映画 太陽の子のレビュー・感想・評価
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日本の原爆開発計画と戦火の翻弄される3人の若者の悲劇を追いかける作...
日本の原爆開発計画と戦火の翻弄される3人の若者の悲劇を追いかける作品を8Kで撮影している。8Kと時代ものの相性はどう考えたらいいだろう。はっきり映りすぎていて、時代を感じないというか。「スパイの妻」の黒沢清監督も苦労されたようだが、あまりにはっきり映りすぎるのも考えものだなと思ってしまう。8Kは超クリアに映ってしまうので、セットも衣装もごまかしはきかない。日本ではNHKくらいの予算がないと手を出せないんじゃないかなあと思った。
映画そのものは、良い作品だ。原爆被害国の日本でも実は原爆の開発を進めていたという実態と科学者たちの葛藤と業の深さを浮き彫りにしていた。三浦春馬の役どころが、現実とダブって切なくなる。最も未来を見据えているのが、女性の有村架純というのは現代を意識した部分か。原爆の恐ろしさを知りつつ物理学者として魅了されてもいる主人公を演じる柳楽優弥が的確に演じていた。目が純粋すぎて怖いのだ。
あまり知られていない戦時中の日本の現実と、「これから」を考える上で示唆に富んだバランスの良い映画。
まず正直に言うと、三浦春馬さんの遺作でなければ見なかった気がします。ただ、結果的に「見て良かった」と思いました。
舞台は、第二次世界大戦の末期を迎えた日本。あまり知られていない「日本で作ろうとしていた原子爆弾の実話」をベースに、フィクションも交え当時を描き出しています。
当時、劣勢に立っていた日本では形勢逆転を狙い、海軍からの依頼で京都帝国大学(現・京都大学)の物理学研究室で「核分裂のエネルギー」を利用した「原子爆弾」の開発が行なわれていたのです。
理系だけでなく文系でも理解できるように、ウランから核分裂反応をするウラン235の取り出し方、濃縮ウランの作り方などがCGを使って分かりやすくなっています。
様々な葛藤を抱えながらの現場で、教授が諭す以下の言葉はかなり示唆に富む本質的な論だと思います。
「この戦争は何で始まったんやろ? エネルギーや。土地も鉱物も人間はエネルギー資源を求めて戦争をする。先の戦争もそうやった。
我々が核分裂をコントロールして、そのエネルギーを自由に使うことができるようになったら、人間のエネルギー問題は永久に解決するはずや。そしたら、戦争は無くなる。
戦争をやっているのは事実だ。それなら世界を変えたい。世界を変えるために科学をする、原子物理学をやる」
ただ、この論に欠点があるとしたら、バランス論の面でしょうか。
ウラン235の取り出し、ウランの濃縮度を100%近くすると「原子爆弾」となり、広島や長崎のような惨劇が生まれてしまいます。
一方で、ウランの濃縮度を3~5%にするだけで「原子力発電」ができ、エネルギー問題は理論上は永久に解決します。
とは言え、濃縮ウランのパワーは、僅か濃縮度3~5%でさえ強烈で、3.11のような惨劇を生み出したりもするわけです。
三浦春馬さんが演じる戦地から一時帰宅している裕之が「いっぱい未来の話をしよう」と前向きに話しますが、それは必ずしも戦時中の話ではなく、現在にもつながる重要なシーンでしょう。
気丈にふるまっていた裕之が不意にみせた涙なども今となってはリアリティーを、より感じます。
主人公の柳楽優弥が演じる科学を学ぶ修の言動から、改めて「戦争」の多面的な面を感じられます。多面性を見事に演じ切ったのは流石の演技力でした。
有村架純の演じる世津からは、「戦争なんて早う終わればいい。勝っても負けても変わらん!」「いま日本は物もお金も使い果たしている。そん時に大事なんは人や、教育や」といった極めて真っ当なセリフなど、有村架純の演技だからこそ沁みる言葉が多くあります。
このように、様々な面で示唆に富む名作だと思います。
ちなみに、NHKで2020年8月15日に「太陽の子」が放送されたのは「80分のダイジェスト版」で、ようやく本作で1時間53分という全編が見られ、「かなり印象の違う作品」に仕上がっています。
題材的に、期待したほどではなかった作品
主要キャスト3人の名前だけでチョイス。
鑑賞後。3人の演技はやっぱり良かった。にも関わらず、中盤で寝落ち。なぜ?
