川っぺりムコリッタのレビュー・感想・評価
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すさまじいまでのクサさ
けなしていますのでスキップしてください。
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出演者が並んで立っているプロモーションスナップ/イメージってやたら使われてねえか?
意識高い系のアート映画によくあって、たとえば「愛の小さな歴史」と「お盆の弟」ではどちらも光石研が直立し面と向かっている。
おそらくしっかり探したら(出演者が並んで直立している)同タイプの映画プロモーション用イメージがさらに見つかるだろう。
日本映画が外国映画に劣るかどうかはともかく、日本の商業/工業デザインが外国に劣るのは間違いない。
じぶんのような素人でもそれは明言できる。
たとえばYouTubeやTiktokを見ていても日本の動画よりも外国の動画のほうがセンスがいい。漠然としたことだが、このての肌感は絶対的だ。
マックスモンアムール(1986)という映画がある。監督は大島渚だがフランス映画。
人間の女とチンパンジーの恋愛を描いている──にもかかわらずゲテモノにもコメディにも陳腐化しなかったのはイメージ形成に才知があったからだ。もし日本映画だったら獣姦映画に零落していたことだろう。
概してヨーロッパの映画ポスターはアーティステックで、時として映画本体よりも完成されている。
YouTubeにTHE FIRST TAKEというゆうめいな生歌サイトがある。
個人的にそのサムネを見るたび、日本の商業/工業デザインに形骸性を感じる。
すべてが無地背景にヴィヴィッドな色帯をあしらった(わかったふうな)ミニマルデザイン。その安っぽい意匠にまとわりつく謎の自負。ぜんぜん聴く気にならない。
おうおうにして日本のデザインはおしゃれでしょ──という権威やスノビズムに置き換わってしまう。
さて「川っぺりムコリッタ」のプロモーション用イメージ/サムネも出演者が並んで直立して面と向かっている画で、見る前から腹八分目だった。
並んで立っている画がよく使われているにもかかわらず使ってくることでマーケティング担当者の発想が貧困なのは明白だろう。
この腹八分目を憶えておき、出演者が直立してこっち向いている画──から想定できるような映画だったのか、そうでなかったのかを見た後で比べてみたが、まさに、出演者が直立してこっち向いている画──のような映画だった。
いや、予想をはるかに上回る「かわいそうの舒懐」映画だった。
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どこの自治体だったか新型コロナウィルスでうちひしがれた人々の心をすこしでも元気づけてあげたいという目的で花火を打ち上げた──というニュースを見たことがある。
エモーショナルな行為だ。なんの意味もない──と(わたしは)思った。
わたしにとって川っぺりムコリッタはそれ──新型コロナウィルス禍下であがった花火のような謎の情熱だった。orウクライナに送られた千羽鶴のような手前味噌な善意だった。orなぜか走る24時間番組のオートマチック感動演出だった。
こうやって所出根拠もなく世界が厚情に彩られているという話にはヘドが出るし、よしんばそれを許容したとしても、猛烈な青さを匂わせるペーソスは消化しようがない。いまだかつて見たことがないほど強烈な「泣いた赤鬼」風感傷に文字どおり鳥肌が立った。
なんなんだこの吐き気をもよおす善人どもは???だいじょうぶですか???
