ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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「言葉」を体に慣らしていく
多くの方がおっしゃる通り、3時間の長尺がまったく気になりませんでした。
独特なセリフ回しのなか、ストーリーが大きく展開するわけでもないのに、最期の最後まで惹きつけられました。
作中劇のワークショップシーンは、濱口竜介監督の実際の演出方法だそうです。
台本(テキスト)を淡々と読み上げる作業を繰り返し、言葉を体に慣らしていく。
きっと本作でも、丹念にこの準備がなされたのだと想像しています。
この演出方法により作り上げられた、多言語による作中劇は見事で、コミュニケーションにおける「言葉」の持つ役割を考えさせられます。
コミュニケーションにおける、言葉(テキスト)に、感情、体感覚、相互の関係性、空間、環境要因が取り入られながら、コミュニケーションが成立していることが良くわかります。
公園での練習シーンや、ラストの舞台でも、そのことが深く染み入りました。
西島さん演じる主人公が亡き妻に対して抱いてきた特別な想いや、向き合うことのできなかった感情は、演じないことによって表現されていきます。
だからこそ、ラストシーンでの「言葉」を使って発露される感情は、私には大きく響きました。
そして運転手の彼女は、運転しないときには「文庫本(言葉)」を手放さない。感情に向き合わないようにするため、言葉の中に逃避しているように感じました。
濱口竜介の次回作「偶然と想像」(2021年12月公開予定)も楽しみです。
ビートルズは大好きだけど、村上春樹作品はまったく読んだことがありません。
読んでみたいという欲求が高まるまで、もう少し待ってみます。
大事なことは小さく語られる
原作の要素は、パン作り過程のイースト菌くらいの存在でしかない。むしろ、作中劇として出てくる「ワーニャ伯父さん」をどれくらい知ってるかの方が、登場人物の心情理解に必要。
全てのことが、直接ではなく、間接で語られる。
ネタバレにならない部分で好きな所を言うと、SAABのエンジン音と、旅情を掻き立てる広島と瀬戸内海の風景。長距離のドライブや旅行に行きたくなります。
上映が3時間と長く、トイレ行かない対策しても、ラストは我慢してしまった。ワーニャ伯父を読んでないせいで、理解が充分でなかった。これ以外は、素晴らしい作品でした。
「言葉」なんて
私にとって
「村上春樹」…苦手
「演劇」…不勉強
「チェーホフ」…誰だっけ
というレベルの前提弱者として観賞。
もちろんそんな予習は必要ない訳だけど。
車内での膨大な心情吐露。
そして膨大な「間」
2時間にわたる長い長い前フリは、ストーリーが動き出す残り1時間のための重要な助走。
どれだけ近しい人物であっても、「言葉」で相手を知ったつもりになっているだけかもしれない。
しかし。
主人公が演出する芝居は、多くの言語どころか、手話まで表現に利用する。
「言葉でわかり合う」という事への皮肉なのか、熱望なのか。
淡々と、無感情に見える会話、そして物語は、彼のお芝居の稽古ともリンクしていたり。
…とまぁ、分かったフリして書いてみているが、多分印象はそれぞれだと思うし、この「淡々と」に飽きてしまう人もいるだろう。
私はあの韓国式手話で会話する女のコに感情を寄せていた気がする。
観た方なら、それぞれ心を寄せるキャラクターがいたのではないだろうか。
「こうあるべき」を押し付けてこない。
分かりあえなくてもいい。
でも、それぞれ大事なものがある。
不思議な空気感
先週末は特に観たい新作がなく、たまたま上映時間の都合がよかった本作を鑑賞してきました。事前情報をいっさい入れずに行ったので、冒頭から流れるいつもの見慣れた作品とは異なる雰囲気に、やや違和感を覚えました。しかし、ほどなくこれが舞台演劇の醸し出す空気感だとわかり、徐々に浸ることができました。もっとも舞台演劇を鑑賞したことがないので、想像でしかありませんが…。
そんな独特の雰囲気を作り出しているのが、車内でカセットテープから流れる、やや無機質な音声。それとオーバーラップするかのような現実の流れ。しかも、それが重なっているような、いないような絶妙な台詞回し。そんな実在の戯曲と重ねられた脚本を、序盤は霧島れいかさん、中盤は岡田将生くん、終盤は三浦透子さんがグイグイ引っ張ります。この三人が西島秀俊さんとのやりとりで見せる演技が、三者三様ですばらしかったです。
特に大きな事件が起きるわけでもなく、淡々と流れるストーリーなのに、なぜか目が離せませんでした。夢中になって観ていたというより、気づけば浸っていたというような不思議な感覚でした。途中で、演劇論や人生哲学的なくだりがあり、難しくて理解できない部分もあったのですが、それさえ心地よく感じてしまいました。
最も印象的だったのは、ラストの家福とみさきのシーン。このシーンのためにここまでに長い時間をかけて二人を描いてきたのかと、ここで一気に収束するような感じがしました。みさきが語る過去から、彼女の人柄や人生観が伝わり、家福も自然と自分と向き合っていきます。人は矛盾に満ちた生き物で、それを他者が論理的に理解できない。そもそも自分を理解するのも単純なことではない。さまざま飲み込んで生きていくしかないが、そこにあるのは絶望ばかりでもない。二人のやりとりを観ながらそんなことを感じていました。
ただ、自分にはちょっと難しい作品でした。普段ほとんど読書をしないので、村上春樹さんの作品にもロシア文学にも疎く、本作を十分に味わえなかった気がします。特に劇中劇の内容がさっぱりわからなかったのは致命的でした。他のかたのレビューを参考にして、機会があればまた観てみたいと思います。
素晴らしい映画でした
最近、歳のせいか映画の最中で睡魔に襲われることがあり、レビュー等を見て不安を抱きながらも村上春樹ファンとして必須の映画なので平日の映画館で鑑賞しました。僕が思う素晴らしい映画は最初のシーンが良い。
この作品も冒頭からスクリーンに釘付けになりました。
主演の西島秀俊さんはもちろんの事、すべての俳優さんが素晴らしいです。特に個人的にはあまり好きでなかった岡田将生さんが最高でした。長い上映時間もあっという間に過ぎ、切ない感じのラストシーンもとても良かったです。
最近の邦画でほぼお見かけしない類い。器が大きい。全く焦らない。重奏...