テンポが悪かったせいだと思う。
とにかくテンポが悪い。
途中で、マンガの「タッチ」みたいな恋愛話だと感じたけど、
寝落ちするほどだから、大した展開じゃなかったのだろう。
日本も原爆作ってて、アメリカに先にやられました、みたいな話だったけど、
眠たすぎて、あまり覚えてない。
戦争モノで、人の生死がかかってる題材で眠たくなるなんて、
私がよほど酷い人間なのか、
脚本がダメかの、二択しかないだろう。
終盤の山登りも、なんか変だなあと思いながら、
すぐ山降りて広島行って、なんか変だなあ地獄が続く。
言語化できない自分がもどかしいが、
冒頭からラストまで、退屈だなあと変だなあを延々繰り返す作品だった。
着地点
善も悪もない。
この作品から感じる「概念」
太陽から連想する核分裂
それを探す研究者たち
一方英語から感じる神からの贈り物である火
問題は、その使い方なのかもしれない。
さて、
比叡山から原爆を見学したいという純粋なシュウの思いは、科学という名の狂気を表現している。
シュウは何も気づかないうちに、それがあるべき姿だと信じて疑わない。
そしてあの長い尺を使ったおにぎりを食べるシーン
弟が部隊に戻る時と同じ弁当
しかし見送りなどはない。
母がおにぎりを握るシーンがあるが、そこに込められた母の思いが母の手を伝いおにぎりに注がれているのがわかる。
そのおにぎりを食べながら見えてきた母の思いが、次第にシュウの心に届いて行く。
京都が、人が、すべてが消え失せる光景
やっと気づいた科学の狂気
転がるように下山するシュウ
聞こえてくるセツの声
何故セツはシュウを呼びに来たのだろう?
最後にシュウは誰かに英語で語りかける。
その英語は物語の途中にも挿入されている。
科学の言葉
あれは、アインシュタインだったのではないのか?
彼の理論を追いかけていたシュウは、科学そのものに憑りつかれてしまう。
シュウはアインシュタインに広島の現状について「こんな結果を予測しましたか?」と問いかける。
つまりこれが科学のしていることだと。
シュウの問いかけにアインシュタイン、または科学者の代表は「これは結果ではなく科学進歩の過程だ」という。
「破壊は美しい」 恐ろしい言葉
これはシュウがセツに話したきれいな緑色の光と呼応する。
ピカドンの光
そして「これはだれにも止められない。今までもこれからも続く」
「科学は人間を超えてゆく」
アレンジされたアインシュタインと科学の言葉だと思うが、その言葉には母の手から出る温かいエネルギーは一切感じない。
でも、それも人間たる所以で、一側面なのだろう。
最後に三人で一緒に海にいるシーンがあるが、あれは、もし戦争がなかったらの世界を表現したのだろう。
無邪気な子供 その子供たちが「早く結婚して子供をたくさん産んでお国に捧げたい」などという狂気の言葉に対する真逆の描写。
「そもそもこの戦争は何故始まったのか?」教授の言葉 エネルギー問題
だが、
実際エネルギー問題の解決で戦争がなくなることはない。
覇権が利権に変わり、今では企業が戦争に介入している。
この物語では科学と狂気をモチーフにしているが、資本主義も共産主義も狂気に違いない。
シュウにはアインシュタインの言葉に対する大いなる疑問がが浮かんでいる。
この疑問こそがこの作品の着地点だったのだろう。
善も悪もない。
それは確かにそうだ。
しかし科学はすぐに盲信する。
それは行き過ぎた資本主義や共産主義と同じ。
科学だけに特化して言えば、「母の手から出るエネルギーの謎を解き明かしなさい」と私は言いたい。
なかなか面白い着地点だった。
可も無く不可も無く
主題は何?