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罪を犯して荒んだ気分の青年が、回りの人たちの良心に浴して、しだいに心を恢復していく──というよくある設定の話。
主人公ヤマダ(松山ケンイチ)にからむ隣人/大家/社長ら全員が無償の愛を提供し、サステイナブルな小さな幸せを実践している。かつ、それぞれが「映え」のある傷を持っている。
社長(緒形直人)はどこまでも純粋で、過介入してくる隣人の島田(ムロツヨシ)は子を失っていて、大家(満島ひかり)も旦那を失っていて、溝口(吉岡秀隆)は墓石がぜんぜん売れない。
そんな、みんないい人──の環境でヤマダはじぶんを見つめ直し、亡くなった父やじぶんを赦すという流れ。その構成じたいに疑問はない。が、なんなんだよこの鼻くそみたいなペーソスの表現方法は。
たとえば島田は虫をころせない。なぜなら幼いころ蜘蛛の糸の話を親にきいたことがあるから。で、そのエピソードをたんたんと話したりする。
また、たとえば雷がダメな島田は嵐の晩に部屋の片隅で悲鳴をあげている。大の大人が。で、ヤマダが九九の七の段を逆さまに唱えると恐怖がきえるとか言う。
あるいはタクシーの運転手(笹野高史)が亡くなった妻の遺骨を花火に仕込んであげたというエピソード話したり、スキヤキに群がったり、死んだ金魚埋めたり、夫の遺骨で自慰してみたり、河原で骨砕いていたり、しまいには遺骨まきながら野辺送りしたり。・・・。
これらがエモーショナルなシークエンスとして提供されてしまうという稚拙さの絶対値。
まがりなりにもこの原作者兼監督は日本をだいひょうする女流映画監督とされている人なんだが、なんども言ってすまないがなんなんだこのうんこみたいなセンスは。すさまじいまでの臭さと衝撃度は佐藤二朗のはるヲうるひとを上回った。
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海外では女性監督が活躍し新しい人材もつぎつぎに出てくる。
じぶんはセリーヌシアマやナディーンラバキやグレタガーウィグやクロエジャオやエメラルドフェネルやソフィアコッポラやカンピオンやビグロー(などなど)の映画を見たとき、それが日本の監督とおなじ土俵上なのか──ということをしばしば考える。
もちろん答えはいいえだ。日本の映画監督は映画監督の土俵に立脚していないし、そもそも現代社会を見ていない。なにしろ“巨匠”による本作は“21世紀の女の子”ふくだももこのおいしい家族よりもさらに酷かった。
監督はこれを海外のたとえばサンダンスなどに出品する勇気はあるだろうか?それこそ本当の勇気(というか鈍さ)だが、ちゅうちょなく輸出できますか?
仕様上0にできないのを本気で苦々しく思いました。0点。
(余談だが日本映画では左にご飯茶碗、右に味噌汁、それらの上に主菜という定型食卓配置の食事風景が必ず出てくるがそんなことをやっている家庭はめったにない。にもかかわらずそれが定番シーンと化しているのは映画監督というものが世の中を知らないからに他ならない。つくづく悲しくも痛くもない人が悲しさや痛みを描いちゃいけないし、1950年の成瀬巳喜男映画──だというならいざしらず、2021年に、ごはんを炊いてしみじみ食べる描写を小さな幸せだと主張したいなら、映画である必要はまったくない。なんつうかさあ、とりわけ過酷な経験もなくて比較的安定した生活しているひとが、中島みゆきのファイト歌っちゃいけないと思うんだよね。)
(U-Nextで1,500円払って見たので1,500円分の毒を吐かせてもらった次第です。興味深い映画ですので、ぜひみなさんもご覧下さい。)
小さな幸せ…
地元では上映されなかった?
配信にてようやく…
素晴らしい俳優陣。見事な脚本と演出。緩そうで緩くない、かなりの秀作です! 類似テーマの「アイ・アムまきもと」と比較して観ると面白いかも。
40年くらい前の貧乏生活の自分がフラッシュバック。この作品の背景には現実味があり、「日本はこんな国のままでいいのか」と、少し悲しい気持ちになりました。
エンドロールに薬師丸ひろ子さん、どこに? 再度見直して納得…さすがです。
フグ刺し食べたことあるのかな?
取り止めもなく。
松山を最初に知ったのはデスノート。
何と、満島ひかりもデスノート出てたんだ。
キラの妹さんだった。
ミサミサは、戸田恵梨香だったね。
戸田と、ムロさんは、大恋愛で凄くお似合いだった。
ナメクジは、ミギーそっくり。
しかし、かなり豪華な俳優陣だよ。
少し泣いちゃった。
空に帰るのは、金魚でもあり、イカでもある。
とても素晴らしく、心に感じるものが多い映画でした。 松山ケンイチさ...
