由宇子の天秤のレビュー・感想・評価
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誰もが天秤にかけ迷っている
ドキュメンタリー・ディレクターの由宇子。
女子高生の自殺、そして彼女との関係を噂された男性教師の死の真相を追う由宇子。
父と二人暮らし。
父が営む学習塾を手伝う由宇子。
素晴らしい父であり、素晴らしい先生である父。
塾の生徒と関係をもった父。
真実を見誤り、真実を隠そうとする由宇子。
色々な真実があった。色々な真実があることに気づかせてくれる作品だった。
これは今年の日本映画のベストの一本だろう。
それにしても瀧内公美さんが素敵だった。主演女優賞は『茜色に焼かれる』の尾野真千子さんとの一騎討ちになるのでしょうか。
弱い人も嘘を吐く
上映前の舞台挨拶で春本雄二郎監督は「ストーリーを追わないでください」と言っていた。その通りの作品であった。
瀧内公美は映画「彼女の生き方は間違いじゃない」や映画「裏アカ」を観て、ところどころで光る演技をする女優だと思った。本作品でも、冴えない場面は少しあったものの、凡その場面でリアリティのある演技をしていた。
本作品で演じたヒロインの木下由宇子は、ドキュメンタリー監督及びインタビュアーとしていじめ自殺の真実に迫る映像を撮っていくが、いかにも浪花節的な精神性で、人を信じすぎるきらいがある。「私は誰の味方もしませんよ」と言いつつも、弱い人の味方という立ち位置で取材をする。弱い人はただ人権を蹂躙される正直者だと誤解しているのだ。本当は弱い人にも戦略があり、ときに嘘を吐くということを忘れている。
テレビを主戦場とするなら、局の政治的な圧力も承知の上で、限界ギリギリの妥協点を探りながらの番組作りをしていかねばならない。海千山千のしたたかさが要求されるのだ。しかし由宇子は正論にこだわる。そのあたりの未熟さを瀧内公美はとても上手に演じ切ったと思う。
凡そ人は喜怒哀楽の場面に遭遇したときは、先ずフリーズする。いきなり泣き出したり怒り出したりすることはない。目や耳から入ってきた情報を分析しているからだ。瀧内公美のフリーズする演技はなかなかのもので、とてもリアリティがあった。
ある意味とっ散らかったストーリーの中で、由宇子に降りかかる災難は半端ではない。その全部を彼女は黙って引き受ける。そこに彼女の弱さがある。無視して、人を見捨ててしまう冷酷さがないと、ドキュメンタリー監督は務まらない。弱い人も嘘を吐く。
ジャーナリストではない。ドキュメンタリー監督なのだ。自分の責任を棚に上げて、自分が生きていることさえも棚に上げて、超客観的な視点、所謂神の視点で映像を撮る。強者も弱者もともに突き放して、由宇子自身が言ったように、誰の味方もしない。そのために必要な冷酷さを身につけなければならない。自分や家族を守っているようでは、いつまでもちゃんとしたドキュメンタリーは撮れない。由宇子の天秤がちゃんとバランスを保つようになるまでには、もう少し時間が必要だ。そういうラストであった。
観客の固定観念を軽快に裏切り続けて想定外の結末に誘う『不思議の国のアリス』ミーツ『踊る大捜査線』
主人公の由宇子はドキュメンタリー番組のディレクター。女子高生自殺事件の真相を追うために自殺した女子の家族ら関係者への取材に奔走する傍ら、父が経営する学習塾を講師として手伝う毎日を送っているが、ある日塾で起こったささいなトラブルをきっかけに由宇子は次から次へと様々な選択を迫られる。
これで今年の新作映画鑑賞は97本目ですが、これは昨日までベストワンだった『Mr.ノーバディ』を超えました。凄まじいレベルの傑作です。
普通こういう映画だと主人公は実直な人で困難にブチ当たるたびに打ちひしがれたり苦悩したりしますが、由宇子はそんなキャラではなく冒頭から自分の撮りたいものを撮るためには手段を選ばない強かさを備えています。その強かさが盛大に繰り返されるどんでん返しで延々と試され続ける様はまるで『不思議の国のアリス』。要するにドキュメンタリー作家の由宇子は事件の真相という白ウサギを追っていくつのも真実が交錯する不思議の国に迷い込み、そこで出会う人々に様々な難問を突きつけられても抱え込むことなく矢継ぎ早に答えを出していく。その行き着く先が観客が想像していたものからどんどんと遠ざかっていき登場人物の印象も目紛しく変容する様が余りにもスピーディで152分という長尺を全く感じません。