開発というには お粗末すぎる研究
材料が入手できない時点で、目標は達成不可能なことは確定している
なのに劇中では「開発競争に負けた」と悔しがっている。
なぜ制作側はこういう脚本にしたのか理解できない。
研究の当事者なら、自分が足元にも及ばない状態であったことは認識して
いたはず。諦めはあったかもしれないが、悔しがるのは不相応。
それよりも死者を悼めと思う。
臨界に到達できなかったので、アメリカのデーモン・コアのような事故が
起きずに済んだが、もし十分な材料があれば確実に関係者は事故死したろう。
エンディングは、生き残った研究員の活動記録の写真だろうか。
終戦後の研究の礎になったとでも言いたいのだろうか。
飛行機開発や様々な開発競争で、わずかな差で日本が及ばなかったという
物語は何度も映画化されているが、ここまで大差があった分野での映画は
初めて見た。
一応研究してました、的な作品だろうか。理解できない
母の全てが詰まったおにぎり
ラストのおにぎりを頬張り下山するシーンは母の思いがちゃんと伝わったことを意味する感動の場面です。まず主人公の修が何度も母に対する思いを吐露しますが、母の気持ちとは裏腹に一貫して自分は愛されていないと思い込んでいます。母から弟の訃報を聞かされた際に母が口にした「なんであの子が死ななあかんの」を自分が死ぬべきだったと言われたかのように捉えていて、その直後に科学者として徹底して生きることを選び、街が爆撃に襲われる様を山から観測するという非人道的な提案をして教授を絶句させるほど思い詰めてます。
食事シーンが度々出てくるが戦時中でわずかな食料しかないため、長時間研究に没頭する学生達に振る舞われるのはお椀1杯だけの具材の少ない味噌汁や家の食事も質素な料理ばかり。そんな中印象深くお米を扱う場面が、弟が家に戻った時のちらし寿司と陶器屋の娘の仏壇に供えられた白飯と弟が出兵する際の母が握るおにぎり、そしてラストのおにぎりです。
修は母を置き去りに科学者として別れも告げず夜中一人で山へ向かう際、玄関にぽつんと置かれた覚えのないお弁当を持って出て行きます。夏の炎天下の中汗だくになりながら山頂に辿り着き疲労困憊で横になり、腹を空かせて弁当を持ってきたことをふと思い出す。弁当を開けおにぎりが入っていたことに少し戸惑いながら夢中で食べ進める。貴重なおにぎりを食べながらそこで初めて自分は母に愛されていることにようやく気がつく。
母が科学者の母として京都に留まることを選んだのは愛していない息子に対する戒めの業ではなく、科学の為に京都中の人を見殺しにする息子が自分の家族だけ生き残る引け目を軽くするため、自らの死をもって科学の進歩を少しでも正当化するために選んだ命をかけた最大限の母の愛の選択です。自分が山を離れれば母を救えると思い泣きながら夢中で母の元へと駆け出す。
下山した時に世津が迎えに来たのはおそらく終戦の知らせがあったのだと思います。その後の脳内のアインシュタインとの議論は、科学の進歩は際限なく強大で、科学を進歩させることが人間にとって本当に正しい行いなのかを問いていたので、修が科学の研究をやめることを示唆してるのかなと思う。エンドロール直前の海で弟と世津の3人で遊ぶシーンは、弟が無邪気に遊んでいることから出兵前の思い詰めた弟と世津の3人で海に行った実在する記憶のワンシーンではなく、終戦後の修が本当に実現したかった世界です。キャスト全員がとてつもない演技力でどこを切り取っても圧巻だが、山頂に辿り着いてからの柳楽優弥の演技が本当に素晴らしく心がうたれるのでどうかもう一度だけ注意深く見て欲しいです。
長々と書きましたが文章を書くのが下手っぴなので伝わったか分かりませんが、最後まで読んでくれてありがとう
できれば劇場で見たかった作品