とても素晴らしく、心に感じるものが多い映画でした。
松山ケンイチさん演じる主人公の山田は、北陸の田舎の塩辛工場で働き始め、その会社が提供する寮に引っ越して住み始める中、突然隣人が遠慮なしに風呂を借りに押しかけようとしてきて。
癖のある人たちが住むハイツムコリッタ荘の人たちの交流から、現在社会の抱えるシリアスな問題をとても丁寧に描いていて、人の生き方や死について考えさせられる内容でした。
山田の慎ましくもとても美味しそうにご飯を食べるシーンはとてもよかったです。
じんわりといい映画
最愛の夫を亡くした後、色々と葛藤があったからこそ説得力を持つ、幸せを感じていいんだよという言葉。
ただ一緒にいるだけで幸せな気持ちにしてくれる人、小さな幸せをみつけるのが上手い人、でもそれはそうしないと生きていけないからこそ彼が身につけたものかもしれないけれど。
そんな切ない理由でも、彼に身についたキャラクターによってまわりの人を幸せな気持ちにさせるなんて、すごく希望のあるお話だなあと思った。
もっとシンプルに生きてもいいかもと思わせてくれた。
日常では、ついあれもこれもしなきゃと思うけれど、ただ働き、ごはんをつくり、風呂に入り、人と食べ、時々土いじりや、周りの人と関わる。そんな暮らし。
仕事のことや、あれこれ悩めるのは余力がある証拠かもしれない。でも、なにが一番大切か見極めて時間や心の使い方を考えたいなあと思った。
長く続けた人にしかわからないものがある、というセリフにドキッとした。つい、自分の仕事に意味なんてあるのか、と考えて無な気持ちになることがあるけれど、それでも続けた人にしかわからない心境があるのかもしれないと思った。
そして、悩んで頭ばっかり使わず、手を動かしなさいというセリフもグッときた。
どういう人と巡り合うかってすごく大切だなあと改めて思った。
何とかなる
田舎での生活をコメディタッチで送る映画、
と思いきや、登場人物たちは皆、それぞれ心に辛い過去を抱えていて。
過去に失敗したことや、辛いことがあっても
人生に絶望するようなことがあっても、
何とかなると、伝えてくれた映画。
日々の生活を大切にして、小さな幸せを
実感すること。大事ですね。
観終わった後に、白米と味噌汁と
きゅうりが食べたくなった笑
誰もが過去と葛藤しながら生きてる。
出演者それぞれに色んな過去を抱え、その葛藤と戦いながらも懸命に生きている。
ひとりでは生きていけない、誰かの世話になり、誰かの世話をし持ちつ持たれつ生きていく。
ムロツヨシと松山ケンイチとのやり取りは面白い。
結局、人との関わりがあるからこそ楽しく生きていけるという映画。
一方では孤独死の多いこの時代について考えさせられる。
なぜ高評価…刺さらなかった
うーん😔まったく刺さらない。
満島さんが、旦那の骨を食べて、股下に入れるシーンは猟奇的で、個人的に良かったが、それ以外は…なんだかな。
孤独死は核家族化になり今後はますますグローズアップされると思う。
隣人に風呂を貸してはいけない。
不思議でどこか懐かしい川っぺりの人間模様。狭いコミュニティの中で起こる日々の出来事。ひっそり静かに暮らしたい訳あり男、山田。しかし引っ越し先のご近所さんがやたら図々しくズカズカと日常に入り込んで来る。やがてどこか憎めないその隣人達にも深い苦悩があることを知り自分自身の人生に向き合うことになる。
食卓に並ぶホクホクの白米と手作りのお漬物。お味噌汁に塩辛。こんなんお腹鳴るわ。美味しそう過ぎた。犬の墓石に200万円。宇宙との交信。旦那の骨。元気な死人。川っぺりは賑やかです。
マツケン演じる山田が主役のようで実は島田のエピソードが強い。なによりムロツヨシが強い。誰もが霞んでしまうほどに。
スローライフムービーかと思いきや、、!
