奥様も病気なのか、浮気の後ぬけぬけと愛を語る。みんな感情をオフにしてる?ってなぐらい、感情と行動が乖離してる様に感じる。
その対比なのか本能のままに生きる様な高槻が、説教じみたり、逮捕の際に落ち着いてたりと悟った様な行動を取るのが、作り手側の意識と役のキャラが混在して不可思議なものにしてるのではと感じてしまう。
そういった、推測や考察の奥行きを良作とするにしても、自分なりの解釈をした上でやっぱりわからんし、胸を動かされるものはなかった。
俺、映画鑑賞に向いてないのかな?謎だらけで、モヤモヤしたまま終わった
他の方たちのレビューを読んで
ここにたどり着いた
以前、スカパーで見たのを思い出してのレビュー
西島秀俊演じる主人公の家福は舞台の演出家で俳優
ある日、妻の浮気現場を目撃してしまう
しばらくして妻に「今夜、話がある」言われる家福
仕事が終わって帰宅すると妻は倒れていて
そのまま他界してしまう
2年後
仕事の依頼を受け、広島を訪れる家福
そこでは、自分で車を運転することは禁じられ
専属のドライバーを紹介される
という物語
妻の浮気相手が誰かは不明のままで仕方ないけど
奥さんの作る脚本の内容とか
岡田将生演じる若手俳優の行動とか
ラストの三浦透子演じる渡利みさきが韓国にいる(?)シーンとか・・・
(乗っているサーブは家福の車?)
モヤモヤがたくさん残ってしまった
妻に先立たれた喪失感の中での広島での活動とか
みさきの過去をたどる旅とか
その辺は良い感じで見てたんだけど・・・
う~ん、
簡単に言ってしまうと
「自分には向いていなかった」
です
無意識の物語と現実の苦しみの折り合い
いろんな感じ方の人がいると思いますので、あくまで私が感じた解釈で、ネタバレを含みます。
この映画では、音の物語(無意識内容のように性的でやや残虐、実際語った後の記憶が本人に乏しいと悠介が言っている)、みさきの母の別人格さち、高槻の突然豹変したような暴力など、何らかの解離を思わせる描写が複数出てきます。背景の家族歴は違っていても、おそらく家族の苦しみを、登場人物がそれぞれ抱えているように、描かれていると思います。
途中、高槻は悠介との車中で、音の物語のその後を語ることで、自分の闇に向かい合う決意を表明して(そうとはその時は悠介にはわからないのだけど)、舞台を去っていったように、私には思えます。
終盤でみさきが母に花を手向けて「単にそういう人だったと考えることは難しいですか」と悠介に呼びかけ、悠介が「正しく傷つくべきだった、でももう取り返しはつかない」と語り、現実の苦しみを苦しいまま受け入れて、生きる決意にたどり着く。
これらを台詞だけではなく、カセットテープの音声や、車、舞台、風景を巧みに象徴として用いながら、観客に解釈を委ねている、芸術性の高い作品と感じます。
小児逆境体験がある人物としては、みさきはやや個人的な体験をしゃべりすぎてるかな、と思う面もありますが、ぶっきらぼうで挑戦的な態度など、全体に描写が納得感あるものになっていて、フィクションとして許容範囲と思います。
私は心理的に妥当性を感じさせる、個人的なストーリーを、登場人物たちが統合してゆく映画はとても好きなので、その点でこの映画は非常に優れていると感じます。ベースになっている物語が、高い象徴性を備えている、村上春樹さんの作品であるところも大きいのだろうと思います。
また、映像の美しさも素晴らしかった。私は見て良かったと感じました。
テーマも高評価コメントもマスターベーションでやっと理解!