個人的に気になったのは由宇子がずっと着ているコート。ポスタービジュアルでも判る通り『踊る大捜査線』のいわゆる“青島コート“そっくり。これって本作では事件が現場だけでなく会議室でも起こることを暗に匂わせているのかもと勘ぐりました。
ほぼずっと出ずっぱりの由宇子を演じた瀧内公美の存在感がとにかく強烈ですが、丘みつ子、光石研他の演技派ががっちり脇を固めているので、観客の固定観念をこれでもかと揺さぶってくる危うい構成なのに妙に安定感のある作品。そんな中で異彩を放っていたのは塾の生徒の一人萌を演じた河合優実。『佐々木、イン、マイマイン』では不思議な縁から佐々木と心を通わせる苗村、『サマーフィルムにのって』では主人公ハダシの幼馴染で天文部員のメガネっ子ビート板と全く印象の異なる役を演じてきていますが、本作で最も複雑なキャラクターをしなやかにこなしています。
劇伴が全然ないのが特徴的ですが、冒頭で奏でられる曲が醸す強烈な違和感が物語を追っている間も抜けないのですが、エンドロールにそれに対する答えがさりげなく添えられていて、この選曲にも本作のテーマが滲んでいたことにも感銘を受けました。
本作を鑑賞するには予告やチラシ、公式サイトに書いてあること以外は何にも知らない方がいいですが、一点だけアドバイスするとエンドロール直前に鳴る音には注意して下さい。それを聞き逃すと本作に対する印象がガラッと変わりますので。
インディペンデントであり社会派エンタメという稀な一本
面白かった。見応えあった。瀧内公美とまさに旬の新人となる河井優実、ふたりの女優がいい。1時間くらいを費やしてドキュメンタリーディレクターとしての「獲物」を追う、弱者の側に立つ真っ直ぐな姿勢、実家の塾講師である父を助け、子供たちにも寄り添う反骨のキャラとして休む暇なく動く主人公。その事件の行方も充分気にかかるところへ自分の足元がゆらぐまさかの事件が発覚。追うものから追われるものに反転しかねないその事件の設定が上手い。ここからまさに天秤状態で本当のドラマがはじまる。寄り添っていた生徒との関係が別の意味を帯び、しかし、ヤバそうな父とその生徒の関係は上向き、なのでこの先が見ていられなくなる。さあどんな決断をするのだろうか、と。
まったくのインディペンデントでこのような社会派でかつエンタメな映画は珍しいのではないか。潤沢な制作状況でないのは見た目にもわかるが、逆にそれらも利点となっているような寂寥感溢れる現代日本の風景。監督の現代日本への怒りや不安が背景から見える。俳優陣もみな適材適所でこの台本を吸収している感じ。
しかし今年は邦画インディペンデントは豊作だ。
リアル
激しめの設定だけど各登場人物の行動はリアル
その分、盛り上がりとか爽快感は少ない
多少明かされる真実みたいな流れもあるが、そこは本筋ではないような気がする
満足感のある作品だけど、もう一度観ようと思わない、かも
上映後、舞台挨拶付
ヘビー級
これは重い。ヘビー級のボディーブローで終始揺さぶられ続ける…
社会正義とは?ジャーナリズムとは?人間の善悪とは?を、二つのケースを使って裏と表から、まさに天秤のように、あっちに振れこっちに振れ、さぁあなたならどうする?と問い続けられる2時間半。誰も信じてはいけないし、誰もを信じなくてはいけない…
それでいいの?大丈夫?と問い続けながら最後まで来て、それでも由宇子がどうすべきだったのかは分からずじまい。今も考え込んでいる…
役者がみんな良かった。瀧内久美は勿論のこと、特に、良くインディペンデント系で見掛ける川瀬陽太が今作は目立っていたし、めい役の河合優美は「佐々木インマイマイン」「サマーフィルムにのって」で注目していたが、素晴らしい演技だった。
まさに彼女の映画
映画は観た人それぞれの中で完成する
(某監督の言葉)
だから、好き嫌いは人による
非常にクセのある作品なので、評価は大きく分かれると思う
しかし、由宇子役、瀧内公美さんの演技にはほとんどの人が、圧倒されると思う
まさに彼女のための由宇子であり、由宇子の天秤は彼女の映画だと思う
月並みですが素晴らしい演技
本物を見つけたときの高揚感に包まれています
彼女のこれからに期待します
私は、テーマ性の高い作品はあまり観ませんが、まだまだ観ることになりそう
登場人物、みんな嘘をついていても不思議ではない
親父やってくれたな!