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戦時中、柳楽は優秀で、原爆開発に携わってた。
そのおかげで戦争に行かなくて良かった。
弟の春馬は戦争に行ってて、一時帰国した。
そんなこんなで原爆が広島に落ちた。
柳楽は、次は京都かも知れんから見届けると言う。
それって自殺みたいなもんやんけ。
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あんまりピンと来なかったな。
最近は劇場で見るのが常になり、TV画面じゃ集中力が低い。
やっぱりその世界に入り込めんよな、TV画面じゃ。
でも日本も原爆研究しとったんやな。知らんかったわ。
登場人物はみんな暗くないが、どこか闇を抱えてる。
戦時中ってそういう雰囲気やったんやろな・・。
劇中で春馬くんが絶望して自殺しようとするシーンがある。
やっぱり何か色々考えさせられたりはしたわな。
人間なんて、そう強い生き物じゃないんやから。
夏に観る映画としてオススメ
後半ちょっと失速して内容としてはそんなに面白いものではなかったけれど、いい作品だったし、すごく「映画」してると感じた。
核分裂を模した光の粒のシーンや、花火の美しさの話が後半どう活きてくるのかと期待したけれど、ほとんど関係なくなってしまったのは残念。
てっきり兄弟二人と世津の三角関係が核反応のように展開するのだと思ったんだけど。
全体的に長めのカットが多く、重厚な雰囲気があるのはいい。
特にラスト近くの、柳楽優弥演じる修がにぎり飯を食べるシーンはかなり良かった。多分泣くんだろうなと身構えていて、やはり泣いたわけだが、普通にもらい泣きしてしまうほどだった。長回しとまではいかないが、このシーンが結構長くて、その長さ故に泣けてしまった気がするんだ。
そんなわけで、メチャクチャ面白いということはないけれど、なかなか良い作品で夏に観る戦争映画の一本としては見やすくてオススメな気がする。
伝えたいことはシンプルだと思った。
3回視聴。さらに観るだろう。
"日本の原爆開発"を再現した映画で興味深い。
映画と同時進行で走ったプロジェクト、ドキュメンタリー「原子の力を解放せよ〜戦争に翻弄された核物理学者たち〜」(NHK BS1、2020/8/16放送、司会:吉川晃司)は、Youtubeで視聴可。
本作の研究チームを見ていると、STAP細胞をめぐる利権の闇を思い出す。
TVではアインシュタインばかり取り上げるが、ニコラ・テスラについては静か過ぎて不気味だ。
主人公とアインシュタインの会話(?)は、まるで宮﨑駿の「風立ちぬ」のよう。
歴史も数字も隠蔽、捏造が当たり前の世界で、たとえ真実を握ってもNHKはデクラスしない。
受信料を払っている国民がスポンサーだと思っていたら間違い。
そのNHKのプロジェクト映画なので、当然期待はしないし、以上のことを承知で視聴した。
三浦春馬氏(以下「彼」という)は映画上映時は既にいなかった。これも引っ掛かる。
パンフレットによると、彼が試写を観て「大事な作品が生まれましたね。あとはそれをどうやって届けていくか。そこを頑張りましょう」とあった。
生きる意志と目的を感じるコメントだが、パンフレットは回収しなくて大丈夫なのか。
他殺の証拠をあえて残したということなのか。
本作の伝えたいことはシンプルだと思った。
科学者や物理学者、F研究に関わった本人達は人類の明るい未来を目指していたのだ。
映画のクオリティや細かい再現度については、良くも悪くもNHKらしい。
権威などに忖度して激しさを圧し殺した大人しい映画であった。
原爆投下後、かなり月日が経ってから広島に行ったと思われるシーン。
投下後はしばらく足の踏み場もないくらい死体だらけだったはず。
スッキリ死体を片付けられた現場に、なぜか幼い被災者が1人いるシチュエーションがある。そのそばに親と思われる死体も。