見る前に、ここのレビューが5点と1点が多かったので怖いもの見たさもあって見ましたが、1点の方が正解だと分かりました。
亡き妻も、妻が語った物語も”マスターベーション”が重要なテーマの一つになっていました。5点の高評価コメントは、監督が表現していない事や、台詞に無い事を何故か盛りに盛って、「そこまでこねくり回す?」と呆れるばかりで、自分に陶酔しているようにしか読めません。つまりコメントのマスターベーション。
言葉が伝わるということ
最初に違和感を感じて、印象的だったのは、家福が演出家になって本読みをする時に、意図的に棒読みでゆっくりと練習させること。そのリズムは、家福とその妻、音との会話にも相似的なものが見られると共に、それ以外の部分にも、同じようなタドタドシイリズムが見られた。もちろん、家福の演劇が、手話も含めた多国籍の言語で書かれているから当たり前なのであるが、それは意図的に仕組まれているように見えた。また、家福に、このようなやり方だと、それぞれの演者が全体を把握して、初めてお互いのセリフが深い意味を持つようになるというようなことを言わせている。自分は、人間同士の交わす言葉も、相互が全体を知って初めて深いコミュニケーションができるようになるのだと解釈した。
人間には、見せたくない部分もどす黒い部分もある。決してきれいな部分だけではない。音のようにどうしようもない性的嗜好、ドライバーとなったみさきが土砂崩れで家がつぶれた時に母親を救出しようとしなかったこと、家福が妻の多数の男とベッドを共にしているのを知りながら、正面から向き合わずに、「愛している」と言いながら放置し続け、二人の関係が壊れてしまうのを恐れて家に帰らずに、結果、妻を死なせてしまったこと。しかし、人間は、間違っている部分や黒い部分も含めて理解しあって、より深い関係が築けるのだ。
演劇の方も、言語が別々なのにも関わらず、たどたどしい本読みをやり切って、お互いがそれぞれの言語やセリフを理解して、初めて有機的な繋がりを見せ、深いものとなっていく。
家福は、高槻からの「自分の心の中を深くのぞき込んで理解すること」が、相手と深い関わるために重要なのではという言葉に促され、自分が見て見ぬふりをしてきたことに向き合おうとする。その姿を見て、みさきも自分の過去の秘密を打ち明ける。自分の中の善悪ではなく、その人全体をそのまま理解してあげること。自分の感情に気づいてあげて、放出することの大切さ。それで、人間関係は深まりを見せていく。
今まで大切にしていたサーブは、家福独特のこだわりで狭い価値観の象徴。そこから解き離れて、自分や音を深く理解していく流れと、演劇全体が、機械的な記号的な言語から解き離れて深さと広がりをもって、世界に解き離れていく感じがリンクしていて計算されているように見えた。
最後、サーブをみさきが韓国の道を走らせているのは、家福には、もう古い入れ物は要らないから、彼が立ち直るきっかけを与えてくれたみさきに譲ってあげたものであろう。犬が2匹位乗っていたし。
また、特筆するべき脚本のすばらしさとして、サーブの中でセリフをテープで流すとき、その映画の流れを説明したり、家福の心に響くようなセリフが選ばれていること。これも、かなりの効果を上げていた。
同じような映画がみたことがないという点で、素晴らしい映画だった。
舞台が好きな人なら良いのかも
小説みたいな映画
と言うより言葉の力で見せていく舞台に近いかも
不倫を繰り返すし暴力で台無しにするなど、一般的ではない人間の理解・不理解がテーマなので変に複雑になっている
その割に最後は共感性のあるオチでガッカリした感じでした
3時間の割には微妙な作品
タバコ描写も多いので減点です
ちなみにヤフーだと直近100レビューの平均は2.6
☆1、2で50%越えしています
つまらなかったらつまらないと言って良いんですよ
車中、劇場、宇宙
カンヌ脚本賞ということで前々から気になっていたが、ようやく時間をみつけて鑑賞。
傑作だった。近年、日本映画でこんなに感動させられた覚えがない。それくらい胸を打たれる作品だった。
最初は、演技や演出に違和感を感じた。なんというか、不自然なまでに演劇調で、Netflixでみるの海外ドラマのような、現実に即した会話手法とはかなり違っている。日本映画の演技はよく「演劇的だ」と言われるが、それをさらに誇張した感じである。
ただ、主人公の家福が舞台演出家であることがわかり、彼の舞台も劇中に映る頃には、その演出が意図的であることが自明となり、その後はすぐに慣れた。中盤以降は、この演出方法がものすごく効果的に物語を動かす装置になると感じ、観賞後はむしろ、この演出方法じゃないと作れない映画だったのではないか、と思うまでに至る。クレジットに青年団が載っているのが見えて納得した。成り行きでこの形になったのではなく、全て計算づくだった。