ムロさんを推してる先輩と一緒に観に行ってきた。公開して1週間くらいのレイトショーで見てきたけど、10人ちょっとくらいはお客さん入ってて、思ってたより集客できてそうな気配がした。けどそうじゃなかったのかな、1ヶ月待たずに近くの映画館で上映終了してて、ちょっと寂しかった。
予告とかチラシの前情報を軽くしか入れてなかったから、てっきりお金に困った主人公がハイツムコリッタに転がり込んでスローライフを送る中で生きがいを見つけていく、みたいなストーリーを勝手に予想してしまっていた。だから、前科者であることとかお父さんのお骨のこととか、想像以上に深いテーマが盛り込まれていて、ちょっと驚いたし、またいろいろ考えさせられた。
主要キャストは実力派揃いでさすがすぎた。最近大好きな満島ひかりさん、よかったなぁ〜器の大きい大家さん役。素敵だった。あとこの映画のすごいところは、こんなキャストがこんなちょい役で起用されてる!っていう豪華キャストの贅沢使いがたびたび見られるところ。それだけでもほんとに見応えあった。
みんな言う、この映画見たら炊きたての白ご飯食べたくなった、は共感でしかなかった笑。特にすき焼きのシーンが好きだったな、あんな優しくて温かい世界線探しに行きたすぎる‼︎ってなった。鑑賞後感とても良かった。
あと、観に行ってからしばらくはあのエンディングの音楽が頭の中で永遠ループしてたな。なんか聴いたらしばらく頭から離れなくて中毒性あるし、なんか聴くだけであのムコリッタの世界思い出してにやけてしまうのは私だけかな。
食べるとは生きること
日本映画って印象的な食事のシーンが少ない気がする。観終わった後にあれ食べたくなるなってなるやつが。そんな中、本作の食事シーンはいい。炊きあがったばかりの白いご飯をしゃもじでかき混ぜるシーンから魅力的。
豪勢なおかずがあるわけではない。でも、とても美味しそうだったし、力強さを感じた。動物や魚介類、植物にしてもそう、人は生きているものを食す。そうだよな、食べるって生きることなんだよなと改めて実感する。
一方、死んでしまった者たちのエピソードも散りばめられる。島田の子ども、大家の南の夫、そして山田の父親。ついでに言えば同じアパートのおばあちゃんも。亡くなった者たちとの向き合い方も生きるってことにつながるってことだ。
時間の進み方がやたらとゆったりと感じるのもこの映画の魅力。説教臭いところが全然ないのになぜか力をもらえる、そんな不思議な魅力がつまった映画だった。もちろん、塩辛とご飯が食べたくなる!
ムコの鎖骨でナニシテハッタ?
