「片時も目を離すことができなかった」聖なる犯罪者 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
片時も目を離すことができなかった
カトリックの神父は身分証が必要らしい。しかし本作品を観て思った。・・・2000年前のイエス・キリストは、身分証を持っていたのか。時代からして身分証はないにしても、何らかの権威の裏付けがあったのか。それとも権力の後ろ盾があったのか。当然ながらそんなものは何もなかった。むしろ権威のある者から迫害され、権力から弾圧されていた存在であった。
本作品には多くのテーマが盛り込まれているが、大別すると二つに分かれる。即ち、人はどこまで人を赦さないのか、あるいは赦すのかというテーマがひとつ。そしてもうひとつのテーマは、カトリック教会という権威は人を救うことができないのではないかということである。印象的なセリフがふたつある。「赦すとは愛することだ」と「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」である。
前者は聖書の言葉「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書第5章)そのままである。主人公トマシュ神父ことダニエルは、ユニークな説教で村人たちの心を掴みつつあった。そこで彼はさらに進んで、村人たちに彼らが憎んでいる男を赦し愛せるか、その覚悟を迫っていく。
その裏でダニエルは自分の正体を見破られはしないかという不安に怯えつつ、村人たちとの触れ合いの中で、次第に聖職者としての自信を持つようになる。同時に権威や権力を疑うようになる。教会や教皇庁の権威さえ例外ではない。少年院で聖書を教わり、村に来てからは一層熱が入って聖書を読むようになったダニエルは、真の信仰は権威や権力とは無縁であることに気づいたのだ。そこで出たのが後者の言葉である。
ダニエルにミサを託した神父は「自分は告解では救われなかった」と告白する。それを聞いたダニエルは、教会の中には権威だけがあって信仰も救いもないことを悟ったに違いない。託されたミサの説教の場面でダニエルは言う「神は教会の外にいる」。
一方で若い肉体は背徳の欲望を抑えきれない。村人に信仰を説くその陰では酒を飲みタバコを吸い薬をやる。ロックを聞きながら踊り女を抱く。ダニエルに限らず人間は矛盾に満ちていて、はかないものだ。それは信仰のはかなさに直接的に結びつく。本作品は信仰を表現しているのではない。人間を描いているのだ。イエスは人の弱さを嘆き、信仰の薄さを嘆いた。しかしもしイエスが現れたら、愛されるのは教会か、ダニエルか。答えは言うまでもないだろう。
ストーリーは一本道で必然的である。救われようとしていたダニエルの魂は権威と権力によって脆くも壊れてしまう。彼は何を赦し、何を赦さなかったのか。そして何が彼を赦すのか。ダニエルによってもう少しで救われようとしていた村人たちの魂も、やはり権威と権力によって押し潰されてしまった。しかしもしかしたらダニエルによって救われた魂もあったかもしれない。静かに進む作品だが、片時も目を離すことができなかった。