少し調べると脚本家の大江が舞台出身だということを知り、さらに納得。近代日本の舞台の手法を、これほど効果的にスクリーンに持ち込んだ作品は、私が知る限り、この作品以外にない。
例えば、音楽の使い方も舞台と似ている。俳優の息遣いまで聞こえるよう、極力排した音楽。そして、時折訪れる、完全なる静寂。本作品の着想の元となったビートルズの「ドライブ・マイ・カー」のポップな曲調から与えられるイメージとは、全く相反する音響であり、そこがまた新たに想像の余白を生んでいるようでもあった。
舞台的な手法と対立的に使われたのが、車中の映像ではないかと思う。これだけは映画でしか成立できないものであると感じた。「車内」と「劇場」が混ざり合うように、劇場の席に座る観客であった私も、同じサーブの車内にいるような感覚になった。
映画の大半が「舞台稽古」というクローズドな世界で繰り広げられるにもかかわらず、広島、ゴミ焼却炉、北海道、バー、キュレーターの家、そして、車中。オトの不可思議なストーリーと、チェーホフの戯曲と入り混ざるようにして、様々な場所で様々な物語が動き、イマジネーションのパレットの広がりを感じた。
褒めてばかりなので、あえて難点だと思ったところを一つあげるとすると、それはタバコの描き方。「かっこよくタバコ吸う」は、現代が舞台の映画だともはやアナクロ。妙にアナクロ趣味が混ざるのはある意味日本的な気もするが、いい加減「かっこよくタバコ吸う」はもう、ストーリー展開の上でも不必要ではないかと思う。
私が感じた難点は、演出上のほんの一部分に過ぎないが、それ以外の脚本、演技、音楽、映像、作品を構成する全てが第一級だと感じ、感服した。
ビートルズ、村上春樹、チェーホフ、濱口竜介・大江崇允と辿っていくことで創出され、俳優たちが演じ、撮影されることで「ドライブ・マイ・カー」という一つの宇宙が作られたような作品だった。
解らないけど、何故か退屈する事なく
3時間弱、最後まで飽きることなく観ることが出来ました。流石は村上春樹作品と言うべきなのか?
私には難し過ぎて、一体どう言う事??って感じです。
残された人は、色んな事実、感情を背負って生きて行かなければならないって事?
忘れたり、過去振り返らずに生きていく方が楽なのだけど、中々そう簡単に過去や故人を切り捨てる生き方は無理ですね。
色々と思い出し切なくなりました。
愛車はみさきにあげるのだろうなぁと思って観ていたけど、まさか韓国に移住しているとはビックリのラスト。
秘め事は墓場まで持って行こう!
なんじゃこら?と思って少し考えたが誰のための作品であるのかを。
そーなんです 審査員の為の作品
なかのいい夫婦が浮気相手を紹介したりするもんでしょうか?
噂になって仕事が無くなりそー。
相手が好きでも無く脚本を書くだけで男と寝ると言うのは、どうなんでしょう
辻褄合わせで死んでしまうので闇の中。
故人の秘め事を浮気相手と引き合いに出して競い合う、ありえないと思います。
個人的にパラサイト韓国映画は良作ですがパロディ目線で
本作も多国籍感を出して外国芸術作品思考に感じる。
ダラダラながーーーい作品でツッコミ所満載でも先が見えないスリラーでした。
何度でも見たい作品
鑑賞後のこの気持ち、映画を見たあとに感じるこの満足感は素晴らしい。
霧島れいかのウェットなんだかドライなんだか絶妙な声が魅力いっぱいに私の心を掴んだし、
西島秀俊は本当に素晴らしい役者だなと思うし大好きだし、
脚本の良さと映画全体の雰囲気とキャストのマッチ。
三浦透子という役者の良さをすごく引き出していたと思う。
映画のところどころの切り抜きがアート的で良かった。
そして、エンディングの音楽も良かった。
人生の辛さ、苦しさ、悲しさ
全部抱えて、きっとみんな生きてる。
死にたいくらい辛いと思っても、それでも生きてて
共感しながら胸が苦しくなるけど
生きてると自分自身の価値観も変わってくる。
あー、言いたい。
言いたい。
エンディングの音楽と運転する彼女。
きっと、そこに生きる希望があるんだと思う。
朗読
色々と賞を取った本作をようやく鑑賞。
気付きは多かったけど、退屈だった。
劇中の演出家が提示するような芝居をメインキャストはトライしてるように思う。岡田氏はちょと違うのかもしれないのだけど、女性陣は対応してたように思う。
ほぼ棒読みに聞こえる。
何も、そこに私情を挟まないような喋り方。
あまりに暇だったからやってみた。
Netflixで鑑賞してたから。
…これが結構難しい。
彼女達のような透明度が出てこない。
と、ある種、日本映画における革命を起こしたような本作。日本の演劇というか演技論を根底から覆したような手法に思う。
コレが全く影響を及ばさないのならば、なんだコレ?で済むのだけれど、コイツがまた水滴が落ちるかのような波紋を与えてくれる。
表情から読み取れない何かを、自分の中で補って人物達に補填してるような感じだ。
芝居っ気がないと端的に書ければいいのだが、そういうものだけではないらしい。