友人の告別式に出た日に何か一日の終わりに心が暖かくなる邦画を求めて見た一本。
まさかでした。
せっかくきれいに残っていたお骨を骨壷に順に入れたのに、入りきらないとふんだヤキ場の職員さんが大きなカラダで上から全体重をかけてボキボキにして詰め込み、そのあと灰を刷毛で必要以上にバカ丁寧に集めては入れるのを見ている間、なんとも空しい気持ちになりました。
そしたら、この内容。
ムコリッタが仏教用語だとも知らず、ムロツヨシと黒田大輔の出演を確認しただけで選んでしまいました。
でも、故人はこの映画を見て、オレを今日の最後まで偲んでくれよと導いてくれたんだなと思いました。
友人は58歳で逝きました。KISSのファンクラブに長年入っていたロックバカでした。もちろん、ジーン・シモンズの斧ベースを筆頭に5本のベースを所有しておりました。
喪主の15年下の彼の嫁さんは式場のBGMでロックンロール・オールナイト、ラヴィン・ユー・ベイビー、ハード・ラック・ウーマン、ブラック・ダイヤモンド、ラブ・ガンをエンドレスで流しました。
それから、遺骨関連の邦画を3連チャン。
そのうち、川っぺリとアイ・アムまきもとに満島ひかりが。
一合だきの小さい炊飯器も共通。
赤い金魚も両方に出てきた。薬師丸ひろ子の命の電話の相談員の話。魂の金魚。
偶然にしては・・・・きっと何かの縁でつながっているのかも。
開放的な長屋暮らしはまるでシェアハウス。
店子のすき焼きに生卵持参で駆けつける大家さん。きついな~
大家さんが旦那の遺骨を少しカリカリしたあと、なんかしてはった。あれは鎖骨。ちょうどいい形とサイズだなぁと思いました。たぶん、荻上直子監督の本には書けない映画だけのサービス場面だったと思う。
帰りにイカの塩辛を買って帰り、何杯も献杯してしまいました。
これは、令和版 「どですかでん」 である。
ゆったりとして不思議な時間の流れがこの作品の魅力だ。
主人公・山田の過去(前科)を含めて、 常識の埒外にあるような登場人物たちの生活すべてが、良い意味で“どうでもいいわ〜”と思えてしまう。
野菜を作りながら図々しく風呂や食事を要求する隣人。
黒いスーツ姿と無感情な笑顔で墓石を売り歩く親子。
死んだ夫の遺骨を齧りながら自慰をしてしまう大家。
死んでいるのに花に水をあげてまだ“そこにいる”女性。
ひたすらイカの塩辛を作る事に疑問を持たない工場長。
みんな愛おしく感じてしまった。
荻上直子監督(&脚本)が、黒澤明の「どですかでん」を意識しているのは間違いないだろうなぁ。
余談だが、この映画の前に「アイアムまきもと」を見たので、やはり「お見送り係」は必要だなぁと思ってしまった(^_^;)
婿養子の話だとおもた。
萩上さんの作品なんで、淡々と、ゆるっと、幸せなやつかな、、、と思って後回しにしてたが見て良かった。
思っていた以上に重く、しかし追い詰めず、いつものつまらないユーモアもあり、、なかなか見終わった後の充実感が良かった。端役にこのレベルの役者を集める事が出来るのが凄いし、皆んな余計な事しない所が凄い。
たぶん今までやってないカメラの動き、主にハンディがエモさの原因じゃないかと思う。
自分もよくやるけど炊飯器の蓋を開けた時の立ち上がる米の香りが好きだ。鈴木清順の昔の映画を思い出しながらいつもやってしまう。
ささやかなシアワセによる新しい繋がり
「かもめ食堂」の荻上直子監督の最新作は、美味しそうな食事と「ささやかなシアワセ」で満たされている。
だからといってノー天気な映画ではなく、「 光あれば影あり」と言われるように、モチーフとなっている「遺骨」が象徴する「死」が、作品に影を投げ掛けている。
北陸の小さな町に訳あって引っ越してきた山田は、職を得たイカの塩辛工場の社長から紹介された川沿いに建つアパート「ハイツムコリッタ」で暮らし始める。
出来るだけ人と関わらずに生きていこうとしている山田だが、隣の部屋に住む島田が毎日のようにやって来て、静かな日々は一転してしまう。
そんな時、子供の頃に自分を捨てた父親の孤独死の知らせが入り、遺骨を引き取ることになる。
このアパートの住人は皆、社会からは少しはみ出した訳あり人たちばかりで、そして貧乏だ。
未亡人の大家の南さんは何かを抱えているようだし、墓石売りの溝口さんは息子を連れて訪問販売しているし、静かにと暮らしたいと思っていた山田だったが、何故か住人たちと関わりを持つようになっている。
友達でも家族でもない関係だが、山田は孤独ではなくなり、新しい「繋がり」を築いていく。
コロナ禍で益々格差が生まれて分断され、無縁社会が広がっていく中、この作品は、そういう風潮に静かに抗うように新しい「繋がり」を我々に提示しているような気がする。
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