最近の邦画でほぼお見かけしない類い。器が大きい。全く焦らない。重奏的。久々に、この映画は終わらなくていい、と思った。
幻想的なロードムービー?
上映時間が長いのは物語の進みがゆっくりだから
と言うより、間が長いのと繰り返しが多いから
ドライブシーンはもっと内容が欲しかったのに残念
長い映画の割に案外集中して観れてしまったのは映画のつくりが良かったからでしょう
でもこれが長いのを容認する理由にはならない
こんな終わり方をするのであれば2時間にまとめて欲しかった
西島秀俊は名演であった
シチリア民謡に五木寛之さんが歌詞をつけた「ひとり暮らしのワルツ」という歌がある。早稲田大学のロシア文学科にいたためなのか、歌詞の中に次の一節が出てくる。
タバコをふかして チェーホフなんか読んで
悪くないものよ ひとり暮らしも
男と別れた女性が男と暮らした部屋に住み続ける心境を歌っている。「悪くない」ではなく「悪くないもの」という表現にしたところに五木寛之さんの工夫があると思う。「もの」が付くことで、俯瞰した見方になる。いろいろな暮らしがあって、どれも悪くないが、ひとり暮らしも同じく悪くないという言い方である。本作品にはタバコを吸うシーンも割と多いし、自然にこの歌が頭に浮かんだ。
本作品はまさにチェーホフの代表作のひとつである「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として展開される。チェーホフは大雑把に言えば人生の意味を問いかける戯曲を作っていたので、そういう意味でもこの作品にぴったりだ。ちなみにワーニャはイワンの愛称で、アレクセイがアリョーシャだったりドミートリーがミーチャだったりするのと同じである。英語圏でも同じように愛称が決まっていて、ジェームズはジミー、ウィリアムはビルである。愛称で呼ぶのは平素や親しみを込めているときで、改まったときは正式の名前で呼ぶ。ビル・クリントンは例の不倫騒ぎのときはヒラリーからウィリアムと呼ばれていたに違いない。さぞ怖かったと思う。
セックスは食と同じく人生に必要なものだが、それを正面から捉えようとした映画は少ない。特に邦画は少ないと思う。あってもマイナー作品だ。しかし本作品には西島秀俊と岡田将生という有名俳優が出ている。しかも3時間の大作である。あとは相手役となる有名女優が出演すれば本邦初のセックスがテーマの映画になったはずだが、そうはならなかった。映画にもなったドラマ「奥様は取り扱い注意」のヒロイン綾瀬はるかが西島秀俊の相手役を務めれば最高だったのだが、ちょっと残念である。
しかし霧島れいかも悪くない。ネチャネチャと音のする濃厚なキスシーンは、そこらへんの恋愛映画が逆立ちしても映せないシーンだ。舌を絡め合う濃厚なキスは、恋愛成就の証であり、セックスの入口でもある。互いに舌を相手の口腔へ入れ合い、歯の裏や口蓋の奥まで舐め合って、溢れる唾液を飲み込めば、心が溶けて脳は興奮の坩堝と化す。
このシーンがあったから有名女優が出演しなかったのかもしれないなどと考えたりもしたが、必要なシーンだから誰が監督でもカットはしないだろう。濃厚なキスの向こうにあるのは相手の人格だ。しかしである。人は可能性としては誰とでも濃厚なキスを交わすことができる。つまり濃厚なキスやセックスをしたからといって、相手の人格を理解できるわけではない。人は他人によって高められも貶められもするが、他人の生を生きることも他人の死を死ぬこともできない。どこまでも孤独なのである。
西島秀俊は名演であった。この人にはこういう複雑な人格こそ相応しい。
本作品にはセックス、暴力、肉親との関係性など、多くのテーマが重なり合うように登場する。どのテーマも最後はひとつの結論に収斂していく。人はひとりで生き、ひとりで死んでいくのだ。それを受け入れるしかない。奇しくも劇中劇「ワーニャ伯父さん」でソーニャが最後に語る台詞の骨子でもある。
過去を悔い、心に傷を持った男女が、生きる意味を問いかける物語
映画『ドライブ・マイ・カー』の感想です。
ブログではネタバレありで書いています。
監督:濱口竜介
制作年:2021年
制作国:日本
カンヌ国際映画祭 脚本賞、他3賞
原作:『ドライブ・マイ・カー』(短編小説集『女のいない男たち』) 村上春樹
【あらすじ】
舞台俳優の家福は、自身の不在中に妻が男を家に入れ、性交している現場を覗き見てしまう。
妻にはそれを告げずに夫婦生活を続けるが、妻は突然亡くなる。
二年後、舞台に上がれなくなった家福は演出家として広島に招かれるが、そこでの日々を通して、徐々に過去と向き合い始め。。。
【感想】
過去を悔い、心に傷を持った男女が、生きる意味を問いかける物語です。
男女の心情を丁寧にゆったりと描いており、観客として彼らに寄り添う時間とスピードは3時間という長さでも丁度良いと感じる程でした。
村上春樹原作。カンヌで日本映画初の脚本賞受賞作です。
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ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
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文学的か?