ドキュメンタリー番組のディレクターを務める女性の近親で、ネタとして追う事件と近い出来事が巻き起こる話。
3年前に起きたイジメによる女子高生の自殺、及び、彼女との交際が噂され抗議の自殺をした教師という事件の家族達を取材する主人公。
マスコミ批判を封じようとする上層部に苛立ちを覚える姿は良いけれど、取材対象との約束を守らない姿はやはりマスゴミ。
しかしながら今も苦しむ家族の姿を目の当たりにして意識が変わるのかな…なんて思っていたら、まさかの親父っ!
葛藤とか苦悩みたいのをみせるのかと思いきや、その雰囲気がない訳ではないもののという感じで、自身のみてきた世界を恐れて突き進み、本当に心配しているのは誰のことか。
胸クソ悪さがある一方、判らないでも無いという思いもあったけど、トドメの疑念は本性ですよね。まあ、これも言いたくはなるだろうけれど、あなたの立場なら聴取も調査ももう少ししてからね。
ラストはもっとボコボコのボロボロでも良かった気がするけれど、内容の割にちょっと尺が長くまったり気味だったから、良い切りどころだったのかな。
【脆い正義と曖昧な真実】
昔、糸井重里さんが、Twitterだったと思うが、面白いことを言うなと思って、書き留めてきた文章がある。
“僕は、自分が参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます”
確か、これは、震災の際の原発事故で、デマを聞いて東京から脱出すべきだと世間が騒ぎ立て始めたた時のツイートだったと思う。
僕は、人の話を聞いて、何かを判断するときに、参考になる考え方だなと、今でも思っている。
さて、映画のタイトルからも理解できるように、この作品には、複数の重要な対比が織り込まれている。
そして、それは、嘘か真実かというより、その時々に応じて形を変える正義によって片寄る(偏る)ほうを選択していくのだ。
実は、舞台挨拶での春本監督の話が、大きなヒントだったような気もする。
“映画を制作する際、商業主義の作品は、アイドルタレントを起用するとか、原作は有名な作品や漫画にするようにと要求されるが、自身の10年に及ぶ助監督業の後、そういうものとは異なる映画を撮りたかった”
実は、ドキュメンタリーにも多くの忖度があり、センセーショナルであったり、人目を引く方がコマーシャリズムに乗りやすかったりするのだ。
だが、この作品で春本監督は、それを批判しているわけではない。
そして、こう言っていた。
“あらすじを追わず、是非、登場人物の気持ちになって考えて欲しい”
おそらく映画を観た多くの人が、自然とそのようにしているのではないかと思うが、そこには正義を基調とした考え方がある反面、さまざまなことが明らかになるにつれて、その正義が如何に脆いものか理解しなくてはならなくなる。
前に、人は3回同じ嘘をつくと、それは真実だと信じるようになるという話を聞いたことがあった。
出し手の正義は真実を曖昧なものにし、受け手のフィルターが更にそれを不安定化させる。
こうして、僕たちの世界の正義と真実はアメーバのように変化しているのかもしれない。
今更ながら、糸井重里さんは、面白いことを言っていたのだと感心している。
場面の切り取り
テレビのドキュメンタリーなどで場面の切り取りによって印象が変わるという話があるけど、そこを主題にした感じ
場面が進むことで話の印象が変わる
2時間半の上映時間で音楽はなしだけど面白かった、映画館向きかもー。
しかし久しぶりに混んだ作品行った
売り出しの鼻息は荒いけど……作る前にもっと考えてほしかった