そして死体を焼くシーン。
リアリティがないけど、凄惨なイメージのための演出なのか。
被爆についてもサラッとしか言及せず。
脚本めちゃくちゃでしょ。私の頭が悪いだけなのかな。
原子爆弾は投下ではなく地上起爆だったかもしれない。
勿論そのことは映画では触れない。
しかし、どこかに密かに入れてるかと期待して何度も視聴中…バイアスかけて無理やり見つけ出すのが目標。
「原子爆弾」って左から右に書いてるシーンに違和感を感じたが、その違和感は誤解だった。
当時の日本人は右から左に書いていた。
しかし、翻訳者が英語に混ぜて書いたらそうなるかもしれない。
エンドロール中の裸になるシーン。
誰かの回想シーンなのか。
それとも、弟は生きてたということか。
弟役の彼も、もしかしたら生きてるのか。
彼はこの映画を本当に視聴したのか疑問だ。
パンフレットすら怪しく感じる。
なんだかんだ言っても真実は分かりかねる。
本作は色々と謎だらけで怖い。
俳優の姿に価値を感じて、結局お気に入りの作品なのだ。
命懸けで戦った人たちが夢見た「平和」とは
兄のヒロユキは雲の上で戦っている時、なんで自分は戦っているのかという気持ちを押し殺しながら、一機でも多く撃ち落としてやると全てを捧げていただろう。 家に一時的に戻った時でも、今も仲間が日本のために戦っていて、死んでいる事実はあって、アメリカのグラマンやシコルスキーが出ていることもあり、もうそろそろ戦争が終わりそうなことは知っていたからこそ、自分だけ生き残りたくないとまで思ってしまったのかもしれない。国のために命を捧げなければならない意味を探して、もがき苦しんで、死ななければならない理由を自分で結論づけていた。温かいお母さんのそばにずっといたかっただろう。大好きなセツの元にいたかっただろうな。
修は、今まで、コマのまわり方に疑問を持ったりと、ただただ自分の知らない化学の世界をもっともっと知りたいという気持ちだけで化学をやっていた。日本中が戦争モードになっていて、気づいたら、戦争のために化学をしていた。戦争に兄の自分が行かず、弟に行かせるという大きな決断をするほどに、化学がしたっかった。自分が大好きな科学で戦争がなくなる世界を目指して研究をしていると自分を納得させ、大好きな科学を続けた。
でも、広島へ原爆が落ちた。自分の大好きな、ゆういつ自身の持てる科学で負けた。絶対に負けてはならないと思い込んでいた科学で負けた。天皇陛下が神であるとどこかで本気で信じていたのだ。だからこそ、まだ終わってないと、まだ間に合うと、比叡山に登った。現実を受け入れられなかった。もしかしたら京都に原爆が落とされるかもしれないと、延暦寺へ登った。お母さんの作ったおにぎりを食べながら、いろんなことを考えただろう、たいせつな家族に会いたいと思っただろう。
でもセツの声が聞こえてきた。やっぱり自分の一番守りたいものの声が聞こえた瞬間に、彼は化学を手放して、愛を抱きしめた。
何もかも手放して、愛する人の元へ向かえることほど幸せなことはないのかもしれない。
この人たちが夢見た未来の日本の中に私たちは生きているんだと実感した。彼らが望んでいた日本の未来は「平和」だったということ、私は、太陽の子を観て、今の日本の姿を命懸けで戦った人たちに見せることができるのかと考えさせられた。自分と違う考え方の人を受け入れず、誹謗中傷して人が死ぬ時代だ。戦争と同じだ。そんな世の中のために彼らは戦ったのか。絶対に違う筈だ。私たちは戦争があったことを知り、悲しいねだけで終わらせることはあってはならない。太陽の子は、私たちの未来のために、自分がどう生きていくべきか考えるための映画だ。
最後のシーンの謎 ~比叡山でのおにぎりシーン~