あえてセリフ劇にしてるんだろうけど、舞台的な感じは好みじゃない。セリフで言わせてしまうとか。
どうしても演劇だったら、文学だったらと発想してしまう。
夢の話も映像にしなかったのは演出だろうけど、それこそその夢の話を映画にしたら面白そうと思ってしまう。
わたしとは、だれか。
村上春樹の小説を読み終えた後に、つい反芻しながら咀嚼する時のような時間を味わいました。
短編がなぜこの長さになるんだ…と思わなくはないですが、だからこそ伝わる後半の「向き合い」があるのだろうとも感じます。長い分だけ、西島さんと三浦さんで良かったと思いました。
自分の気持ちを真っ直ぐに受け止め表現することは、自身の傷つきを受け入れること。その一方で、傷つくことへの恐れは、目の前の(どこか偽物の)心安さに簡単にかき消されるのだと知りました。
そして自分と向き合うことがこんなにも難しいのだから、他者を正しく知るなんてことはより難しく、「そのまま」受け容れるしかないのだと教えてくれた映画でした。
劇中劇と並走させることで狙いたかった効果をどのくらい感じられたかわかりませんが、多様な言語や手話、淡々としたセリフまわしの醸し出す世界観は、自分で意味を付けて補いながら観るような、不思議な感覚でした。
狭い車内、広い大地、そして舞台。
人は誰もが役者で、セリフや言葉を通じて、自分と向き合い、その過程で自分を知るのかもしれない。
数年後に見て、その時の自分とまた向き合ってみたいと思いました。
轍は続いてゆく。
村上春樹原作。カンヌで4冠。西島秀俊を主演に迎えたロードムービー。なんかすでに華やか。
演出家の悠介とその妻で脚本家の音。若手俳優で音の不倫相手高槻。そして音の死後、仕事先の広島で紹介された寡黙な若き女性ドライバーみさき。
初恋相手の自宅に忍び込む女子高生。まるで幻影のような幸せの形。妻に対する後悔と自戒の念。大切な人を失った喪失感。芽生える嫉妬心。自分自身と向き合わなければならない覚悟。赤い車が辿り着いた先。点と点が線になりやがてその線が轍となって道が繋がってゆく。そんな旅物語でした。全体的に丁寧に描かれています。ちょっと丁寧過ぎなくらいです。
ラストシーンはどうとでも解釈も考察もできるんですけど、めちゃくちゃ分かりにくい。これがさては村上ワールドなんだろうか。文学的な表現も多用されていてやっぱり179分は私は長く感じてしまった。
岡田将生は最近一癖ある役が多い印象。でも合ってました。三浦透子の淡々とした雰囲気も良かったです。西島さんはいつもの西島さんでした。
脚本賞は納得
物語をグイグイ引っ張り出すそのパワーは脱帽
そして、変に”お涙頂戴”的にせず、適度のドライ感も好印象
春樹節というか、際どいワード連発もキチンと落し込んでいて、今迄の原作映画の中でも一番正統派なのかもしれない。
あれだけの前段の時間の使い方は、賛否が分れる所だけど、自分的には斬新な運びで賛成である。
よく分からんなりにいい感じのドライブ
映画を観たなあ、という満足感のある映画だった。夫とラブラブのようでも結局は浮気しているとか、好青年のようだけど結局は暴力を振るって人を死なせてしまうとか、それも一つの見方に過ぎないよなってことを思う。「結局は」の前と後ろに何を入れるか人それぞれ解釈があって。そういうことを、監督はそれが言いたかったわけでは全然ないと思うけど、私は思った。誰も悪人じゃないし善人でもないし、「結局」ったってそこが終着点かどうか分からないよね、みたいなことを。
三浦透子さんにはタナダユキ監督の『ロマンス』の主題歌から注目している。かっこいい役だった。いわばキルアでブラック・ウィドウだ。
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