女の人が殺されたり自殺させられたり性的暴行されたり売春させられたり妊娠させられたりする、という、女の人にとっての生きるか死ぬかの大変なことが、この娯楽映画のサラリとした具材になっています。時々はネットリした具材です。
当人たちの苦痛・不安・恐怖は甚大。
しかし、作者にとっても大半の観客にとっても、「真実にどう迫るか」「真実に迫られた時にどう判断し動くか」「社会において個々人の生活において、真実というものはどんな意味を持ち何面を持つか」をより上位の主題と位置づけています。主演女性さんが全力で、それらのプチ哲学的主題を主役自身の生死よりも優先する、と宣言したに等しい風変わりなラストでした。
作者らが自賛している通り、終盤の飾り方は質素ながら成功している方でしょう。
一人二人か三人の女の人を半ば破壊してまでも私たちの実践哲学を育んでくれる物語だったかどうかは、かなり微妙と思いました。好きか嫌いかでいえば、私は嫌いです。
なぜなら、いじめ自殺報道問題と教え子への犯罪、そのどちらもが、茶番劇かせいぜい出来の悪いサスペンスドラマの次元・密度を超えておらず、わざわざ「これが主題でございます」と改まっての挨拶的に提示してこない限りは、物語の内側からごく自然に浮き上がってくる本当の主題性がないからです。つまり、野次馬的・傍観者的な一時の関心以上のものを刺激してくる熱さがありません。
実際、この映画の鑑賞後に何か生き方を変えたくなる観客は、おそらく1%もいないということです。誰も彼もが「ちょっと考えさせられた」とコメントするのみです。けっして誰も生き方を変えません。せいぜいSNS上の誹謗中傷を許すまじ、という流行りの世論への一助になるかならないか程度です。シネコンやぎゅうぎゅう詰めの居心地悪いミニシアターで、一時的に消費して本当に終わりです。
SNSによる集団的吊るし上げという、その今日的なキーワードのおかげで、さも最新式の具材集めを丹念にやりぬいたように見せていますけれども、肉部分の大半は、女性いじめの古臭さに満ちた、前近代的な中途半端ハードボイルド・メルヘンです。
女性が妊娠に気づくのは、嘔吐よりもまず「来るはずの生理が遅れている」だったりするのに、そして二昔か三昔以上前の女子高生ならともかく、情報が溢れている現代日本において、女子高生が人形のように精神的に幼すぎるのはちょっと無理があるのに、その辺りは適当に描かれていて、やはり緻密さのないメルヘンです。
私の近くの座席に、やたらと物音立てる迷惑な男性観客がいました。その人は、上映後にとても満足そうな顔をしていました。新時代にそろそろもうそぐわない、そういう化石タイプの人間が、たぶん率先してこの作品を褒める側に回るのだと思いました。そして表面上は「スクリーン内の可哀相な女子に同情」しているつもりになっていて、実は、単に楽しんだだけなのです。
さも大人になりきったふりをして、古臭さと青臭さだけを空虚に同居させている、不気味な自主映画の延長作品でした。
上映館拡大を切に願います(ユーロスペースさんの密解消のためにも)
間違いなく今年度公開作の中でも指折りの傑作のひとつ。観賞後に考えさせられる余韻が最大級。
正義とは?という命題は、これまでもたくさん描かれてきたし、これからも描かれ続けるはずです。時代がどう変わろうが、永遠に答えの出ないテーマだからです。
戦争であれ、法廷であれ、企業であれ、学校であれ、震災のような災害の場であれ、〝その時、自分はどこの誰としてそこにいるのか〟によって正義と呼ぶべき大義や対象は様々です。
救うべき或いは守るべき相手は、国家なのか、帰属集団なのか、個人なのか、その個人は社会的影響力のある人物なのか(アメリカ映画なら大統領とかがそうです)、影響力はないが愛する家族やペットのひとり(一匹?)なのか。