三浦春馬が出演していることで視聴。京都大学の原爆開発に携わった学生石村修(柳楽優弥)を中心に、特攻隊搭乗員の弟(三浦春馬)、幼馴染の節(有村架純)の3人がメインのストーリー展開。科学の進歩による戦争や破壊と人道主義のバランスの問題がテーマか。実話を基にした脚本なの
で、限界があるのだろうが全体的に中途半端な感じがした。伝えようとした物を伝えきれていないといったらよいのか。
三浦春馬は、予想通りの演技。特攻隊として出陣する前、届いた手紙は、まるで彼の遺書のように聞こえてしまった。柳楽優弥は、科学に純粋に没頭したいが故に、あまり人の感情がわからない人物像で描かれる。
あの時期、軍人を中心に、男子は如何に戦い死ぬかを考えていただろうが、そこで節が戦争が終わった後のことを考えていたシーンは、なかなか良かった。男子には、あまりない視点だったか。
科学の進歩を純粋に突き詰め、戦争がない未来を創るための原爆開発という教授の説明を信じ、修は開発にのめりこむのだが、広島の惨状を実際に目の当たりにして、次は地元の京都に落とされるかもしれないとの噂に、比叡山で様子を観察するために登ると言い出すあたりが白眉か。
それを聞いた母(田中裕子)は、科学者の親だから残ると言い出す。
母が握った大きなおむすびを頬張りながら、山の中で待つ修。突然、思い立って山を下りだし、節と抱き合う。かなりわかりにくいシーンだ。文脈から行くと、ここで待つということは、おにぎりを握ってくれた母や節を見殺しして、科学の進歩を選ぶということ。自然の中に抱かれて、素の自分に戻り、それで良いのかと涙を流したのではなかろうか。(と共に、節が呼ぶ声や戦争が終わったという声が聞こえたのかもしれない)節が探しに来たのは、終戦の玉音放送を聞いたからか。天気の良い日だったし。
科学が進歩するためには、人の命をも犠牲にする必要があるのか?身近な人が亡くなることにも臆せず、進まなければならないのか?
アインシュタインとの対話。彼は、そのような事態を予期していたのか。科学は人間をも超えていく。これは、私たちにも突き付けられたテーマなのだろう。
未来の話をたくさんしよう
科学の根本の原子を突き詰めていくとどうなるか。
恐ろしいことを言わはるなぁ。
そこに尽きる。開発競争に巻き込まれる京大研究室。
科学を突き詰めるとエネルギーの解放と破壊、そこには一瞬にして人体の原子の結びつきを変え、人体を石にし、人体の水分を沸騰させ剥けた皮が爪で止まり垂れ下がる地獄絵図と化す。
人間の心が大切に思う守りたい気持ちなど、科学の原理には通用しない。
科学者として学問を突き詰める純粋な気持ちは、
たとえその時が戦時下でなかったとしても、
机上を実際に試そうとすれば、それは人体に影響と危険を及ぼす。
原子力でも、遺伝子でも、同じ事ではないのかな。
作中、研究が殺人と紙一重と学者一同自覚をし、葛藤をしている。そこに、進んで、勝つためやアメリカ人の命を狙うために、落としたいとまで望む物は1人も出てこない。
そうなのだ戦争の惨禍は、誰も望まずに起こる。
それは科学にも組織論にも国際学にも経済学にも通ずるが、でも確かに人間が引き起こすこと。
命がある有り難みを実感し、
命の危険と隣り合わせの時、生きたいと直感し、
大切な人に生きていて欲しいと望み、
自分の命をどう使うのか、考え抜いて悩み、
できれば平和のため、日本の未来のために使いたい、
そう望む、自分の属する人類自体が、
兵器よりも恐ろしい、戦争自体を引き起こす。
下手すれば、意思を持って、
人は人殺しにもなってしまう。
自分がそういう種の生物だということが、
度々末恐ろしく、この作品も、
見終えてしばらく鳥肌が止まらない。
兵器を極めて、牽制し合う世界平和。
弾で一瞬で死ぬ人体、一瞬で狂う幸せな気持ち。
そこに大量殺戮を計画して、
苦しみと憎しみと復讐を生んで、何になる?