物語は随分と詩的な話だった。
村上春樹が原作だからなのかもしれないけれど、やたらに台詞が強い。言葉自体にエネルギーが備わってるかのようで主張が激しい。
だから、詩的だと思ったのかもしれない。
本作の芝居のカラーとは相性が良かったのだと思う。
ドライブマイカーって題名だけれどもよく出来てるなぁとは思う。
車ってのは確立されたプライベートな空間で、自分で運転し目的地を目指す。
生きてく事、そのもののようにも映る。
そのせいか、過ぎてく景色や、通り過ぎる描写が多かったようにも思う。一方向に進んでいく時間。
主人公はその運転を他者に託す。
運命共同体といえば大袈裟だけど、車の運転を任すってのは、ある意味自分の命を預ける事だとも思ってる。
途中から主人公は助手席に移るのだけど、どんな心境の変化があったのだろう?ただ、画面から察するに後部座席に乗ってるよりは、共に目的地を目指す感は強い。
多言語が入り乱れる舞台はなかなかにオツなものであった。考え方というか意図するものが面白くて…他者の台詞を自分のスイッチにするとかなんとか。
なるほど、そういう所はあるように思う。
コレを村上春樹氏がご自身の小説に書いてたのだとしたら、凄い観察眼だと思う。
中でも、手話を使う役者を投入するなんてギミックは、ホントに驚く。彼女がいるからこそ、この演出の目指すべきものが明確にもなっていくようでもあった。
言語による境界を無くす。
舞台上に和訳は提示されるものの、舞台で交わされるのは言葉ではなく感情だ。言葉は感情を表現するツールにしか過ぎず、役者達は共通し共有できるものがあるから、舞台という名の世界は動いていく、みたいな。
言葉に頼らなくとも人は分かり合えるみたいなメッセージだろうか?
手話が挟まれる事で、音すら必要不可欠なものではないという骨太なメッセージに変貌した。
なんちゅうか…当時の評価としては逆輸入感も強くて、日本の商業主義にウンザリする所もあったのだけど、村上春樹っていう小説家の世界観をビックリするほど落とし込んだ作品のようにも思う。
まぁ、問題は俺が村上春樹なんて崇高で高尚な作品を読んだ事がないって事であるのだが。
そんな感想を抱いた。
年齢を全く感じさせない霧島れいかの美貌
音役の霧島れいかの妖艶さもあり、ベッドシーンでの物語るシーンは話が頭に入ってきづらかったし、不倫を目撃した場面は胸糞悪かった。
しかし、運転手であるみさきが「すべてを本当として捉えるのは難しいですか?」という言葉は恋人に関わらず、友人や職場の同僚らに対しても自分がどう向き合うかという点では考えさせられるものだった。
「ドライブマイカー」を見て来た。 わざわざ映画館に行かなくても良い...
「ドライブマイカー」を見て来た。
わざわざ映画館に行かなくても良い映画かもしれない。
なんせ長い!1時間は削れる作品である。
演劇のシーンは、伏せ線も無いのにやたら長い。(あるようだけど、演劇を知らないから分からない)そこをバッサリするとテーマがよりクリアになる。演劇好きなのか客観性を見失っている。
原作のリスペクトなのか映画なのに小説のリアリティーになったままである。
一番の欠陥は、
二日猶予があります。と言われた時に、社会人として「私がやります」と言切った後に。「自分の心」と「責任感の大きなギャップ」の穴埋めの為に、北海道に行く(この2日を迷惑を承知で自分の為に使う)となると、彼の行動に共感できるし、最大のクライマックスを味わえたと思う。
(でもそもそも、なんでワーニャ伯父さんを演じられないのか?理解できない欠陥がある。バーで、それらしい説明をしていたが意味不明)
それが無いと、ニュースにもなっている大事件を逃げる無責任な責任者が、目的が分からない北海道に行っても「何をしてんの?大丈夫なの?」そっちが気になってストーリーが追えなくなる。最大の台無しだった。(そんな社会的責任も負えない人がえらそうに、岡田君と同じになる。)
小説なら そのリアリティーでOKだが・・
またSEXで物語を作る嫁も、それも小説風のリアリティーである。
映像にするなら、もっと嫁の語りを少なくすべきである。後から分かる片鱗だけで良いのである。(それか、SEXシーンの映像を空想・夢・非現実感を出すべきだった。でも前記の方が良いが)
後から、主人公の語りで、「あれは、そんな事があったのか」で良いのである。
SEX中に嫁がベラベラ物語をしゃべり過ぎで、ちょっと頭のおかしい人 設定かな?と思ってしまった。(大根も相まって)その点も映像と小説のメディアとしての性格の違いを監督は今一分かっていない様に思えた。(原作には無いそうだが)
その辺が腑に落ちないから、ずーと僕の中で上滑りしていた。思い返せば良い作品だったと思うが、小説風の作りのバイアスをキチンと、僕の中で整理したらと言う事である。アメリカ人も日本人ならそうなのかもバイアス(誤解)が、好意的に評価されたもかも?