そしてそれらの要素が複層的に重なった場合には、シンプルに正義か否か、という選択肢は消滅します。
何かひとつを選択すれば、それに見合う何かをひとつかふたつ或いはそれ以上に失うことになります。
その場合に判断しなければならないものは、〝優先順位〟であって、〝正義〟ではない、という状況になります。
それまでの由宇子は、冷徹に真実を客観的に伝えるという芯の通ったブレないプロ意識に裏付けされた信念がありました。
そして、それを貫くための唯一の条件が〝当事者ではない〟ことでした。
思わぬところから当事者そのものになってしまった由宇子には、当事者でない時には封印できた〝良心〟とか〝良心の呵責〟という人間性の真実の一面が重くのしかかってきます。
当事者でなければ、優先順位の判断基準は合理性(傷つく人が一番少ないと想定される選択を取る)で割り切れたはずなのに、当事者としての良心は、本人にとって失うものが最大化するような不合理な判断(実際に命まで危険に晒すことになった)をさせることになります。
一方で、打算的な動機を背景に始めたはずの小畑萌への個人レッスンからは暖かな絆が生まれたのも事実(万引き家族における樹木希林と松岡茉優との関係性にも似ています)。
少し書き過ぎました。
あとは一年に数本あるかないかの胸アツというよりは胸オモの作品を一人でも多くの方がじっくりと味わっていただくことを願っています。
ドキュメンタリーはノンフィクションのフィクション
これは、映画ではない!
小説だ。
自分事でもあり、ありそうな話。
と、目を釘付けにさせてしまった。
だから、すごい映画に仕上がっていた。
自分の田舎がロケ地だっただけに
やけにリアルだった。
人間の弱さを炙り出す傑作
人間の弱さを炙り出した意欲作。
人は優しく、正しさを求めて生きていくのだけれど、儚く、脆く、臆病で、結局は嘘をつく。
他人の嘘には厳しいけれど、自分の身に何かあれば、自分もまた保身のために嘘をつく。
そんな矛盾を抱えて生きるがゆえ、結局は社会そのものが矛盾に満ちていく。
何が正しいのかすら曖昧で、誰にも分からなくなる。
はっきり言って、「答えはない」。
ついた嘘は、吐いた本人にブーメランのように戻ってきます。
主人公は誰より優しく、誰より正しくあろうとしたゆえに、一つの嘘が周りの人間も本人も深く傷つける。
その残酷さ。
そして、結局その状況を生むのは、冒頭にも書いた人間の「弱さ」なのだと。
この映画は「正しさ」をもち続けることが難しいこと、そして受け止める側次第ということを、刃物のように喉元へ突き付けてきます。
怖い怖い映画で、観終わった後もこの映画が頭の隅っこから離れません。
ひとつだけ絶対に「間違っている」「正しくない」と断言できるのは、当事者でもなんでもない第三者が、事件における加害者・容疑者の(事件とは全く関係していない)家族をネットに晒し上げ、リンチを加えるってことでしょうか。
「正しさ」を隠れ蓑にし、叩いてもいい相手と思った人間を果てしなく追い詰めて遊び愉悦に浸る行為は、卑怯そのものに過ぎません。
長尺、音楽なし、そして結論もなし…。
残念ながら、尺はたっぷりあるが、引っぱって、引っぱって、結局、結論なく終わる。
社会の悪を追うドキュメンタリー監督が、自分の父親の犯罪的行為を隠蔽しようとする。
カメラは固定されず、終始揺れ動き、ストーリーも揺れ動く。
由宇子の天秤も揺れ動くが、最後に何らかの結論は必要だったのではないだろうか。
交通事故は便利だが、安易なストーリー展開だ。
そして、ラストシーンは意味不明。
三半規管が揺れ動き、気持ち悪い上に、ストーリーもはっきりしない、そんな、結論のない芸術作品に触れたい方は、ぜひご覧ください!