武器を売買して資金確保し、石油を取り合い、これをやっているから国が資源と食糧を確保し餓死せず済む仕組み。人類は恐ろしい。
開発戦争に負けました!とはっきり言わせるこの映画の製作はイオン系か。。
終戦まで未来ある学生を守った先生。
研究の、戦争の、更にその先の、未来を考えなければいけないと繰り返し作中でもメッセージが出てくる。
本当にその通り。
密かに弟の方が大切なのかなと感じる兄だったが、
母はちゃんと見ているし、
どちらにも特大おにぎりを作って、
帰宅を願い送り出す。
食い縛り生きているが戦争終われと秘める世津、
空爆を見る一瞬の三浦春馬の視線から、
あぁ裕之は憎しみも知ってしまったとわかる描写、
どんな時も平静な修の感じていた困惑と責任と喪失が、
比叡山で静かに溢れ出す描写。
演出意識の高い過剰な描写は出てこず、
落ち着いた台詞と表情の中でも、
伝わってくる人間的感情の数々に、
ますます戦争が怖い。
未来を考えよう。
口に出すのも憚られるおぞましい光景は確実に含まれていないはず。
期待したのに
映画版として三浦春馬さん扮する裕之が出撃寸前に終戦になり奇跡的に生還して本人は亡き戦友に忸怩たる想いを抱きつつも母、修、世津の
気持ちに応えるべく前向きに生きて行く、となるのだったら、終了日にギリギリ観に行く事はなかったかなぁ、と思ってしまいました。
終了日の早さに驚き予定変更して駆けつけました。
NHKの放送日に3回視聴しました。
ストーリーがぶつ切りの印象だったので映画に期待しましたが、原子力爆弾作りに関しての内容が肉付けされたぐらい?ただ、教授の物言いだと本気で完成させるより優秀な教え子を戦地で散らせないための苦肉の策ともあり、なるほどとは思いました。
偏見かもしれませんが、教授の考えも一理あると思いました。中学生ぐらいの時に、
『きけ、わだつみの声』を読んだ時、京大生の人のもあり、頭脳明晰な人達も同じように亡くなったんだ、‥‥この優秀な人達が生きていたら日本はまた違っていたのかな、と思ったことがあります。
優生思想に陥りそうですが、今の日本の実情を見るにつけ誰か国民の事を真に考え導いてくれる人はいないものか、と思ってしまいます。
命は皆平等で重みに違いは無いのでいろんな分野の貴重な人材を亡くしてもいるし、多くの方の息子、恋人、夫、兄弟、父を奪ってしまったのです。もちろん非戦闘員の人達の命も。
現在のアフガニスタンの国情を見聞きするにつけ産まれる所によってこうも不幸な人生を送らねばならないのか、とも考えてしまいます。
あまり期待した程ではなかったので残念。
裕之、修、世津の3人が若者らしく海で戯れるシーンが最後に観れて良かったかな。
福山さんについては、春馬さんのガリレオ出演に際してのコメントに呆れていましたので用もあり聞かずに退席しました。しかし、他の方のレビューで春馬さんのメイキング映像があった事を知りガーン!
