「それでも科学を切り拓く」映画 太陽の子 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
それでも科学を切り拓く
唯一の被曝国である日本。
そんな日本が戦時中、密かに原爆開発を進めていた…。
知らなかった事に驚き。…いや、衝撃。
私が歴史に疎いだけで、知っている人は知っているし、普通に知られていた事かもしれない。
自分はまだまだ何と浅はかな…。
それにしても…。
監督が広島の図書館で見付けた若き科学者の日記が基。
その日記に綴られていたのは、当時最先端の学問であった原子物理学への憧れとそれを研究する事によって拓ける未来、兵器として使われる事への葛藤、携わった若者たちの等身大の姿…。
これらを映像化したいと思い至ったという。
実に10年に及ぶ熱望の企画。
1945年夏。京都帝国大学は軍から戦局を変える一打として、原子爆弾開発の要請を受ける。
理論上は可能。が、実際は極めて困難。
その研究に没頭する教授や学生ら科学者たち。
彼らの胸中。
科学者としての光栄。全く新しい世界への研究。
科学と未来。これによって世界を変える。明るく、輝かしい未来の為に。
その一方…
知れば知るほど難しく、恐ろしい原子。
それを兵器として開発する。
それに、自分たちが携わっている…。
まだ誰も成し遂げた事のない未知の分野。
研究は遅々として進まない。
科学者として、他国に遅れ、負けたくない。
が、苦悩、葛藤、焦りが彼らを苦しめる。
議論や衝突、自問自答も繰り返すように…。
日本原子物理学の権威と云われる荒勝文策ら実在の人物も登場するが、若者たちはおそらくモデルは居るだろうが、フィクション。その分自由に“素の顔”を拡げられる。
主人公の修は超が付くほどの“実験バカ”。純粋に科学者として、この研究に誰よりも没頭していたが…。
そんな修は大学の外に出ると、元々の物静かな性格と不器用さでごくごく平凡な青年。母と暮らす。
ある日、家を失った幼馴染みの世津が病弱の父と共にやっかいになる。
戦地に赴いていた修の弟・裕之が療養の為に一時帰還。
幼い頃から仲良しだった三人。まだ戦争が始まる前、皆で一緒に遊んだあの頃…。
そんな日々が突然、戻ってきたかのように。
研究室では憔悴する修にとっては癒しの時と存在。
それは二人にとっても同じ。
明るい性格の裕之。だが戦地ではどんな光景を目の当たりにし、どんな修羅場を潜り抜けてきただろう。
世津など病弱の父を抱え、その世話をし、父や生活や自分の為に何か仕事もしなければならない。
皆それぞれの苦悩、苦労。
それが共に過ごす事によって、ほんの少しでも…。
三人共、お年頃。
逞しい好青年に。魅力的な女性に。
それを察知して、地味な自分は遠慮し…。
男二人女一人の青春と淡い想い。
裕之が再び戦地へ。ある夜の海で、本音を吐き出す。怖い。死にたくない。
日々研究を続ける修。科学を信じて…。
戦争が終わったら教師になりたい世津。戦争の時代に生まれた子供たちの新たな教育と、大人の責任。
生、科学、教育…。
皆それぞれ抱く未来や平和への希望。
元々は2020年夏にNHKで放送され、高い評価を得たTVドラマ。
それに異なる視点や結末などを加え、“劇場版”として再構築した本作。
TVドラマ版は見ていなかったので、一本の作品としてじっくりと鑑賞出来た。
柳楽優弥の迫真の演技。物静かな佇まいから、原爆開発に対して見せる狂気じみた執念、終盤の無音の中でおにぎりを食べながら流す涙…。
個人的には、これで三浦春馬が生前出演した映画作品最後の鑑賞となった。(最後の“主演”映画作品は『天外者』、最後の“出演”映画作品は『ブレイブ』があるが、リリース順に)
トレードマークの爽やかな笑顔、その下で本当はかかえる苦しみ…。それらを滲ませた好演を今も目にしただけでも…。
有村架純は二人から想いを寄せられながらも、自立心ある若い女性役で魅せてくれる。
若き科学者たちを演じた若手俳優たちも熱演。
國村準、イッセー尾形、田中裕子らベテラン。中でも田中裕子は、科学者と一兵の息子を持つ母親を、優しさと彼ら共々苦悩/葛藤含ませた演技で存在感を見せる。
修が脳内で対話するアインシュタインの声に、ピーター・ストーメア。
他スタッフにもハリウッドの一流スタッフが携わっている。
映像、音楽、美術…高クオリティー。
ストーリー展開の上で多少描き足りない点も感じたが、真摯なテーマやメッセージは受け取った。
日米共同製作。あの戦争を経て、この二つの国が原爆を扱った作品を共同で製作した事に、平和への祈りを感じた。
未だ研究が進まぬ中、遂にその日がやって来た。
8月6日。
開発競争に負けた。
それはつまり、日本が科学でアメリカに負けたという事でもある。
そしてこの時彼らは確信しただろう。日本は戦争でもアメリカに負けた、と…。
修の家にもある一報が…。
時代に翻弄され、全てを失ったかのよう。
そんなにある日研究室の面々は、広島の被曝地へ赴く事に。
開発競争に負けたからとは言え、“研究”自体を止める訳にはいかない。その調査。
いざ目の当たりにした悲惨な光景に、彼らはどう思っただろう。
我々は、これを作り出そうとしていた。
もし自分たちが作り、アメリカに原爆が落とされていたら、科学者として喜んでいただろうか。
敵国とは言え、何の罪もなく、顔も知らず、我々と同じごく平凡な人々。
そんな人たちが、こんな犠牲と地獄のような光景に遭っていたかもしれない…。
そしてそうなってしまったのは、我々日本と日本人…。
ヘンな言い方かもしれないが、彼らが作り出そうとしていたものが、彼らの全てを消し去った。
あまりにも皮肉と言えよう。
その後の修の動向。
感情を内に押し留めたように、ひたすら研究に没頭。
あの光景を見て、気でも狂ったのか。
それとも、あの光景を見て、尚更兵器活用ではなく科学の為に…と、邁進するように思ったのか。
異常な考えまで。次の原爆は京都に落とされるらしい…という噂。比叡山に登り、その頂きから京都に原爆が落とされる一部始終を見て、記録したい…。
(尚、史実ではこの異常な考えを発したのは荒勝だとか)
ラストシーン。アインシュタインと脳内対話しながら焚き火を見つめる。
焚き火。“発熱”という原爆開発に於いても基本で初歩的でもある物理学。
原爆もここから生まれたのかもしれない。
新たなる力、新たなる物質、新たなる恐怖、新たなる未来、新たなる未知…。
科学という世界。
何故人は時に科学を通じて未来が拓き、時に愚かな過ちを犯すのか。
答えなどない。
一度足を取られたら抜けられない底無し沼。
しかしだからこそ科学者たちはいつの世も、科学を追い続ける。