笑えないFargo
Fargoはかなり極端な性格や境遇な人がたまたま運悪く集まってしまい、どんどん悲惨な事が起こります。事件はかなり残酷ではありますが、登場人物はそれぞれ自分の家族や行動原理を結構真剣に守るので、それが滑稽に写り、笑っちゃいけないのに笑えます。
本作は極端な人が集まっていないので、リアリティが保たれており、その分極端な事件は基本起こりません。ちょうど中学生日記みたいです。しかし、それでも全く世の中うまくいかず悪い方向に進んで気、休まる暇がありません。
『ようこそ映画音響の世界へ』で映画における音の重要性を学びましたが、本作は劇伴が全くなく環境音のみです。悲しむべき時に音楽でそれを示してくれないので、どう感じるかは見る側に完全に任されています。このため、始終居心地が悪い状態に置かれ、登場人物それそれの生活について心配してしまいます。それが作り手の狙いであれば大成功ですが、作品の重要性を理解しても2時間半この状態に置かれるので見る人を選びます。この作品が配信されても自宅のテレビで集中して見ることは困難でしょう。劇場で鑑賞する意義は十分ありますが高い評価をつけるのもどうかしらとも考えました。
気になったこと、自動車が練馬ナンバーで駅の商店街は私鉄の規模ですが、団地や病院は関東平野の郊外の雰囲気で、事件現場とのバランスが悪い気がしました。『スペシャルアクターズ』の優しい弟君が、高校生に化けています。
天秤の如く揺れ動く正義のあり方
社会の闇を裏表すべて曝け出す秀作。報道の偏りと情報化社会による正義の暴力。自分の尺度で正しさを振り翳すことが正解か否か。天秤のように目紛しく移り変わる視点が凄まじく、胸騒ぎが常におさまらない。ラストは今年の映画の中でも随一の衝撃。素晴らしい映画を観た。
『サマーフィルムにのって』の河合優実さんめちゃくちゃ良かったな。それと今作は食事シーンが多くてとても印象的だった。食を共にすることで、乱れた均衡が元に戻っていくような…
社会派?では無くダークエンタメ
CGをガンガン使って、超人気俳優を惜しみなく起用して、なんて大作からすれば真逆。でもこんなに心揺さぶられる作品はそうは無い。正しさとは?と堅苦しい副題がついてはいるが、社会派の作品と言うよりかは個人的には「ダークエンターテイメント」
由宇子とは生き方も行動も相入れない自分には、ラストの展開は「そらみたことか」と。そこで気づかされる観る側の業。エンドロールをぼんやり見ながら、ああ、あの登場人物たち、あんた達がある意味正解だわなと。こりゃ本当に「正しさ」とは何なのかなと。今年一番の意欲作。ぜひ映画館で。
多面的な正義感
春本監督は云います。
「人間を描くことこそが、社会をあぶりだすんだ」と。
まさにこの映画は、現代日本の在り方を描いた映画でした。
事無かれ主義に同調圧力で問題をうやむやにし、誰も責任を取らず、何もなかったかのように本質をすり替え、やり過ごす。
警察官僚がレイプしたお友達ジャーナリストの逮捕状を取り下げたり、財務省の決算文書改ざんを苦に自殺した赤木さんしかり、当の本人は、真っ当な成敗を受けることなく、歪んだ正義の代償が陰惨な形でそこら中で溢れ出ているように思います。
まさにこれらは、氷山の一角であり、ただただ表に出ていないだけで、うまくやりすごされた例は五万とあるように思います。
だが、もし自分がその当事者になったらどうするのか。
右の正義か、はたまた左の正義か。
真実に蓋をすることは出来ません。
この映画は、最後カメラを視聴者に向け問いかけます。
あなたならどうしますか? と。
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