それと西島が大根すぎて、ストーリーが伝わらない。
セリフと演技がちぐはぐだから、セリフがおかしいのかと思えてしまう。(これも後から脳内で補完作業が必要である)
監督も思い入れのある原作だから西島にしたくなかったのだろうけど、数字を考えたらプロデューサーが、首を振らなかった。(想像)
あれが役所広司だったら、数倍面白い深い映画になっていただろう。役所は脚本の読み込み が違うから、監督・脚本を越えてくる人だから、
それと、ドライバーの三浦透子と言う役者 知らなかった、トンデモナイ演技力である。出てくるだけで画面が引き締まる。
画面の端に映ると、スタッフが見切れているのかと思うぐらい自然である。
その役を、伊藤沙莉ででも見たかった。彼女(の声)の方がはまり役だろうけど、でも三浦透子は、どれだけ演技プランを練って来たのか?と思わせる。モンスター級である。
ハリウッドに出ても、浮かない役者である。
*後で調べたら、大好きな架空OL日記の「かおりん」だった。乗り移った演技で、顔が同じでも全く気付かなかった。怖い!
*役はオーデションで射止めたが、肝心の運転免許を持っておらず、マニュアル免許を17日で取得したそうである。なのにあの演技、怖すぎる!和製ロバート・デ・ニーロだ!
ストーリー(脚本)の話をすると、嫁が秘密を残して突然の他界をする。残された人が、それぞれの見方から、その秘密の謎解きをする下りは圧巻である。多くのアバタに目をつぶれる良さである。その点でも西島の演技が非常に悔やまれる。
韓国人役の手話で話すロウアの女性、非常に輝いていて、誰だろう?と調べてみたら、韓国人女優だった。驚いてしまった。韓国人にする必要がまるでないのニダ。
ちょっと荒い作品(キチンと詰められている所・突っ込み所が多い所が混在)であるので、見る側の度量が試される映画である。
面白いっちゃー面白いのだが、
惹き込まれてあっという間の3時間
村上春樹作品だし、約3時間の長編だし、難解で入り込めないかなと懸念していたけど、最初から最後まで惹き込まれた。テンポ良く飽きないという感じではなく、セリフや情景など一つ一つのシーンに吸引力があった。
愛し合ってお互いを必要としているけれど、全てをさらけだしてはいない家福夫妻。家福は「お前は自分をコントロールできない」と高槻に言ってその通りだなと思って聞いたけど、家福はある意味自分をコントロールしすぎていて不倫に遭遇した後であっても尚本音を言うことができない。お気に入りの古い車と決まったルーティン(カセットテープでの台詞覚え)があって、自分のルールやペースに従って生きているから、ワーニャ役を通して意図せず「自分が引きずり出される」感覚に耐えられなくなった。そして最後にワーニャ役を引き受け、みさきの故郷に行き、「音に怒ればよかった、謝ればよかった」と感情を露わにするシーン…家福の中で起こった変化がすごく表れていて、言葉を失ってただ見てしまった。
高槻の車の中の長台詞にも、すごく心に響くものが沢山あった。高槻のエネルギッシュだけど安定感がない危うい役所を見事に演じてた。家福をじっと見つめてずっと喋り続ける高槻に、一種の怖さを感じながらこちらも息を呑んで言葉をずっと聞いていた。
ドライバーの女の子も家福も、過去の出来事を自分に責任の一端があると罪の意識を背負いながら生きている。全編通して観ながら、主人公の状況・台詞に自分自身を重ねてしまい、観ていて自分の内面とも向き合わさせられる感覚があった。
かなり心を動かされた映画だった。また数年経って人生経験が増えたら違う感想を抱くかもしれないと思った。数年後にも見直したい。
全201件中、1~20件目を表示