戦争と科学者の苦悩
戦争をなくするために、近視眼的には目先の困難を打開して戦局を有利に転換するために、戦争の道具である原子爆弾を開発するというのは、それ自体、にわかにはおかしな考え方とは断言できませんが…(「パワーバランス(力の均衡がもたらす平和)」という考え方には、是非の両論がある。)。
科学者の荒勝教授(國村隼)としては、純粋に、またもっと根本的に、科学の進展によって争いのない世の中を希求していたのかも知れません。
あるいは、目先の軍事研究を軍部から受託することで、日本の将来を担う白眉の若者を一人でも二人でも、戦地に送らずに済ませたかったのかも知れません。
いずにしても、「戦争と科学との関係」「戦争と科学者としては関わり」ということの考察については、面白い一本だったと思います。評論子は。
〈映画のことば〉
なぁ、この戦争はなんで始まったんやろ。
エネルギーや。土地も、鉱物も、人間はエネルギー資源を求めて戦争をする。先の戦争も、そうやった。
我々が核分裂をコントロールして、そのエネルギーを自由に使えるようになったら、人間のエネルギー問題は、永久に解決するはずや。そしたら、戦争はなくなる。
わしも、この戦争に大義があるとは、とても思えん。けど、いま日本は戦争をやっとる。それは、どうしようもない事実や。それなら、世界を変えたい。世界を変えるために、科学をする。原子物理学をやる。
三浦春馬、柳楽優弥、有村架純の三人が縁側で未来を語るシーンが泣ける。
三浦春馬、生前最後の出演作品。
日本での原子爆弾の研究には、陸軍による二号研究、海軍によるF研究があったのですが、この作品はF研究の方を描いています。
NHKのテレビ放送の方でも見たのですが、こちらの方が時間も長く、物語の背景も描かれているので、わかりやすいです。
タイトルにも記した通り、三浦春馬、柳楽優弥、有村架純の三人が、縁側で未来を語るシーンが印象的なのですが、あのシーンで有村架純が、三浦春馬と柳楽優弥の手を握ったのは、アドリブだったと、のちに有村架純が語っていました。なんか、手を握りたくなったのだと。良いシーンです。
戦争の狂気だとか、残されたものの悲しみだとか、行くものの悲しみだとかいろんなものが描かれています。物語として、どこかで盛り上がるわけでもないのですが、全体を通してみて見て、とってもいい作品だと思います。
おにぎりシーンは意味不明
原爆開発に携わった京大の学生を太陽の子と呼ぶのだろうか、核融合も核分裂も核エネルギー反応として一括りにして美化したような表現、タイトルに違和感を禁じ得ない。
日本人は唯一の核爆弾の被害者だが裏を明かせば原爆を作ろうとしていた事実は、どっちもどっちというところ、軍国主義の宿命とは分かっていても傷口に塩を塗られた気分にさせられる。
また、米国に合作を申し入れたというのも、あなたたちへの免罪符になる映画ですよと言うことなら噴飯もの。
戦争に巻き込まれた若者の葛藤、悲劇という点では数多の作品で描かれているので凡庸の感、最後の山頂でのおにぎりシーンの長回しは意味不明、当時、銀シャリと言われた貴重な米飯を学生ふぜいが頬張れたのは何故なのか、また視線の先に異変勃発のような思わせぶり、まさか京都に原爆投下かい?
(脱線です)
原子物理学の研究は戦前から始まっており、その優秀さは後の湯川博士、朝永博士らのノーベル賞受賞でも明らかですね。
原爆開発に着手したのは陸軍からの命を託された理研の仁科研究室が中心で、後に海軍が京大の荒勝研究室に原爆の元となるウラン235の生成を依頼した。
本作は後者の研究所を描いています。原材料は陶磁器の釉薬の着色剤として用いられていた硝酸ウラニル (ウランの硝酸塩)、京大は京都市五条坂の陶磁器専門の薬品問屋から仕入れていたようです。
ウラン鉱石は国内では希少、児玉誉士夫の一党が上海などから隠密裏に調達していたともいう、理研の方は福島の石川郡石川町から学徒動員で掘り出された鉱石を使っていたらしい。福島にウラン鉱脈があったと言うのも因縁めいていて背筋が寒い。
核分裂の連鎖には濃縮されたウラン235が必要だが天然には僅かしか含まれておらず分離や濃縮方法が鍵となる。劇中でも遠心分離法での実験が映されていましたね。理研の方法は熱拡散法であったがいずれの方法でも大量生成は困難だった、マンハッタン計画では気体拡散法でウラン235の濃度をある程度まで高めてから電磁法に掛ける方法が採られた。
従って、日本は基礎研究はしていたが実用化は無理だったと言うのが定説のようだ。
ところが、信憑性は定かでないが日本軍は北朝鮮の興南で原爆を製造しており1945年8月12日早朝、北朝鮮興南沖にて海上爆発に成功していたというCIA機密情報があるそうだ。
直後に関係者は侵攻したソ連軍に拉致されたという。ひょっとして今の北朝鮮の核開発のルーツは日本軍に合ったのか・・。どうせ映画にするなら、こちらの視点の方が興味深いですが、ヒューマンドラマでは無くなってしまいますね。
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